これまで、初期仏教は『智慧』で、大乗仏教は『信仰』。同じ仏教の名がついてはいても、まったくそのベクトルは異なる、というようなことをいってきた。で、初期仏教の説く『智慧(心の仕組み)』の方が優れているかのようなニュアンスを醸し出してきたけれど、本当はあまりそうは考えていないのだ。
なぜ「智慧」から「信仰」、逆の姿へ変貌を遂げたのか?
そこにものすごく興味がある。
必然ではなかったのか、と。
つまり『智慧(心の仕組み)』を得ることで、本当に人を救えるか?
「初期仏教は、『身水甕のごとく脆し(ダンマパダ 法句経)』(この身は水瓶のように脆い)と人の心を冷徹に直視し、「それを前にたじろぐことなく、人の理性と智慧のみを武器として人の苦に立ち向かうべし」。
原始仏典の諸解説からは以上のようなことが読み取れるわけですが、言い方をかえれば、その智慧は透徹した「観察と分析」に拠るものである、ともいえる。
「分析」というのはアリストテレスによると「与えられた混沌たる全体を、限定し規定してゆく道をたどること」だそうで、大雑把にいえば単純化・抽象化によって本質的なもの(法則)をあぶり出す作業ってことでしょうか。
仏教用語の『観』にも「分かち見る」という意味があり、そこにはすでに「分析」が含まれている。同様に『分別・沙汰』も沙石から黄金を沙(よ)り分けることを喩えたもの。
ちなみにこれって、精神医学や心理学の手法にものすごく近い。
ブッダは心の仕組みについて、分析という手法を用いて思索し『五薀』や『六処』といった認識を経て、最後に仏教の根幹となる『縁起の法則』に辿り着いた。つまり「心(精神)の法則」。ここらへんが初期仏教が当時において、哲学や心理学の役割も果していたといわれる所以。人としての志は別として、ブッダは知力において大学者でもあったわけ。
原始仏典の秀逸な解説があまた溢れる今だからこそ、教育によってある程度の論理的思考力を有していれば、たとえば『縁起』についても観念的に理解することは可能でしょう。(そんな簡単に解るものじゃない!というご意見もございましょうが)
しかし、当時の生きるために必死に額に汗して働いていた一般の人々が、もしゴータマ・ブッダの分析的思惟の集大成『縁起の理法(法則)』の教えを聞いたとしても、どこまで理解できたかといえば非常に疑問なのだ。「スンバラスィ方の教えだば、きっとスンバラシィにちがいねえけど、よぐわがんねゃ・・・」といったところではなかったか。ブッダも、自ら説いた教えが大衆にすんなり受け入れられると期待していたかといえば、それも疑問。
NHKで数年前、梅原猛氏が中学生に仏教の話をするという番組があった。詳細は忘れたが梅原氏が授業の中で、主に初期仏教の思想、「仏教とは人間が生きてゆくための智慧である」「自己の拠り所は自己のみ」といったようなことを仏教用語を交えて熱く語るのだ。
で、中学生の反応はというと、ほとんどの生徒が「( ゚Д゚)ポカーン?・・・」。氏がいったい何を言いたいのか理解できないか、理解できた子にしても「それがなにか?・・・」という感じではなかったかと思います。それがすごく面白かった。
何が面白かったかというと、私を含め「初期仏教の思想」に出会って感動しちゃう人間というのは、ひょっとして、これまでの日本仏教(信仰を軸とする大乗仏教)に関わりの深い人間‥‥が圧倒的に多いのでははないか、と思ったから。つまり、これまでの既成の(日本)仏教自体を知らない中学生にとっちゃ、仏教思想というのは他の哲学論同様、突然聞いても「なんのこっちゃ? ( ゚Д゚)ポカーン?・・・」でしかないのね。
ブッダの時代の一般庶民や下層階級の人々も、初期仏教との出合いに於いては、現代の中学生の反応とたいした違いは無かったのではないか‥‥とそのとき勝手に直感してしまったのである。ぶっちゃけていえば、すばらしい教えではあるけれど、実生活に役に立つの? ということなのだ。
どんどん脇道にそれてきた。
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