熊本市内を走る市電の路面電車。
過去2回はヒヤヒヤしながら
この辺を車で走った記憶があります。
天草から帰った翌日は、
のんびり歩きながら熊本城周辺を散策。
宮本武蔵の旧居跡の案内石を見つけたので
左に曲がってみました。
『〇〇ちゃん学校に入りたいんだけど、扉が開かないから入れないの。あけて。』
ところが坂道を歩いても
その先の目印が見つからず立ち往生。。
『お姉ちゃん』
コートの裾を引っ張られて右を振り向くと
小さな女の子が見上げていました。
道の反対側に小学校があり、
人ひとり入れるくらいの門扉が
校舎の隅っこにありました。
よく見るとしっかり鉄の引き棒が
型にハマっていて大人の背丈じゃないと
開けられないようになっています。
この女の子は普段正門じゃなく、
こちらの校舎から入ってるんだろうけど
冬休みに入ってるから
小さい扉は閉まってるんだろうな。
だけど、このご時世
部外者の私が勝手に開けるのも・・
と考えつつ、
相手はここの生徒っぽいから大丈夫かなぁ。
慎重なマロンは女の子と門扉を交互に見て
開けることにしました。
女の子が無事入り、
すぐ閉めようとすると
『他のお友だちも来るから開けといてください‼︎』
イヤイヤ、開けっぱなしにしたら
万が一校庭に不審者が入ったとき
取り返しがつきませんから・・
何も起こってもないうちから
不審者がウロウロしてるという恐怖心を
小さな子どもに植えつけてしまうのも
はばかれるし。
けれど学校の人がここを閉めにくる
保証はないし。
私は私で関わった以上、
扉は元通り閉めておかないと・・。
『この棒を横に引けば開くようにしておくからね』
女の子もお友だちも学校もマロンも
みんなが安全に暮らせる方法
扉はきっちりと閉め、
棒をスライドすれば開けられるように
目の前で見せてあげました。
『うん、わかった』
今度はマロンが女の子に
『ねぇ、宮本武蔵のおうち知ってる?』
と尋ねると、
『〇〇ちゃんのおうちは、道(大通り)の向こう側だからわからない』
と答えました。
まだ小学校1年生くらいです。
マロンは数年に1度くらい
思い出す幼い頃の記憶があり
この女の子と話したあと
また思い出しました。
マロンの生まれた街もとても古くて
観光客がバスに乗って訪れるような
施設が小規模ながら点在しています。
小学校の帰り道にも
伝統産業を見せる施設があって、
まだ入学したてのマロンは
観光客が何を見に訪れてるのかも
自分の街が城下町らしい迷路で
複雑に入りくんでいることも
全く知りませんでした。
(地元での生活ってそんなもんですよね)
観光バスから降りた、
60代〜70代くらいのおじさんが
『〇〇ってどこにある?』
って聞いて来たから
一緒に帰っていた幼なじみと
『???分からない』って答えたら
『そういうの、“灯台下(もと)暗し”って言うんだよ』
と言われました。忘れないように、
その言葉を繰り返しながら家まで帰って
親に聞いたら
すぐ近くにあるのに
何にも知らない
ってことだと教わりました。
その時の記憶が蘇ったのです。
お陰でその言葉を覚えたのですけれど、
そのおじいさんとの思い出は
決して心地よい感じではなく・・。
その経験もあって、
マロンは小さな子どもと接するときは、
もっとあたたかい交流でさりげなく
を心掛けたいといつも思っています。
結局宮本武蔵の家は見つからないまま
坂をのぼりきり
熊本城の敷地内に入ってしまいました。
熊本城広過ぎ!
また坂を下り、曲がる前の道に戻って
当初の目的地だった文豪の家を目指します。
川沿いを歩いてるとガイコツのように
ヘルメットが。
広い庭と日本家屋もあります。
マロン、こういう雰囲気って大好き。
これ、雰囲気があって好きだな。
この石塔も可愛い。
人形が
数年前の大地震の影響で
建物を修復しているらしく
バリケードが張られていたのですが
バリケードにつけられていた
看板に漱石とその周辺の人々との
関わりが記されてありました。
漱石夫妻は熊本市内を転々としたらしく
奥様はこの5番目の家が1番お気に入り
だったそうです。漱石の奥様に関しては
殆ど知らなかったのですけれど、
最初の家がお墓の横で嫌がって越したとか
(までなら何となく理解出来るけど)
川沿いの家に越して眺めてるうちに
鬱々となり飛び込んでしまったとか、
それまでのイメージより繊細な感じで
ちょっと意外な気がしました。
熊本はいろんな時代の著名人が住んでいた
大きな城下町なんだなぁと感心しました。👇ポチしてね✨