武道伝来記 巻ニの三

『身袋破る落書の團(うちわ)
          〜水浴せのじゃじゃ馬作る事』

 
こちらも衆道要素ZERO〜なのでサラっと。



─────────



阿波の国(徳島)の奥田戸右衛門の一人娘は京育ちのとても美人で、彼女に恋心を抱く者は多かった。
けれど戸右衛門は婿養子にもらって、奥田の家を継がせたいと望むと、あちこちから養子を望む男が沢山いた。

その中に篠原文助という人と縁があり、新年には祝言を挙げる事が決まった。

若者たちが集まって、文助に水掛祝いをやろうと言い出し、反対する者は居なかった。

若者達は手分けして、金箔の手桶五十、銀箔の柄杓五十本、落書きのウチワなどなど、様々用意した。
(結婚を控えた仲間に悪ノリしてしまったのでしょうね)

見物人も大勢集まり、老中の耳にも伝わってしまった。

「これは先年より御法度(禁止)であれば、この掟に背く者、詮索すべし」と詮議され、みんな知らんぷりをした。

文助は堪忍ならず、落書のウチワの書付を見て
「これは千塚(ちづか)林兵衛の手跡に間違いない。林兵衛は従兄弟だというのに!」と余計に腹立たしく思い、その夜家を訪ねて理由も言わずに斬り捨ててしまった。

ウチワの落書を書いたのは林兵衛ではなく、杉森新蔵という人で、文助は早まってしまったのである。
文助はそのまま姿をくらました。

新蔵は「自分の事で林兵衛が討たれてしまった。
この上は自分が文助を討って林兵衛に手向けよう」と、当てもなく文助を探して彷徨ったが、体調を崩して、他国の地で亡くなってしまった。


さてさて。
林兵衛の子・林太郎は、この時まだ二歳。
女房は故郷(備前)に帰り、林太郎が成人したら憎き文助を討たせようと大願を掛けていた。

林太郎が十一歳の時、読み書きを学ぶ為、津の国の金龍寺に預けた。
林太郎はさすが筋目を現し、他の稚児よりおとなしく、十四になる頃には和尚が恋慕するほどになった。
(かと言って恋には発展しない……


その麓に伊勢寺というところがあり、篠原文助は自休と名を変えてここに暮らしていた。

ある年の正月、文助は金龍寺を詣でて和尚に
「今日は千塚の何某の十三回忌にあたります。
拙者の従兄弟なのですが、思いもかけない事で亡くなってしまいました。どうぞお弔いください」

そこに林太郎がお茶を運んで来て、その話を聞いてしまい、脇差を抜いて文助に飛びかかるのを、文助は素早く避けた。

和尚や周りのものは「何事か」と驚いたが、文助は少しも取り乱さず、

「皆様、落ち着いて下さい。
あなたは林兵衛の倅、林太郎ですね。
林兵衛が亡くなった時にはまだ二歳でしたが、あれから十三年、今年十四歳になられたのですね。
兼ねてから、十五になれば私を狙ってくるだろうと思い、その時には此方から名乗り出るつもりでおりました。
林兵衛もさぞ喜んでいる事でしょう。
さぁ本望を遂げて下さい」

と林太郎の剣に手をかけ、自分の腹に差し込んだ。
林太郎はとどめを刺し、御寺には暇乞いをして、その首を持ち故郷に帰って喜んで母と対面した。


この沙汰は世に知られ、文助の女房はこれを聞きつけ、林兵衛の女房が泊まっていた宿に「夫の敵討ち!」と乗り込んでいった。

林太郎が「心得たり」と出て行くのを母親は引き止め、
「互いに女の勝負です。手出ししないように」
そして文助の女房と暫く戦ったが、命までは取らなかった。

「いかに女といえど、道理は聞き分けて下さい。
夫の恨みと言うのであれば、元々は文助殿が林兵衛殿を討ったから、林太郎が親の敵を討ったのであり、あなたが我らを恨むのは浅はかな事です。
文助殿は謝罪の心があったからこそ、この度討たれたのです。さすがは武士の生き様。
討つも討たれるも、先の世の因果。今を持って互いに恨みはなしにしましょう」

と言い聞かせれば、文助の後家も涙を流して
「これは恥ずかしい、私が浅はかに思い立った事、どうぞお許し下さい」
そのまま自害しようとするので、慌てて留め、
「それほど思うならば、私と一緒に出家して文助殿をお弔いしましょう」

そうして二人の女は出家し、林太郎も髪を剃って里々を巡る托鉢となり、二人の跡を供養した。



─────────



本当にちょっとした切っ掛けで刃傷沙汰に発展するのが恐ろしい。

ちょっとした事、というのは現代の感覚で、武士にとっては到底許し難い事なのでしょう。

文助の潔さは良いですね。これぞ武士。
林太郎母も賛美してますよ。
討たれる側は嫌な奴が多いのですが、文助には好感持てます。

そもそも文助の結婚を悪ノリした友人達も悪いのですから。(その中に林兵衛がいたのかどうか。もし居たとしたら、少しはそちらにも責任ありそうです)

林太郎を前にした文助の態度は爽やかでした。
奥田氏が娘の婿に見初めた男なのですかね。