世界史こぼれ話』抜粋(8) | すべてはうまくいっている! 光と心の調和

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「いやぁ、人間って本当に愉快ですね~」水野晴郎風
というわけで、今回も引き続き『世界史こぼれ話1~6』(三浦一郎/角川文庫・絶版)から抜粋した有名人の逸話シリーズ。

今回は『世界史こぼれ話(2)(3)』より。

ピカソのエピソードもたびたび出てくるが、ピカソの洗礼名は ''パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ(Pablo, Diego, José, Francisco de Paula, Juan Nepomuceno, María de los Remedios, Crispin, Cripriano, de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso)’’
落語の「寿限無」みたいね。

1冊に400~600のエピソードが収録されているので、毎度のことながらいつまでたってもなかなか先へ進まない。今回は(2)(3)からの抜粋。

「知らねーよ」という人物もいるでしょうが。。
太字がタイトルで、( )の説明は私が付け足した。

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根本的理解
ある人がアインシュタイン夫人に「あなたは相対性原理が理解おできになる?」ときいた。夫人の答。「いいえ。けれどもわたしはアインシュタインをよく理解しております」


昆虫記的観察
ファーブル(1823年生/生物学者:著作『昆虫記』)はナポレオン三世に謁見した日の日記に次のように書いた。「短い半ズボンに、銀の留金のついた靴をはいた式武官たちが、行ったり来たりしていた。彼らの姿と歩きぶりは、フロックコートをきたこがね虫のようだった・・・」


大そうじがわり
葛飾北斎(1760年生/江戸後期の浮世絵師:『富嶽三十六景』等)は「引っ越しはオレの道楽だ」といって一日に三度引っ越したことさえあった。というのも彼はそうじぎらいで自分でしないばかりか人にもさせなかったので、部屋中ゴミだらけになり、どこかに引っ越しするより他に方法がなくなるからだった。


定価厳守
武田信玄に仕えた永田徳本(1513年生/戦国時代~江戸初期の医者:「十六文先生」「医聖」とも呼ばれる)という医者は、薬代としては、誰からも十六文以上はとらなかった。将軍家光の難病も、彼のもった薬でなおったが、徳本は将軍からさえも十六文以上はもらおうとしなかった。


ジョー談音楽
鏡花(泉鏡花1873年生/小説家:『高野聖』等)は紅葉(尾崎紅葉1868年/小説家:『金色夜叉』等)の書生となったので時に師にしかられることもあった。ところが紅葉の叱言中に混じる皮肉や警句がおもしろくて、鏡花はしかられながらもおもわずにやにやしてしまうのだった。これがおもしろくて、叱られてみたいとさえ時には思うのだった。


証人出頭
ある編集者が漱石(夏目漱石)に面会を求めた。取次に入った女中に「いないといえ」という漱石の声が玄関まで聞こえた。女中が出て来ると、編集者が「先生の声がしたじゃないか」といった。すると漱石が飛び出してきて「いないからいないんだ」


影の人
ハイネ(1797年生/ドイツの詩人・作家)の友人にキッツラーという篤学の士があって、つねに著作に専念していたが、かれの本は一度も出版されたことがなかった。かれは自説に反対の著作を読むと、それに感心して、自分の原稿を火の中に投ずる癖があったのである。


ナ・プ・キ・ン
若いころのピカソ(1881年生/スペイン生まれのフランスの画家・彫刻家:キュビズム創始者)は、たいへん貧しかった。よく友人たちが集まって、彼のところで食事をしたが、ナプキンが一枚しか無い。ピカソの恋人はその一枚のナプキンを出していつもいった。「さあ、仲よく皆さんでナプキンの四隅を一つずつ使ってください」


大事なことがら
池大雅は、あるとき、馬術師のところへ出かけていって「なにとぞ馬からの落ち方を教えてください」とたのんだ。馬術師があきれていると、池大雅はすまして「旅先では馬に乗ることが多いが、わたしは馬術を知らないから、落ちて怪我をすると大変ですから」


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