気になる古典の備忘録・やや衆道
11月の読書メモ『AX』伊坂幸太郎このシリーズ大好きですとにかく面白い。文庫で集めてるので、買うのは文庫になってから。でも待ちきれなくて図書館で予約…半年くらい待ちました(待てるじゃん)奥さんに頭の上がらない殺し屋「兜」。凄腕なのに。ラスト、ほろりとしてしまいます。前二作に登場する殺し屋たちの名前がチラっと出てくるのも嬉しいですね。『古道具屋 皆塵堂』輪渡 颯介江戸町人オカルトもの…とでも言いますか。曰くありげな古道具と幽霊の見える主人公。好き系でした。続きも読んでみようと思います『また、桜の国で』須賀しのぶ第二次世界大戦化のポーランドが舞台。ナチスの侵攻、ユダヤ人迫害、ゲットー、ワルシャワ蜂起。何度も地図からその国名が消えた国。それでもポーランド人としての誇りを無くさない精神は日本の武士道に重なります。重たい内容ですが、読んで良かった。国、人種を超えた友情に感動しました。『暗殺者、野風』武内涼悲しい過去を持つ刺客の女の子が主人公です。めっちゃ強い。気持ち良いくらいに強くてカッコ良いのです。そして背景には武田vs上杉。ラストの舞台は第4次川中島!フィクションではありますが、信玄の元で15歳の真田昌幸が登場するのです。戦国時代の人では真田昌幸好きなので、「お」となりました今月はこの他に「みをつくし料理帖」6〜10も読了です。なかなか読んだ方だと思います皆塵堂の続きと須賀しのぶさんの別の本が手元にあるので、来月はその辺りを読みます。
読み終わったー!『みをつくし料理帖』後半、主人公ばかりに困難や試練があったり、ご都合展開が目立って、ちょっと中弛みしましたが、それでもやはりラストは良かったです。故郷に戻る選択をするとは、流石です。本の最後の折り込みの番付にジーンとしました。信念を曲げず真面目にコツコツ生きていれば、それを分かってくれる人が必ずいます。そんな人たちが自然と集まって、助けてくれたり一緒に泣いたり喜んだりみんなそれぞれの道で幸せになって欲しいですね
10月の読書メモ『あきない世傳 金と銀』高田郁面白い。呉服屋のご寮さんとなった主人公の幸。店の主人三代(三兄弟)へ続けて嫁ぐというのは現代の感覚では「え❓」ってなるけど、暖簾を守る為の事。これからどうなっていくのか、気になります。『アルバトロスは羽ばたかない』七河迦南あれ?順番が違ってしまった『七つの海を〜』から読むはずが!……のお陰か(?)それほどトリックを真に受けずに済んでしまったのかも。一人称の叙述トリック?途中途中に違和感ありまくりでしたが、これがこの人の文体なのだろうと、頑張って読みました。文章が読みにくく好みではないけれど、そのうち慣れるでしょう『七つの海を照らす星』七河迦南というわけで、一冊目を借りてきました。これがデビュー作なのですね。面白かったです。息の長い個性的な文章にも慣れましたジャンルとしては人の死なない日常ミステリなのですが、舞台が児童養護施設という事もあり、子供の抱える様々な問題が物語の幅を広げています。連続している短編がラストで一つに集結します。日常ミステリーといえば、昨年坂木司さんの本にはまって読み漁ってましたが、他の方のを読んだ事がありませんでしたね『空耳の森』七河迦南短編集。ですが『七つの海を〜』からの三冊目です。これは一体誰の話?と思いながら読み進め、ラストで一気に感動へ。二冊目『アルバトロスは〜』のその後もあり、ここまで読んで良かったです。『九月が永遠に続けば』沼田まほかる失踪した息子、事故死した愛人、元旦那の再婚相手の過去、その娘の自殺…。複雑な人間関係のサスペンス。主人公に共感できなかった。やっぱり『ユリゴコロ』が一番好きだわ『雲上雲下』朝井まかてやはり好きです朝井まかてさん。ファンタジーというより、懐かしさを覚える日本の原風景。まかて版日本昔話がラストに向かって一つになり、現代の子供と親へ。確かに、いわゆる昔話を読み聞かせる親は少なくなったかもしれないけど、現代の絵本や物語にも成長に影響を与えるような面白く素晴らしい物語は沢山あると思うし、読み聞かせする親は沢山いるでしょう。しかし草どん、子狐、山姥の雰囲気が良くて(この三人をずっと眺めていたい感じ)、読み終わるのが勿体ないような感覚になる一冊でした。そういう本って手元に置いておきたくなる。最近ぼちぼちと、まかてさんの本を再読しながら書い集めたりしてます
『万世百物語』から不思議なお話を一つ。─────────────『男色の密契』(巻二ノ四)あだし夢。丹波国篠山の高仙寺は、横川の鶏足院という天台宗の末寺である。学徒に兵部卿の律師・不聞坊という者がいた。不聞坊は門弥という少年と心ざし深く付き合っていたが、住持のもとを憚り、安易に会う事も難しかった。されど思う心は浅からず、門弥は夜が更けて人が静まった後、折々、兵部卿の寮に通い、下紐を打ち解け、明け方には早く起きて帰っていく事が常であった。不聞坊も門弥のこのような心ざしを見て、格別な情けに思いの炎も燃え上がる心地で、忘れる間もなく、切ないため息を吐くのだった。ある夜、また夜更けに門弥がやって来た。静かに寮の戸の音がしたが、それは周りを忍ぶ為である。不聞は宵より間違える事なく、その気配を思い続けていたので、早くも(音を)聞きつけ、また今宵も道の露を通わせてしまったが、その辛さは自らの袖に置き換えよう、と詫びれば「やはり、今宵も短い逢瀬です」と添い臥しなされようとする。その嬉しさに小笹の露などどうとでもなる、と戯れて、いつものようにしめかやに伏した。三更の月(子の刻)になり、時間のゆとりもなく深夜の鐘に目覚めて、不聞は何やら物恐ろしい心地がして、そっと手を差し出し門弥の後ろ姿を髪より撫ぜれば、それとも分からず、長さ大きさ、まるで普賢菩薩の召し物に添い臥ししているような様子に、人とも思えない。驚くままに撫ぜる手にも力が入った。かの者も驚いて、ヒシッと不聞に抱きついた。心得たり、とそれから、上になり下になり、一世の力の限りと組み合って捻じ合ううちに、辺りの寮からも聞きつけて、(身分の)上下の者が駆けつけた。「盗人が入った!ここを開け給え!」と口々に怒鳴り散らしたが、(門弥が忍んで来ている事は)人を憚る事なので戸は内からしっかりと閉めているから開くはずもない。集まった者どもが我慢し兼ねて、戸を押し破って雪崩れ込んでくる音に、化け物は堪らず逃げ出した。不聞だけは、魂も無くすばかりに息も絶え絶え座っていた。「どういう事だ」と周りは問うが、そもそも(密会は)憚る事なので、どうにも説明出来ない。ただ「何か来て、恐ろしい目にあった」とばかり言う。それから垢離(こり:水行)かき打ち、震えるところへ、修行陀羅尼などやって来た。不聞は「皆々、恐ろしいので、一緒に居て給え」と言って、だんだんとその夜は明けて行った。翌日、ひそかに門弥に問えば「昨夜に限っては、夜遅くまでお客人が来ていて、何処へも出かけておりません」と言うではないか。今更なんとなく恐ろしさも増して、不聞は本物の人と会う事さえ煩わしくなり、仏に懺悔した。それからは恋の道も辞めてしまった。「いかなる者とも分からないが」と不聞は語っていたが法の掟を犯させる罪を憎いと思し召す仏の仕業であろう。─────────────冒頭の「あだし夢」は「儚い夢」とでも言い換えたら良いのでしょうか。健気に通って来ていたのに、狸か狐か仏様のせいでフラれてしまっただろう門弥くん。一悶着あったのでしょうか?修羅場とか。なるほど儚い夢ですね
もう一つ!『古今著聞集』より─────────────『仁和寺の佐法印、 山吹着たる童と和歌を唱和の事』仁和寺の佐(すけ)の法印は、わかくて(?)醍醐の桜会見物のついでに、寺中巡礼をした時に山吹色の衣を着た童が二人、同じ姿で桜を見ておられたのが、どちらもたいそう艶やかに思われたので、堪え兼ねて歌を詠み掛けた。山吹の 花色衣 見てしより 井手のかはづの ねをのみぞなく自らこの様に言い掛けて逃げようとする法印の袖を、童が捕らえた。少し思案して、童は直ぐに歌をお返しなされた。山吹の 花色衣 あまたあれば 井手のかはづは たれと鳴くらん───────────『山吹色の衣の童は沢山居ますよ。かわづのように泣いていると仰いますが、誰を思っての事ですか?』…のような意味ですかね?歌を投げ掛けて、即逃げようとする法印さんの袖を捕まえて引き止める童、積極的です。こちらは脈ありそうですね最初の「わかくて」が良くわかりません。「若い時に」ってそのままで良いのかな?……醍醐寺の桜会って、出会いの場ですかね??
再び『古今著聞集』から。─────────────『宗順阿闍梨、醍醐の桜会にて 童舞の美童に歌を贈る事』醍醐寺での桜会で、童舞(わらべまい)の面白い年があった。源運という僧は、その当時少将の公といって、見目も良く、舞も周りより優れて見えた。この少将の公を宇治の宗順阿闍梨が見て、思いを抑えきれなかったのか、明くる日、少将の公の元へ歌を遣わせた。昨日みし すがたの池に 袖ぬれて しぼりかねぬと いかでしらせんこれに対し、少将の公の返事はあまた見し すがたの池の 影なれば たれゆゑしぼる 袂(たもと)なるらん当座に似合わしく風雅であった。中院の僧正(定遍)が見物なされていたが、これを聞いて、誠に風流な振る舞いであると感心して、同じ入道の右府(源雅定)に対面なさるついでに、この事をお話しされた。「とても風雅に思われた事でしたよ」と仰ると、入道殿は「歌は覚えてはおられないでしょう」と仰る。「それくらいはどうして、覚えておりますよ」と言い、「少将の公の元へ宗順阿闍梨がお遣わしなさったのは『きのふ見しにこそ袖はぬれしか』と詠んだところ、少将の公は『荒涼にこそぬれけれ』とお返しなさったのですよ」とお話しになられた。(歌の内容が全くのデタラメで、風流のカケラもない)堪え切れないほど滑稽なれど、これ程の高徳な方(中院の僧正)が真面目に仰られた事なので、入道殿が笑いを堪えないといけないのは、何とも仕方のない事であった。和歌の道は顕密知法にもよるものではない。(顕密知法に優れた者であっても和歌の道は別である」それだけに和歌が尊ばれる。同じ僧でも、昔の遍昭、今の覚忠、慈円などには似ていらっしゃらない事だ。(↑高僧で和歌にも優れている方々)─────────────阿闍梨が美童に歌を贈った話ではなく、それを噂する二人のお話しでしたね。阿闍梨の歌『昨日見たお美しい姿に(菅田の池に落ちて濡れた袖のように)涙で濡れた袖を絞り兼ねている事を、どうやってお知らせしようか』少将公『沢山の美しい童を見てきたあなた様です。菅田の池に映った影が誰のせいで袂を絞っておられるのか(わかりません)』……フラれたんですかね?
『古今著聞集』は……橘成季 編纂。各地の面白い話や出来事を集めた説話集です。歴史上の実在した人の名前が沢山なので、そこも面白い。ホントかよ?とツッコミたくなる話もありますが(百鬼夜行の類の話とか)441段の『強盗の棟梁大殿小殿が事』なんて、とても面白い話です。是非ドラマ化してほしい(イケメンで)でも今回は(ブログの趣旨にそって)稚児のお話でも紹介しようと思います。(割と有名だと思いますケド、あえて)三二三段『仁和寺の童千手参川が事』─────────────仁和寺・紫金台寺の御室(覚性法親王)には千手という御寵童がいた。容姿も美しく心映えも殊勝であり、笛を吹き、今様など謡う。御室も大変なご寵愛ぶりであった。その頃もう一人、参河という童が初参しお目見えした。参河は筝を弾き、歌を詠む。御室が参河をも寵愛されたので、千手の陰が少し薄くなり、千手は面目無しと思ったのか、退出して長い事姿を見せなかった。ある日、酒宴があった。様々な管弦や謡の御遊びがあり、御弟子の守覚法親王などもその場におられた。「千手は何故居られぬのでしょうか。召して笛を吹かせ、今様など歌わせたいものだ」と申され、すぐに御使者を遣わせた。しかし千手は『この度は体の具合が優れませぬ』と言って参らなかった。御使者を再三遣わせれば、そう断り続ける事も出来なくなり、千手は参上した。顕紋紗の水干に、袖には茨に留まった雀の刺繍がある。紫の裾濃の袴。殊更に鮮やかな装いであったが、千手は物想いに浸って、塞ぎ込んでいる様子に見えた。御室の御前に盃を参られた折であったので、人々が千手に今様を勧めた。千手は過去無数の諸仏にも 捨てられたるをば如何せん現在十万の浄土にも 往生すべき心なしたとひ罪業おもくとも 引接し給へ弥陀仏と歌った。『諸仏に捨てらるる…』ところを、少し小さな声で弱々しく言った。思い堪え兼ねる心の内が顕れて哀れであり、聞いた人は皆、涙を流した。酒宴の座も興醒めになり、しんみりと静まってしまったので、御室は堪え兼ねて、千手をお抱きになって御寝所へ入られてしまった。御室のお振る舞いに人々は驚き大騒ぎしているうちに、その夜も明けていった。翌朝、御室が御寝所を見渡してご覧になると、紅の薄い紙の二枚重ねになっているのを引き裂いて、歌の書かれたものが、御枕の小屏風に貼り付けてあった。尋ねべき 君ならませば 告げてまし 入りぬる山の 名をばそれとも訝しく思ってよくよくご覧になれば、参河の手跡であった。御室の昔の寵童への心変わりを見て、このように詠んだのであった。参河の行方をお尋ねになったが、行き先知れずになってしまった。高野山へ登って法師になったとか。─────────────今様で寵愛を取り戻した千手。容姿だけでなく、才能も愛された稚児。千手の方の気持ちはどうだったのか。フラフラしてる法親王に呆れてこの先ずっと冷めた気持ちで側に侍っていたら面白いです掌の上で法親王を転がしながら、ちょっとSっ気も出して欲しい(←?)千手と参川を寵愛なさったこの覚性法親王さん(仁和寺門跡/後白河天皇の弟)は、平経正(清盛の甥)に琵琶の名器『青山』を下賜した方だそうです。ソッチはソッチでいろいろあっただろうのぅところで。今東光の小説「稚児」がよく似てる展開です。(ここから着想した?と言われてるようで)今東光の方は、新参の稚児に寵を奪われ山を去った稚児(花若丸)は、悪僧の奸計によって人買いに連れ去られ…、それまで花若に陰ながら恋い焦がれていた身分の低い僧(慶算)が追い掛ける、という超良いところで終わってますその続きを見たいんじゃーアホー花若くんは無事なのか!?二人は再会できるのか!?二人の間に愛は芽生えるのか!!??こっから本編じゃろがー(あまりの消化不良で続きを二次創作してやった過去)短いので、是非読んで見てください(あ、今東光のをね)前に稚児物語にはあまり心惹かれないと何処かで書いたような気がします。何故かというと、女性の代わりにしか思えないからです。稚児物語もいろいろですが深窓の姫君に置き換えてみても、何の違和感もない!文を交わして、忍んで行って、引き裂かれ……。そして悲しみに泣き暮らし、儚くなりけり……(悲恋モノが多い)それよりはやはり男!という気の強さを見せて欲しいのです。そんなこんなで武家の衆道話が好みなのです。
再び『醒睡笑』より稚児の小話。食べ物の話を集めてみました。─────────────[159]八月十五夜の月見を迎え、坊主が沢山集まった。稚児も混じって眺めていた。大稚児が「あれ程の餅を抱えて、そろそろと(ゆっくりと)食えば、楽しいだろうなぁ」と囁くと、小稚児が「しかし大きさはあれ程で良いが、厚さが分からぬ」と言った。育ち盛りの食いしん坊の稚児にとっては厚みも重要なのですね「そろそろと」の言い方が良いです─────────────[165]大稚児を誰が可愛がったのか。とんでもない贅沢があったようで、寝ていながら「あぁ苦しや苦しや」と言うのを、小稚児が聞いて「何とて顔色も良く、病気でもなさそうだが、何故それほどに苦しいのか」と問うと「ただ食べ過ぎて体が熱い」と言う。小稚児は「うらやましい。そのような病なら、我もちと持病を持ちたいよ」最初の一文から分かるように僧に気に入られてお相手を務めると、どうやらご褒美にありつけるのでしょう。常に空腹な稚児にとって、一番のご褒美は食事だったのでしょうかね。「ちと」…が可愛いですね─────────────[168]山寺に稚児や法師が一緒に集まって、色々と物語をする折に、「正月にある事は五月にも必ずあるのだから、全ての祝い事や慎み事もしっかりするものぞ」と言う人がいた。稚児は「それならば正月にある事は五月にもあるのですね。あこ(私)はそのようには思わぬ。正月には餅を何度も見たし食ったが、五月の今日は十八日になっても、餅を一つも見ないではないか」解説によると、法師に混じって稚児も物語するのは、お相手の吟味(夜の相手の品定め)の場でもあったそうですよ。気に入られれば、お餅も食べられるかもしれませんね。にしても、餅の事ばかり考えてる稚児さま達─────────────[170]ある座敷にて。稚児がとろろ汁を、やたらおかわりするので、三位(寺の小僧)が怒って睨むと、「稚児のあこ(私)には然程の罪はないですよ。にらむなら、とろろを睨んで下され」と稚児は言った。とろろ汁が美味しかったのでしょうね─────────────[172]大稚児がいう。「あの三上山が飯であったなら、どうだろうね」小稚児のわっかりやすい返答。「湖がとろろなら、狙われるでしょうね」餅ととろろが大好物の稚児さま達三上山は滋賀県にある山。なので湖は琵琶湖なのでしょう。─────────────[173]延暦寺での事。下法師が山へ行く時、稚児に言った。「昼飯は棚に置いてある。九つ(正午頃)になったら召がるように」と教えた。この下法師は思いの外(用事が早く済んで)昼前に帰ってきた。棚を見れば、稚児の飯はない。「これはおかしい」と問うと、稚児は「とっくに食った」との返事。「まだ九つにはなっていないのに、何故食ったのか」と言えば、「否、今朝五つの鐘が鳴り、先程四つ鳴ったので、(合わせて)九つになったから、それで食った」と稚児は言った。賢い!というか屁理屈っぽい?というか。でも当然ですよって顔で言ってるかと思うと、笑っちゃいますね。可愛いです─────────────醒睡笑には稚児の話が非常に多いのです。稚児の生活状況など伝わってきますが、一日中食べ物の事ばかり考えてるみたいです。ほぼ食べ物の話です。育ち盛りの男の子だものね。
読書メモ『かがみの孤城』辻村深月ある共通点の七人がある場所で出会う。複数の共通点、ミスリードもあり、中盤から畳み掛けるように物語が展開していく。中学生という年代の現実、悩みや葛藤、ファンタジーの要素もあり、とても面白かった。さすが本屋大賞です。読み始め、宮部みゆきのブレイブストーリーっぽいと思ってた『イノセント・デイズ』早見和真元恋人にストーカーして、挙句その妻と双子の子供を放火殺人した主人公・幸乃。彼女に関わった人々の語りで各章が構成されていて、過去の事件や今回の放火の真実が明かされていく。一気読みでした。最後は救われない感じなのですが、幸乃が初めて抗って(死ぬために)生きようとしたその瞬間、読者への救いと信じたい。先日読んだ「かがみの孤城」の辻村さんが、解説を書いてらした。
『きのふはけふの物語』より──────────────「お若衆さま、弓矢八幡に誓って、ままならぬ命、このように思いつめております。露ばかりのお情けを下され」ある男が、(惚れた若衆に)いろいろ言葉を尽くして申せば、若衆はそれを聞いて「私も岩や木ではないので(人の情も分かるので)、ご心中お察し致しますが、とにかく念者が厳しくて思い通りにはならないのです。しかし、それほどに思って下るのであれば、永き契りを結びましょう。いざ、一箇所に身を投げて、同じ蓮の上に生まれる縁となりましょう」「さてさて、かたじけない事である。ならばお供致そう」と川のほとりへ行き、若衆が仰る。「いざ、手を取り組み死出の山、三途の川を超えましょう」「私の事はどのようになっても苦しくありません。まずは先にお急ぎ下され。最期を見届けてから追いつきましょう」と男が堅く約束するので、「ならば、六堂の辻で待っております」若衆は言い、身を投げた。「痛わしや。まだ十六歳程に見えたが、花のようなお姿を川の藻屑とされてしまうとは」男は心静かに念仏を唱えて、一首。南無といふ こゑのうちより 身をなげて あみだは水のそこにこそあれ「思えばつまらぬ事じゃ。生き残って後世を弔ってこそ、真実の志しであろう」と自分に意見して、一文字に駆け戻って行った。かの若衆は水練の達者で、水の底を潜り、川の脇へ上がって、道の先で男に行き会った。男は若衆の幽霊と思って肝をつぶし剃刀を抜いて八双に構えた。「いかに亡霊、良く聞け!必ず後を弔ってやるから、それがしを恨んで過ちを犯すな」と言い捨てて、男は後ろも振り返らず逃げて行った。──────────────なんやねん、この男……って若衆くんも、きっと思ったはずこの若衆(16才)には別に念者がいるのです。泳ぎの達者な彼は、言い寄ってきた男を上手くあしらう為(試す為?)に、心中を持ちかけたのでしょう。若衆くんの方が一枚上手なのですそう思います。そうなのでしょう。きっとそう。「またやったか…心中詐欺」と呆れながらお家で待ってる念者さん……がいたら面白いなぁ『きのふはけふの物語』と『醒睡笑』は類似の話か多いのですが、『きのうは〜』の方があからさまに下品です『一儀(房事)』についての笑い話がかなり多い。(夫婦だったり、衆道だったり)
『醒睡笑』よりもう一つ[126]─────────────ある者が恋い慕った若衆が東国へ下る事になった。悲しみの涙と共に大津まで見送り、泣く泣く汁谷越えを上った。清水寺の南に若松ヶ池というのがあり、男はその池のほとりで思った。「命があればこそこのような憂き目にもあうのだ。身を投げて死んでしまうのが良い」と帯を解き、池に頭際まで水に浸かったが、考えが変わり、急いで陸へ上がり、そこで一首。 君ゆえに 身をなげんとは 思えとも そこなる石に 額 あぶなし───────────死のうとしてる人が、底の石に頭ぶつけたら危ないって考えてる所が笑い所なのでしょうかね。『こんな念者さん、イヤだ』という話を次回もう一つ
久しぶりの更新です『醒睡笑』より[109]─────────────稚児の髪を結って差し上げる侍従が、ある朝「私の事をどれほど大切に思っていらっしゃるのか」と問うた。稚児は櫛の端に水を付け、その雫を落とし「この露ほどに大切ですよ」と言った。『面白くもない。どれほど奉公しても、むなしい事よ』と深く恨んだ時 ───露という 心をしらぬ はかなさよ 消ゆる計(はかり)に 思う我が身を 僧都源信人の身を 露のいのちと いひけるも つゐには野辺に をけばなりけり─────────これってちょっと切なくないですか櫛から落ちた露を『僅かしか』と受け取った侍従さんですが、稚児の方は『命が露のように消えてしまいそうな程大切に思っている』と伝えたかったのでしょう。露って「はかない」の例えです。両片思い的な二人、あぁすれ違い…と深読みして妄想を膨らませてみましたなのに最後の一首そうかコレがオチか。『醒睡笑』眠気も醒める程の笑い話……を集めた本なのですが、笑いどころが分からない話が多いですwww現代的な感覚では分からないのか、私が分からないのか多分両方でしょう。
今月は「みをつくし料理帖」5冊に加えて、下記の二冊でした『恋の川、春の町』風野真知雄ツイッターで新刊情報が流れてきて、気になっていた本。やっと図書館で順番が回って来ました江戸時代の戯作者、恋川春町が題材の小説。恋川春町は名前を知っていただけで、一作も作品を読んだことがありません。お洒落なペンネームだなぁと思っていたら、地名から、とは。どのような人だったのか。女に刺激を受けて、支えられて、励まされて、包まれて、情けないくらい頼ってる。男って結局、こうなのか。最期もなんだかなぁ。結局、呼び出しの用件って何だったのか。「尾行屋なんちゃら」出版されたのなら、読んでみたかった…風野さんの小説は他に「水の城」を読んだ事がありますが、文章が淡々としていて、劇的なシーンでも軽く流してしまう(…ように感じて)めっちゃ好きな空気感です『君の膵臓を食べたい』住野よる家にあったので。前半は捻くれた雰囲気の主人公に馴染めず、なかなか読み進まずダラダラしてましたが、後半一気に引き込まれて、泣きました日記を受け取ってホントの心情を知る、と予想通りの展開でも、やはり泣きますね。会話の応酬に深い意味があるのか無いのか。ただ相手をやり込める為だけの憎まれ口なのか。けれど改めて思うとちょっと哲学的なやりとり?
『みをつくし料理帖』ずっと気になっていたシリーズでしたが!『八朔の雪』実はシリーズを知人が纏めて貸してくれまして。一気読みしております。『花散らしの雨』『思い雲』面白いですそしてところどころホロリと泣かせられます。主人公の澪に好感持てますし、澪の周りの人々も良い人ばかり。苦難はありますが、自力(&周りの助け)で乗り越えるだけのパワーを持った主人公なので心地よいです。とりあえず1〜5巻まで。
さてさて。『武道伝来記』取り合えず八巻全部終わりました。お気に入りなんぞを好き勝手に書き出してみようと思います。やや衆道寄りに仇討ち決定戦『若衆盛りは宮城野の萩』やっぱりこれではないでしょうか??The・討ち入りもう一つ『毒手を請太刀の身』こちらは非常に話が込み入っていて読み応えがありますね。無駄死に『無分別は見越しの木登り』無駄死に、というか非常に後味の悪い結末。敵討ちに旅立った息子を案じて母親も途中から同行するのですが、その道中、追い剥ぎに遭い命を落としてしまいます。更に息子は敵討ちを遂げても認められず、死罪となってしまうのです。古風で厳格な昔ながらの武士を蔑ろにする、今風の成り上がり者に対しては厳しい結末が用意されているのが、「武道伝来記」の特徴でもありますね。(幡州の浦浪〜もそんな感じですかね)おすすめ念者さま『按摩とらする化物屋敷』とにかく念者さまがカッコ良い敵討ち旅の途中に知り合った仮初めの二人なのですが、旅を終え、それぞれの国へ帰った後も兄弟の因みを辞めず心を通わせていた。←コレが全てです。このラストに全てがつまっているのです!!そして良い念者さまには、やはり心意気の素晴らしい若衆が似合うのです。頂けない念者さま『惜しや前髪山嵐』なんだかなぁ、もう。多くは語らん…これぞ若衆『吟味は奥嶋の袴』こちらに登場するのは身分差カップルなのですが、それを乗り越え若衆くんが一途で潔くて爽やかです。権力にも屈しません。それだけに念者さんが訳も分からないまま死んでしまった事が悔やまれる若殿(と書いて馬鹿殿の読む)&お側の馬鹿。分かりやすい勧善懲悪です。女もすごいぞ『女も作れる男文字』姉の敵を妹が討つそして武士さながら潔く自決。カッコいいです。にしても女の嫉妬って面倒くさいですなんだかなぁ…もぉ『神木の咎めは弓矢八幡』何やってんの!?とツッコミたくなる話。キッカケもさる事ながら、誰が敵なのか間違えたままの若衆三人の敵討ちの旅。道中、行き合った娘を誰が先にオトすか等、呑気でわいわい楽しそう。愛しさとせつなさと…(古っ)『碓引べき垣生の琴』敵同士が契りを結んでしまう。良く考えたら、敵討ちしてないのですよ!この話!親子の義理、兄弟の義理、板挟みになって悩んだ末の心中。どうしてどうして出会ってしまったのか〜、ホントに切ないと、好き勝手に書いてみましたが…とにかく好きな話はやっぱり爽やかカップルが見事敵討ちを達成する『按摩とらする化物屋敷』です次点には、『吟味は奥嶋の袴』それと、ラストの若衆と念者弟のやりとりが印象的な『初茸狩は恋草の種』も捨てがたい
引き続き役者評判記より『役者大鑑合彩』(元禄5年)3…まず今吉彌の評から《あしの里をふりすて都の風がつれてゆけば。九重の花も枝をたはめ、一めみるより葉も落て。こぼれかゝるゝ春かすみ。雲の上村此吉彌と、御沙汰しばしもやまず。あつぱれ女がたの随一うへこすかたもあるまひ。他の役を勤めらるゝ方に、つめのさきをすこしせんじてすはせたし。このたび岩井氏松の官をえらるゝに付、此君故郷へもどらせ給ふ久◻︎たにての御げんかはらずうつくしひ御顔ばせ。ますをのすゝき入みだれ見にまからぬ人もなし。一、なかす事をさしてはうそともさらに思はれず。いつぞや八百五十年忌のしうたんの時、ぢごくの大将ゑんわうかたより、なみだ川の水まさりせきとめん事なきよし申こされ候。一、舞ぶり家の手すじ。すこしなん有。事の外らきまるゝ事いや。女ぞならばたをやかにめされてこそ。さながら何やらが有やうで気のどく。一、太刀打武道のせりふよし。一、かるい事。道明寺のおんりようなどふしぎに其妙をゑたり。小鷹和泉さへ五節句をつかはるゝげな。一、りんきさしてはおにも〜おみきはたんばのしゆてんのまご。一、諸芸こなしすぎて見にくしじまんと書し先評尤〜さりながら此春吉書妻定の大原の木売女、見てから恋がまします。一、此たびのかほみせにぼさつまわしの役おつとめ、玉だすきかけてのせりふ、しやほにどふもいはれぬまで。一、いしやうきらるゝ内に帯があがり過て、正面がほゞり〜〜とよがあけます。一、ぬれ事すこしぶゑてなり。是玉にきずしかれ共としのからつもりさはなしとかく十面かほつきおがむにゆるせ〜〜。其外は花に有。》難も書かれてますが、全体的に好評判。wikiに「ぴんとこな吉彌」の愛称で親しまれる、とあるけど、それ何処に書いてあるのか。……探してます。気になるとどうしても原文を見たくなるのです。そして辰彌。この本の刊行が亡くなってからなので、本人の評ではないのですが。ずっとその痕跡を追い求めて……。上むら辰彌《上村辰彌事は此世をうらみ、めいどこうせんのたび役者となり給ふ。これを思えば無情の世界。おしまぬ命とかへかへしてやりたしと、面かげに辰彌がすがた、みるたびにいやましのおもひまさる折から、此君かほ見せより出らるゝすがた上村のかたわれこれなんめり。》初代辰彌が冥土黄泉の旅役者となって(亡くなって)、二代目辰彌が顔見せした、という事らしいです。(元禄三年)続き《まつめんていとりなりよくうつり。扇子の品其まゝのひつせい。心をつけてみれば、どこやらがちがふに、さればこそ諸芸ういういしくこなれず、物ごしにてもつかず、ちよつと見し時はそれかとうたがひまよう事わたくしばかりにあらず、しかしにくからぬ人のうつりなればすえもたのもし。芸をよくみ付けあとより評せん。》よく見ればどこやら違う、とか芸が初々しいとか。それでも憎からぬ人の面影があるので、この先楽しみ。だとか。二代目はどんな子だったのでしょうかね。もう一つ、『役者大鑑』(元禄5年)より。上村三彌《すそのじだらくなとりなり。どこやら死んだうえ村辰彌がとりなりのやうにみゆるれど。辰彌がじだらくは見る人、口のうちに酢をためけるが。このきみのじだらくはなにとやらお笑止にみゆるといふ人あり。しかし後々けいがあがつたら酢のたまることも有べし。》裾のだらしない身なりが辰彌に似ているそう。(そんなトコ似てもあまり嬉しくないでしょうが)辰彌がだらしないのは口に酢がたまる(“口酸っぱく言う”とか言うから、そんなようなニュアンスなのかな?)が、この子のはちょっと気の毒で笑っちゃう──って事かな?でも芸が上がったら、やっばり酢のたまる事になるでしょう……。辰彌が亡くなった後にも、こうして名前が出されるのを見ると、人々の記憶に何やら残る人だった、という事でしょうね。
武道伝来記 巻八ノ四『行水でしるゝ人の身の程 〜伊賀の上野にて打治めたる刀箱の事』さぁラスト行くぜ〜っ─────────────雪が降り続く一面の雪景色。下野国、黒髪山も夜の間に景色は一変し、老人の白髪頭のように見えた。老人の昔語りで聞いたのが次の話である。那須の何某殿に勤めていた菅田(すげた)伝平、影山宇蔵の二人が言い出した。「今日の雪は素晴らしい。いざ追鳥狩りをして酒の肴に雉を四、五羽」ともう獲ったように皆に勧めた。いずれも血気盛んな若者たち三十人余り、誘い合わせて、軽装に支度をし、手にはそれぞれ棒、乳切木、または割竹で叩き立て、鳥が驚いて音を立て羽ばき弱った所を捕らえるのだった。ある人が言うには、「この原の殺生石に留まった鳥は、たちまち落ちて苦労せず掴み取り出来る」各々は「これは不思議」と、その石の辺りに行って見てきた所、その人の言ったとおりに違いなく、その石に留まろうとすれば、そのまま転げ落ちる。烏、鳶だけでなく、中でも鷺は脆かった。山鳥は己の命も知らず、石に飛び掛かっては落ちるのを、若者たちは皆、争って捕ろうと駆けつけ、未だ片息で駆け回る鳥をあちらこちらに追い詰めて遂には捕らえた。それから直ぐに鍋掛の里へ行き、鳥を毛焼きして、萩芝など焚べて、酒盛りをして寒さを凌ぐのだった。菅田伝平が言うには、「かの石から落ちた鳥を食べると必ず当たると言うが、それも人によるだろう」その生温い風習に我慢出来ない若者たち。「命など惜しくはない」と鳥の丸焼きを頭まで残さず無茶食いした。その中で熊川茂七郎が思案顔をして手をつけないのを見て、分別ある者はいずれも控えて(鳥を食べずに)酒ばかり飲んでいた。これに高砂丹兵衛は横手を打って「茂七郎は長生きする。鳥を食べぬ人々は五百八十年も生き残ってみたまえ」と繰り返し四、五回言う。茂七郎は(怒って)刀を掴んで立ち上がったところを、皆で引き留め、この場は何事もなく収まった。が、その仮宿を立って帰るところ、茂七郎は人目のない所で丹兵衛を待ち伏せて「先程の事、覚えたか」と一文字に討って掛かった。丹兵衛も遅れをとるような男ではなかったので、しばらく斬り結ぶうちに、茂七郎の運が尽きて棚橋に上がったところを薄雪で朽木の穴が見えず太ももまで踏み込んでしまって身動きが取れず、討たれてしまった。丹兵衛はそのまま行方知れずに立ち退いた。茂七郎の一子・茂三郎はまだ七歳。敵を討つにもいつになるか分からず、母親は嘆きのうちにも育て上げて、早や十六歳になった。しかし丹兵衛の顔も見知らず、たとえ巡り会っても討つ術もない。また後見を頼む人もなかったので、無念に月日を重ねていた。ようやく母親は思い出して「因幡の伯父にお頼みして丹兵衛を討たせよう。お前の父にとっては兄であるが、事情があって仲違いし長く疎遠になっていたが、この度、お前が訪ねて行けばよもや関係ないとお見捨てにはなさらないだろう」細々と文を書き認め、茂三郎を旅支度させ伯父の熊川茂左衛門方へ遣わした。茂三郎は数日旅をし、因幡に着くと茂左衛門の屋敷を訪ねた。そして出来事を語れば、茂左衛門は涙を流して弟・茂七郎を恨みに思った事も忘れ、「その憎き丹兵衛、拙者が助太刀して必ずや本望を遂げさせよう。安心なさい」と頼もしく請け合い、主君に暇乞いをし、茂三郎を伴って諸国を訪ね歩いた。丹兵衛の方も住まいを何処とも定めず旅をし、森沢団斎という鑓の名人をひたすら頼みにしていた。ある時、主従八人で奈良の都、猿沢の池の前にある宿に泊まった。折良く、隣に茂三郎も泊まり合わせていたが、互いにそうとは知らなかった。夕暮れになり、(丹兵衛の)家来共が風呂に入り、互いに背中を流した。背中に隙間なくお灸を据えた跡があり「今日が無事でも明日をも知れぬ身の上なのに、何を養生したのか、万につけても儚い浮世だ」と言えば、「いかにも。世間に身を隠す主人を持って、いずれもどうなるか分からない身だ」と呟いている。茂三郎の家来が垣根越しにこれを聞いて、「このような事を申している者がおりました」と報告すると、茂左衛門は密かに裏に出て行って、覗き見たところ、まさに長年狙い続けた丹兵衛である。躍り上がって喜び、それから気をつけて聞き耳を立てていると「明日は七つ(午前四時頃)に出立して、伊賀を越えて行く」と忙しなく早立ちの朝食や馬の手配をしている。茂三郎達は、出来る限り密かに夜半頃に出発し、道すがらの足場の良い所を見繕ったが、なかなか都合の良い場所もなく、既に伊賀上野(次の宿場)まで来てしまった。相談してここに決め、曲がり角を見立て、主従四人勇んで、近くの酒場に入った。弦掛升に酒を注ぎ、差しつ差されつつ心祝いをしながら、縁側に並んで腰をかけ、待ち受けていた。相手方はその日の八つ過ぎた頃(午後二時頃)、乗り掛け馬を追い立てて、上野の宿へ入ってきた。互いに危ない所であった(←?)団斎の鑓を持った家来が、町外れの屋根に(鑓を)立て掛けて雪隠に入ったのが、丹兵衛の運の尽きである。茂三郎が馬の正面に向かって、「熊川茂七郎が倅、茂三郎。親の敵を討つぞ!」と名乗り掛け、馬上の丹兵衛の腿を斬りつけた。丹兵衛は一旦後ろに退き、抜き合わせて、一命を掛けて戦うのは、あっぱれな武士の働きである。その時、団斎が馬より飛び降りて助太刀しようとするのを、横から茂左衛門が薙ぎ払った。両者とも手練れなので、暫く秘術を尽くして戦った。だが、茂三郎、茂左衛門は理の剣(道理のある剣)であれば、次第に勢いも付けて、遂に討ち取って、止めを刺した。自分たちも深手であったので、死骸に腰を掛け、息をつく。そこへその国の守のところより大勢駆けつけ、二人を勇めて(励まして)帰って行った。古今またとない武士の鑑。刀は鞘に収まり、御代は長久、松の風は静かである。───────────────武道伝来記、8ー4最後はやっぱり(?)徳川太平の世は久しく目出度い!で終わりました。どうやらこの話、モチーフは「鍵屋の辻の決闘」だそうです。鍵屋の辻〜は私は「柳生三代の剣」で知りました。(古っ!)三大仇討ち事件の一つです。(他二つは、赤穂浪士と曽我兄弟または浄瑠璃坂)こちら鍵屋の辻事件の発端は衆道のもつれ。岡山藩主・池田忠雄寵愛の小姓・渡辺源太夫に河合又五郎が横恋慕。源太夫は殿への忠誠から河合を拒絶。又五郎は逆上して源太夫を斬ってしまい、そのまま逐電し、旗本屋敷に匿われます。怒った殿は、又五郎を匿った旗本に引き渡しを要求し(受け入れられず)、また遺言でも又五郎を討つよう言い残しました。その遺言により、源太夫の兄・渡辺数馬は敵討ちに出なくてはならなくなります。(普通、敵討ちは年下の者、弟や子がするもので、弟の敵討ちを兄がするのは異例だが、殿の遺言により上意討ちの意なる)数馬は姉婿の荒木又右衛門(←有名人)に助太刀を頼み、伊賀路、鍵屋の辻で見事に敵討ちを果たしたのでした。この事件は、逐電した又五郎を匿った旗本vs外様大名(岡山藩)という構図もあり、いろいろ関心を集めたようですよ。荒木又右衛門のこの時の働きも絶賛されました。詳しく解説してるサイト様も沢山あるので、気になる方は調べてみて下さいなさてさて『武道伝来記・諸国敵討』これにて終わりです。はぁ〜やっと終わった〜〜文章のおかしな所もアチコチある(タイプミスも多いっ)ので、気がつき次第、手直しして行こうと思います。
武道伝来記 巻八ノ三『幡州の浦浪皆帰り討 〜雪の夜 鶏思ひもよらぬ命の事』─────────────人は堅実であればこそよい。毎年、信濃国の桐原の里より、売り馬を引かせて、弥太夫という馬商人が播州立野へやって来る。昔は武士が名馬を持つ事を第一に嗜んでいた。この度引いて来た若馬は、ヒバリ毛が太く逞しく、天晴れ名も高く“龍山”と申して、自慢し甲斐のある名馬である。その頃、小湊井右衛門という家中一の馬好きがいた。弥太夫は先ずこの人の屋敷へ行って馬を見せた。小湊は自分の耳に変えても、その馬が欲しいと、いう程の勢いが見えたので、弥太夫は「これは商談成立」と、思いの外に欲張って「金三枚です」とふっかけたのを、小湊は「小判十二両から十五両で」と望んだので、大方、話はまとまり、「代金は明朝渡す」となり、弥太夫は馬を厩(うまや)に繋がせて、帰って行った。その帰り道の途中で、近頃出世頭の樗(おうち)木工弥(もくや)に会った。「その方が先ほど引いていた馬、代金がいくらでも構わぬ、私が引き取ろう」樗木工弥が申し出たので、弥太夫は欲を出し、「そういう事でしたら、ただ今引いて参りましょう」そう言って小湊方へ行けば、小湊井右衛門は公用で留守だった。そこで「しばらくの間、馬を借りたい」と言ったが、若党は承知しない。弥太夫は「ご主人の手前は私にお任せください。いや何、まだ代金も受け取ってないのですから」と無理に馬を引き出して樗方へ引いていった。木工弥はたいそう喜んで、代金は大判三枚に取り決め明朝渡すと約束し、弥太夫は帰って行った。樗木工弥はその夕方、梅の馬場でその馬を乗り回した。それを見た者は手を打って、「これほどの馬は、今この家中で並ぶものはないだろう」褒められた木工弥は、尚更得意になって帰って行った。その様子を見ていた中に、富森久九郎という男がいた。その足ですぐに小湊井右衛門方へ行った。「さても今朝、お手前の厩で見たヒバリ毛を、木工弥が買ったと言って大切そうに乗っていたぞ。あれ程の馬をどうして買わなかったのだ?」井右衛門は驚いて「拙者の留守中に引いて行ったのさえ憎いのに。ならばこちらにも考えがある」と急ぎ弥太夫を呼び出した。「重ね重ね、不届きな仕方だ!買う買わぬに関わらず、急ぎ引いて参れ」激しく叱られて弥太夫は困り果て、再び樗方へ行き「馬をしばらく借りたい」と言った。木工弥が訳を聞けば「始めに井右衛門殿と契約致しました。されども手形も渡しておりません。ともかく留守の間に引いて来たのを怒っているのです。この上はたとえ百両でも売りは致しませんが、言い訳にちょっとお目に掛けて来たいと思います。どのようにでもこのご恩に着ますので」としきりに言うので、「しからばこの馬はこちらの馬だぞ」と返す返す念を入れて貸す事にした。それから馬を引いて小湊方へ行けば、井右衛門は先ず厩に馬を繋いでから弥太夫を呼び出し、金子十五両を渡し言った。「受取手形を書け」「それは非常に困ります」「書かぬとなれば、一寸もそこを身動きさせぬが良いか」と刀を反らせて打ったので、弥太夫は「いかにも、そのように致します」と売り手形を書いて渡し、その足で直ぐに本国へ逃げ帰った。井右衛門はその夜が明けるのを待ち兼ね、まだほの暗い頃から、鞍、鐙を吟味し美しく飾って、知人はもちろん、乗り歩いて見せびらかした。馳他仁助がこれを木工弥に伝えた。「昨日その方が乗っておられた馬を、今朝は井右衛門が自分が勝った馬と言って自慢たらたらに乗って通っていったぞ」それを聞いた木工弥は大いに腹を立てて、弥太夫を呼びにやったが、夜中に逃げ出して宿には居なかった。「既に拙者が梅の馬場で乗って居たのを知らぬ者はいない。それを井右衛門に取られたと噂されては、一分が立たない。馳他仁助殿の家の前を通ったのならば、おそらく小松馬場にて乗り馴らしているのだろう」と果し状を認めて下人に持って行かせれば、井右衛門も了解した。「晩頃にこの松原にて密かな立ち会い、こちらも下僕一人連れず、互いに一騎打ち、相分かった」近くの宮に立ち寄り、返事をさらさらと書いて使いに持たせた。それから宿に帰り支度をして、両人それぞれ出掛けて行った。言っていたとおり、お互い一人ずつ、見事なやり方である。頃は十二月下旬、しかもその夜に降る雪は馬蹄三尺も深く積もっている。袖を払う暇もない程に戦ったが『木工弥は元々、一流の武芸者、たやすく打てはしまい───』そう思い、井右衛門は受太刀をニつ三つと打たれながら、「無念や」とそこに倒れ伏し、四、五回、「南無阿弥陀仏…」と唱えた。「早く寄って止めを刺せ」と井右衛門が言えば、木工弥は「さては今打った太刀、手応えありと思ったが、頭深く切り込んだのだな」と嬉しく思い、近寄ったが、反応がない。「生き絶えたか」と止めを刺そうとする木工弥を、井右衛門は横に切り払った。木工弥が二つになって倒れたところを、首尾よく仕留めた。これより三町南に、幸いにも徳山八平という者が隠居して八入と名乗っていた。井右衛門はその草庵にたどり着けば、八入はちょうど「雪中の夜梅」という題で詩を読んでいるところであった。井右衛門の有様を見て、詳細は聞かず、先ずは仏壇の下に井右衛門を隠した。そして秘蔵していた唐丸(闘鶏)を突き殺し、それを持って、木工弥の死骸の側より、この唐丸の血をこぼしながら、北の藪の堀端まで伝せ、帰りは足跡を消して帰ってきた。こうした様々な心尽くしも、武士の意気地というものである。その翌日、この沙汰は家中に広まった。血の続いている様子から、西国街道に逃げたようである。と木工弥の子息・孫七、同じく弟・宇助の二人は暇乞いを願い出て、敵討ちに出立した。ここに哀れなのは、先年、木工弥が浪人していた頃に江戸にて嫁がせておいた娘である。夫は身分の軽い武家の奉公人、牛俣弥二郎といあ男で、俸禄より実情は一層貧乏であった。木工弥が討たれた事を孫七より伝え聞いて、女は取り分け嘆き、「いかに女に生まれたといっても、武勇は弟達には負けませぬ」と弥二郎に離縁を願った。「それほどにまで思うのならば、自分にとっても舅、親も同然なれば、この事から逃れるべきではない。しかし敵の居所が何処とも分からぬうちは、尋ね歩くのにも路銀を貯めなくては成り立たない。それまでは出来るだけ、お前も他の仕事をしてでも、路銀を貯める工夫をするがよい。自分も勤めの暇には油断なく心掛けよう」と、一晩中、野に出歩いて、里の境の垣根に罠を仕掛け、野犬と捕まえてこれを売った。女房も人目を忍んで、絞り紙の煙草入れを僅かな縫賃で縫った。心には敵討ちの決心を込め、朝夕、胸に迫って忘れずに、半年の間は行く末を頼みにし、賤しい手仕事に勤しんだ。男も雨の夜は休み、月の夜も状況次第でむなしく袖を濡らすだけで帰るのだった。世の中は思うようにならないのが習いであるが、思ってもない事に、ここまで身をやつして励むとは、頼もしい事である。されども路銀は思うように貯まらず、女房の女心は浅ましく、ある時、弥二郎に恨めしい顔を見せた。「私が男に生まれていたら、今までこのようにしてはおりません。是非、敵を狙って本望を遂げようと思えば、男ならば出来ない事ではありません。他人の身で敵討ち執念が薄いせいで、いつ望みを達っせられるのでしょう。侍はその身分の高い低いに分かちなく、義理の道を立てるも立てぬも心構え次第です。性根の強き者を羨ましく思うのは、まさに今です」という女房の本音が、弥二郎の気に障った。「このような武士の道でない事で殺生しているのも、この為ではなかったのか。もっとも親の仇を討つべきと思いから、あのような事を言ったのだろうが、夫たる者を蔑ろにする悪口、一度ならず二度も言われるとは」夫は路銀は貯まらず心が焦るばかりに、女房を刺し殺し、また六つになる娘も「生き長らえて辛い目を見るくらいならば」と同じ刀で突き殺し、自分も自害してしまった。さて、孫七、宇助の二人は西国を残らず訪ね歩いたが敵に会えず、引き返して江戸へ下って探したが、敵の行方は分からなかった。無念ながら孫七は裏長屋を借りた。宇助は四谷熊之進殿へ小姓分として奉公に上がり、「これももし、敵を探す縁(よすが)となりはしないだろうか」と思い、勤めた。ある時、小姓仲間四、五人がお次の間に集まり、世間話をしていた。宇助は壁に凭れ掛かり、「昨夜の酒宴に疲れた」としばし居眠りをしていた。立てかけ(という髪型)の髪が柱に当たって、茶筅のようになってしまった。宇助はこれを不審に思い「誰が解いたのか」と辺りを見回すと、戸川浪之助、壺口仙六が面白い話に笑っているのをきいて、宇助は思い違いをして「髪が解けたのが可笑しいか」と理不尽に斬りつけた。言い訳するほどの暇もなく、二人して宇助を討ち取り、主・熊之進にこの事を申し上げた。熊之進はこの頃ちょうど、浪之助を寵愛している時だったので、「宇助は手討ちになった」と言い触れて置いた。さて孫七は杖、柱と頼りにしていた弟・宇助に死なれ、今はすっかり力を落としていたが、従兄弟の樗北右衛門いう浪人を頼りに心を合わせ、敵を狙っていた。しかし北右衛門は、ある夕べに風邪の心地で床に着き、三日程熱に浮かされ疱瘡が出て、九日目には死んでしまった。かの井右衛門はというと八入に七十日匿われ、西風の激しい夜に密かに国を出立し、当所(江戸)の所縁ある所に初めは姿を隠していたが、『孫七兄弟、西国へ下る』と聞いて油断した。ある時、井右衛門は編笠を深く被って「暫く振りに気詰まりを晴らそう」と景色の良い寺社を目指して出掛けて行った。番町で孫七が、これを見つけ、「小湊井右衛門、逃さぬ」と言葉を掛けたが、「狼狽えた者、人違いだ」と言う。「見損なったか!」と孫七が編笠を覗き込んだ所を、井右衛門は抜き打ちに斬り倒した。以上、四人の敵(孫七、宇助、弥二郎妻、北右衛門)今は一人も残らず絶え、井右衛門の手柄は世間に広く知れ渡った。世の中には、このような事もあるものだ。──────────────馬商人がいい加減だから良くなかったのだけど、結果を見ると、話の流れ的には先に契約をした井右衛門に分があるというか。木工弥方(孫七、宇助他)はことごとく無念の死を遂げているのですから。しかも生き残った井右衛門を「この手柄、隠れなし」と褒めてます。こういう展開、他の話にもありましたね。敵討ちの旅に出ても、見事敵討ちを果たせる話もあれば、途中で死んでしまったり返り討ちにあったり。当時の価値観で、世間がどちらを贔屓するか(作者の感情的に?)によるのでしょう。成り上がり者の、その子供の敵討ちは達成出来ない場合が多いように思いますネ。四ノ三「無分別は見越〜〜」でも成り上がり者 < 実直で真面目な武士の構図でした。でもやっぱりいい加減な馬商人が一番良くないと思うのですよ
武道伝来記 巻八ノ二『惜や前髪箱根山颪 〜涙の時雨に木綿合羽の事』これはひどい!ひっどいお話です─────────────茂った小笹を踏み分けて、衆道の道に入り初めるのは、出羽国の恋の山ばかりではない。近くには、箱根を越えた小田原の城下に、昔、水際(みずき)岸右衛門という弓頭がいた。その一子・岸之助は生まれつき面影は美しく、見る人はこれに思い焦がれ、人目の関守さえなければ、思いの峠に登りつめ、(恋の)湖の底に沈もうとする者も多かった。同じ家中の出世盛りの若者、松枝清五郎は、いつの頃からか、岸之助と兄弟分(衆道)の契りを結んでいた。普段から夫婦のごとく双子山のごとく一緒にいる。愚かにも宿り木に止まる(頭の二つある)命々鳥のように、夜通し、また昼も夢うつつのように情愛の儚さをわきまえず、寝るわけでもなく、目が覚めた時にも分別のない程の誓いの言葉を交わしていた。(なんかスゲェな。溺愛しすぎ…)岸之助も、早や今年で十七歳。春秋の月や花やと岸之助を眺め暮らして来たが、去りゆく日々の名残は惜しまれるのは、もっともな事である。父・岸右衛門も次第に老いた身となり、昨年から勤めも億劫になって来た。ここは一日も早く岸之助を元服させ、自分は朝夕気ままに暮らしたいと思うようになった。ある時、岸之助を呼んで言い付けた。「元服の支度をせよ。殿へは既にご機嫌を伺って申し上げておいた」岸之助がこの事を清五郎に話すと「とんでもない事だ。吉野川に流れ去る花のように、(前髪時代も)帰らなくなる」清五郎が納得しないままに、半年ほど経ってしまった。岸右衛門も酷く腹を立てて散々叱るので、岸之助も困ってしまった。「浮世の習いとして、我が身ながら思うようにならない。この内情(清五郎との関係)を父はまだご存知ないのだが、父も昔は覚えがあるだろう。尋ねてみたいものだ」岸之助は清五郎の事を年配の家来に話し、父に伝えさせた。それを聞いて父・岸右衛門もようやく事情を納得した。それならば、と同役の鳶尾与七右衛門に事情を話し、清五郎の説得を頼んだ。それから鳶尾は勤めの当番で書院に上がったところに、清五郎も宿直番で御広間で会った。「わざわざ参って申し上げようと思っていたところ、ちょうど良くお目に掛かれた。他でもない、岸之助の父、岸右衛門も歳を取り、形通りの勤めも出来なくなって来ている。そこで岸之助には一日も早く元服させたいと願っているのだ。これは立身奉公の事であるから、了見をもって許して下さるようにと、拙者にその方へ伝えるよう頼まれたのだ」しかし承知しない清五郎に、鳶尾は笑って言った。「勿論、若い時の習いでそれがしなども覚えが無いわけでもない。せっかくの前髪を惜しむのは人の心の常である。がしかし、これ(元服)は他の事に比べて格別な事で、既に殿の御耳にも届いているようであれば、拙者の頼まれ甲斐の為にも、清五郎殿、是非、承知して頂きたい。六十余の者がこうしてお頼み申す。幸い、本日はお日柄も良い。今晩、元服致せる」鳶尾はそう言って立ち上がった。清五郎は「いやいや鳶尾殿、拙者は承知致さぬ」と言ったが、鳶尾は聞かぬ顔をして「宿直、御油断なくお勤めなされ。申した事は、その通りに致す。さらばさらば〜」と言いながら帰り、そして直ぐに鳶尾は岸右衛門宅へ立ち寄った。「ただ今、昼番から帰るところ。さて元服の件だが、拙者が是非にと申し頼んで来たからには、もう問題ない。お望み通り、御前の首尾も良い瑞相、即ち、本日こそ元服の日柄ですぞ。もはや清五郎は今宵は宿直番だから帰るまい。目出度く初冠なされ」鳶尾は詳しい事情も言わず帰って行った。その後、風は剃刀のごとく、柳髪を吹き落としただろう。夜が明けて、清五郎が宿直番より帰る道の途中で、友人の増川槙右衛門、星村九郎八に会った。「近頃はなかなかお目に掛からずおり申した。珍しい話でもゆっくり聞きたい。ご両人とも是非お立ち寄り下され」と伴って家に帰った。一つ二つ、大坂から伝わる話をし、次に色道の色話となった。「今更だが、ご主人(清五郎)のお仕合わせに及ぶものはいないだろう。岸之助殿の器量に勝る者がいるとは思えない。しかし年月の流れは止めようにもない。人は一つ歳をとれば、見た目も薄く(悪く)なる物だが、いつまでも留め置きたいのは前髪だ」清五郎はこの言葉に喜んで「これは良い事を仰る。拙者もそれ一つと思い悩んでいるところ。しかし気の短い親父で近頃は是非元服させたいと言っている。それがしが承知しないものだから、相役の鳶尾殿に頼み、昨日も城で伝言されたが、一切納得しないと言い切っておいたのだ」と言ったところに、ちょうど岸之助が「お見舞い」と言ってやって来た。家を出る時には時雨だったので、岸之助は雨羽織を着て頭巾を深く被っている。「皆さま、お出でで」とお辞儀をし、頭巾を取らずに座に着くのを、清五郎が咎めた。「年若が、今から頭を寒がる事さえどうかと思うのに、いかにご両人が親しい方とはいえ、頭巾を取らないのは無礼な事だ」と睨むと、岸之助は「くっくっ」と笑った。槙右衛門が「これは今の話(元服)ではないか」と言うので、清五郎も「まさか」と無理に頭巾を取って見れば、なんという事か。桜に大風が吹いたように、花のない枯木の男姿。「これ程に変わるものか」清五郎が言うと、友人二人は「いやいや、世間の盛り(若衆姿)より、吉野の春の暮れ(春の終わりに花の散った後。元服後の姿)の方が、心惹かれるだろう」と座興を言ったが、清五郎が不機嫌になって応対もいい加減になり座が白けたので「これは具合悪い」と二人は帰って行った。岸之助は懐から袱紗に包んだ前髪を取り出し「その方へお渡しします」と言ったが、清五郎はそれを取って投げ、「その方は誰に許されて元服したのか」と顔色を変えたので、岸之助は驚いた。「はて。昨日鳶尾殿に“差し支えないから元服せよ”と、あなたと話して来られたという事でしたが」「この薄情者が」清五郎は岸之助を引き寄せて、刺し殺してしまった。その足で、清五郎は鳶尾宅へ向かった。鳶尾は丁度在宅していた。「拙者ははっきりと承諾しないと言ったのを、勝手に元服させられては、世間に対して我らの一分が立ちません」と抜き討ちにするのを、鳶尾もそれを斬り結んだが、老年の事で足元も覚束ない。危ない所に、岸右衛門が公用で訪ねてきた。岸右衛門は我が子が討たれたとはつゆ知らず、この有様を見て、まず相役の親しい鳶尾に味方した。「与七右、助太刀致す」声を掛けて、清五郎に斬って掛かる。しかし力なき老武者の討つ太刀は、若く強い手に叩き付けられた。清五郎は二人とも斬り倒し、止めを刺して立ち退こうした。そこへ鳶尾の若党の亀右衛門が駆けつけて「逃すか」と斬りつけた。清五郎は大袈裟掛けに斬られ、身体が分かれて倒れた。下々の者であるが、即座に主人の敵ばかりでなく、合わせて三人分の敵を討ちとったのである。────────────合わせて三人、とは主人の鳶尾、岸右衛門、岸之助の三人です。にしてもなんなんでしょうかね、この清五郎さんは。念者としてどうなのでしょうか。そんなに前髪好きなら、一人を見守ってちゃんと成人させ、また次行けばいいじゃん……。そうやって次々育てて行けばいいじゃん…。男色大鑑にそんな人いたような。可愛くって仕方なかったのでしょうね。友人に岸之助を褒められて浮かれてるのですから。頭巾を被ったままを清五郎に咎められて「くっくっ」って笑う岸之助。これ可愛いいですね元服した姿を早く見せたいのを、ちょっと勿体ぶってる感じでしょうかその後の惨劇を思うと、和んでいる場合ではないのですが武家においての衆道って、年長者が若者を育て導くという要素が大きいと思っているのです。(主従だったり先輩後輩だったり)だからその時期が来たら、ちゃんと元服を祝って送り出して欲しいのです。それが理想(私の←?)そしてその後も絶大な信頼関係を保って欲しい。(そんなこんなで女性の代わりのように思える寺の稚児の話にはそんなに食指が動かない)まぁ中にはこんな前髪に執着しすぎる念者さんもいるという事で、若衆側も相手を選ぶ時は用心しなくてはなりません。と清五郎ばかり非難してしまいましたがこの話、原因は鳶尾氏に発端があると思われます。頼まれたのにちゃんと説得せず、清五郎の言葉を最後まで聞かず、「もう問題ないから元服しなさいよ」って、テキトー過ぎしかも「清五郎は宿直で今夜は帰らないから」って確信犯自分が認めてないのに勝手に元服され、岸之助を褒めた友人の前でそれを披露されて、そりゃ清五郎さんの面目も潰れるでしょう。その後、衝動的に刃傷に及ぶのはどうかと思いますが、これまで武道伝来記を見るに、武士にとっては、やはり一番大切なのは命より体面。そうなれば、仕方ないのかなぁ。この話、諸国敵討物語《武道伝来記》の中では、最短で敵討ちを遂げた話ではないでしょうか?大体どれも旅に出て何年も掛かってますからね。今回、ほんの数十分(長くても一、二時間くらい?)ではないでしょうか?しかも遂げたのは突然出て来た家来の一人。重要人物ではありません。