秋の深まりを見せる風景。


上野公園の樹木は日に日に色づきを見せはじめています。


▲不忍池の眺め


先日、当ホテル8Fにご宿泊されたお客様より、クチコミサイトに投稿された添付写真。


とてもキレイに撮れた画像に感激!


なので、共有しちゃいます(^^♪


イチョウの木々が黄金色に染まる光景は、今月下旬から12月上旬が見ごろになりそうです。


朝晩寒くなってきましたが、皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。


デイジーでございます。

 


先月末、久しぶりに美術館を訪問。


芸術の秋を気取って、上野の森美術館へぶらり小旅行。



上野の街を歩いていると、▲の旗がひるがえっているのを目にします。


ホテルココ・グラン上野不忍がたたずむ不忍通りにも、このように秋風になびいています。


ただいま、上野の森美術館では


ロンドン・ナショナル・ポートレートギャラリー所蔵
KING&QUEEN
―名画で読み解く 英国王室物語―


を展示。


1000年以上の歴史を誇る、英国王室にかかわる肖像画をおよそ500年前の16世紀から現在の21世紀まで。


約90作品を肖像画と肖像写真で紹介する、英国史好きにとっては貴重なプロジェクト。


エリザベス2世女王陛下が若い!


旗に描かれた肖像画は、彼女がわずか25歳で英国女王に即位した当時に描かれた作品。


王冠の輝きとともに、気品に満ちあふれた威厳が心憎い。


北欧好きのデイジーにとって、英国史については、9~11世紀のバイキング時代にキョーミあり。


歴代のバイキング王がイングランドを拠点にデンマーク、ノルウェー北海3国を統治していたロマンあふれる時代。


ところが、この度の展示は約500年前のチューダー朝から現在のウィンザー朝までの作品に焦点を絞っています。



▲上野の森美術館前


“肖像画から読み解く、ドラマティックな英国王室の歴史”


が、この展示の大きなテーマ。


現在は、ヨーロッパの一部の国を除き、多くの国がユーロ通貨で統一されています。


なので、わざわざ国をまたぐ度に、本国の通貨に両替する手間が省けるようになりました。


ですが、以前は国が変わるごとに、通貨も変わるのが常識。


空港や駅での両替は、正直めんどうでしたね。


また、その国の通貨の利用に慣れるまで、時間がかかります。


デイジーの場合、現金の持ち合わせを調達するため、まず入国後は両替所にて訪問国通貨に両替し、ホテルにチェックイン後、財布に入れた現金を整理します。


そのとき、数字のほかに目に付くのは、お札やコインに描かれた肖像画。


お札の匂いを嗅ぎながら、


『いったい何をやらかした人物なのかしら?』


『時代はいつごろの人物なのかしら?』


なんて思いにはせてしまうのです。


皆さまのなかにも、そんな経験おありではないでしょうか(^^♪


それから、ヨーロッパの城や宮殿内を見学すると、大広間などにズラリと飾られた肖像画の数々。


最初は、きらびやかな衣装やジュエリーに身を飾り、王冠や調度品などの美しさに圧巻されます。


次第に描かれた人物の表情に目が移っていきます。


ときには、絵画の中の人物は目をそらすことなく、じ~っとこちらを見据えています。


すると、一瞬だけその人物の生き様やドラマを垣間見たような妄想にかられることも。


現地のガイドさんの案内とともに、ポートレートに生命のいぶきが蘇り、自分自身に重ね合わせてみたり、時には恐ろしい感情にかられたり…。


本当に十人十色、千差万別、病的なまでに強烈な個性がそなわった歴代国王・女王たちの数奇な運命の物語がはじまるのです。


知れば知るほど、その人物について引き込まれてしまうのです。


だから、肖像画は退屈しません、実に魅惑的で面白いのです!


では、館内へと出発いたしましょう。


写真撮影は禁止なので、これから紹介する作品は、すべて画像検索によるものです。


さすがに、知識不足のデイジーにとって全作品の紹介はいたしかねます。


なので、個人的にインパクトの強く感じた作品9点に絞らせていただきます。


本当に、描かれた人物一人ひとりの言及となると、1冊の本になってしまうほどの奥の深さです。


ここでの紹介は、氷山の一角のなかの、さらに小さなひとかけらの氷に過ぎません。


ざっくり、アウトラインだけに要約させていただきます。


つたないデイジーの知識範囲であしからずではございますが、少しでも参考になっていただけたら幸いです。


【1】

《ヘンリー8世》
作者不詳(ハンス・ホルバイン[子]の原作に基づく)

 

17世紀か(原作:1536年)

 

 

トランプスペード6度結婚し妃二人を処刑したヘンリー8世トランプスペード


初めてイギリスを訪問したとき、至る場所でヘンリー8世の肖像画を目にしたのをきっかけに、この王の存在を知りました。


スーベニアショップなどに販売されている紅茶、ビスケットやチョコレートのパッケージにヘンリー8世が描かれているのです。


『この厳つい顔をしたオッサンだれ?』


おそらくイギリス人なら誰もが知る、歴史上人物なんだろうって具合にしか気にとめていませんでした。


軽く調べてみると、エリザベス1世の父親がヘンリー8世とのこと。


さらに、掘り下げてみると、イングランドのネロと呼ばれ、英国史上もっとも残忍な王。


肖像画からも、どこか冷酷で、無慈悲なオーラを感じます。


史実によると、18歳でイングランド王に即位したヘンリー8世は、190センチの長身でコワモテタイプ。


政治や法律などにはあまり関心を抱かず、楽天的で文才に富み、スポーツも万能だったとか。


絶対君主制を欲しいままに、6人の妻を持ち、2度離婚、2人の妻やおびただしい廷臣を処刑するなど残虐な王として名を馳せています。


そんなヘンリー8世ですが、イギリスの劇作家シェイクスピアは、そこまで彼を悪人として描いていないのが興味深いところ。


ヘンリー8世の暴君ぶりにいては【2】で触れてみたいと思います。



▲ロンドン郊外ハンプトンコートパレスで購入したチョコレート&ポストカード


ヘンリー8世ゆかりの地、ハンプトンコートパレスを訪問したときに購入した絵葉書。


右の妃は、5番目の妻キャサリン・ハワード。


下のヘンリー8世と6人の妻たちが描かれたパッケージは、ミント味のチョコレート。


絵が美しかったので、いまでも想い出アイテムとして大切に保管しています。


どうして、こんな悪人ともいえるべき人物の肖像画をお菓子のラベルにして販売するのかしら?


イギリスって実に不思議な国ですね。


この宮殿はヘンリー8世によって処刑されたキャサリン・ハワード妃の幽霊出没スポットとしても注目を集めています。


その話はさておき、庭園は思わず息を呑む美しさに圧巻。


MAZEという迷路も見ごたえあり。


ロンドン訪問の機会には、ぜひ足を運んでみてください。


【2】


《アン・ブーリン》
作者不詳

 

16世紀後半(原作:1533-36年頃)

 

 

トランプダイヤ男の子が産めない理由で処刑されたアン・ブーリントランプダイヤ


昨今、グローバル規模で話題になっているSDG’s(持続可能な開発目標)。


それらの目標の一つに「ジェンダー平等を実現しよう」が挙げられます。


文字どおり、LGBTを含め男女平等社会の実現へ向けての目標。


ところで、欧米諸国は男女平等社会が当たり前?


国や地域にもよりますが、これは大きな誤解。


日本よりも進んでいるだけに過ぎません。


アダムとイブの時代から、男尊女卑社会は存在していたのです。


その一つが、中世~17世紀をピークにヨーロッパ全土に横行していた魔女狩り裁判。


女性は男性にくらべ、魂が不完全なので悪魔に取り憑かれやすい。


能力、価値観は男性よりも劣る。


そんな愚かな偏見が植えつけられ、それが何百年と続いてきたわけで。


これまで、欧米諸国の女性は、そのような理不尽な差別と戦ってきたのです。


“レディファースト”なんて聞こえはいいですが、さんざん女性を虐げてきた男性の罪滅ぼしにしか思えません。


【2】は女性にとって生きづらかった時代、ヘンリー8世の2番目の妃、アン・ブーリンについてざっくり紹介したいと思います。


6人の妃のなか、アン・ブーリンの存在は格別です。


舞台、映画やドラマなど、いちばん多く取り上げられてきました。


この時代のイングランドでは、王位継承権は男児だけが認められ、女性が王になるなんて概念すらありません。


ヘンリー8世は、世継ぎとなる男児の誕生に執着するあまり、次々と妃を変えていきます。


1番目の妃は、父ヘンリー7世により政略結婚させられた、スペイン王女キャサリン・オブ・アラゴン。


が、しかし産まれたのは女の子(後のメアリー1世)一人だけ。


5~6回妊娠したといわれますが、メアリーを除いては流産と死産に終わっています。


キャサリンを見限ったヘンリーは、離婚に踏み切ろうとします。


そのころ、宮廷にキャサリンの侍女として、美しい女性が現れます。


フランス留学経験のあるアンは、優美な嗜みと知識教養がそなわった、ウイットにも富んだ小悪魔的な魅力をたたえた女性。


ヘンリーはアンに一目惚れ。


アンはヘンリーをじらすだけで、なかなか体を許そうとしません。


そんな彼女に、ますます魅了されるヘンリー。


彼女はこうヘンリーに囁きます。


「私を王妃にしてくれるのであれば、殿方と結婚いたしましょう。そして、男の子を産むでしょう」と。


ヘンリーはキャサリンとの離婚を決意します。


ところが、当時のイングランドはカトリック。


絶対君主の王といえども、離婚はローマ教皇が認めません。


離婚裁判は、終結をみせず頓挫。


そこで、ヘンリーは大胆な行動に出ます。


カトリック教会を弾圧させ、イングランドにプロテスタント系のイングランド国教会を創設してしまうのです。


20年近く、夫のヘンリーに忠誠を尽くし、愛を捧げてきたキャサリンは、裏切られたも同然。


男の子を産めない彼女は、キムボルトン城に幽閉されます。


その時まだ9歳だった娘のメアリーも母親のキャサリンと引き離され、母娘ともに一生会えなくさせたのです。


キャサリンはその後、キムボルトン城で亡くなります。


かわいそうなキャサリン。


キャサリンの死を知らされた、ヘンリーとアンは邪魔者が消えたと祝杯をあげたといわれています。


ヘンリー8世とは、なんて身勝手な王なのでしょうか!


ヘンリーはアンとの結婚に成功。


アンは妊娠し、無事に出産します。


ところが、産まれたのは女の子(後のエリザベス1世)。


落胆するヘンリー。


決定的にこのころから、ヘンリーとアン夫婦仲は破局に向かって転げおちていきます。


アンは勝気で気が強く、歯に衣を着せぬ性分。


政治にも口をはさみ、私生活においても夫のヘンリーにあれこれケツをつける始末。


「オマエさんは無能な王だ」と、罵ったことも。


次第にそんなアンを疎ましく思うヘンリー。


2回目の妊娠は、望みをかけた男の子だったが流産。


「男児の流産は近親相姦の罪による祟り」そんな迷信が息づいていた16世紀イングランド。


ヘンリーはアンを見限ります。


キャサリンとの離婚裁判に勝ち目がなかったように、アンとの離婚裁判も無効となる結果は明らか。


ヘンリーは、目障りなアンを消滅させるため、あれこれ模索します。


願わくば、宮廷において我が物顔で振る舞い、対立が多く、好き嫌いのはっきりしたアンには敵が多かったため、おとしいれることは容易だった。


そんなヘンリーの策略に協力してくれる、アンを快く思わない有力者が集まります。


そこで、アンとの密通が疑わしき宮廷関係者4人のジェントルマンが逮捕され、弟のジョージ・ブーリンは近親相姦の疑いで拘留。


アンは愛人と組んで王を暗殺しようとしているなど、根も葉もない噂まででっちあげます。


間もなく、アンも逮捕され裁判にかけられます。


アンは身の潔白を証明しますが、姦通罪および近親相姦の有罪判決を言い渡され死刑を宣告。


王の欲望を満たすため、処刑された全くの冤罪であった弟のジョージと4人の廷臣は、アンを有罪にするために利用された犠牲者にすぎなかったのです。


ひどい話です!


ヘンリー8世という男には、いつか天罰がくだされるでしょう。


その2日後、アンもロンドン塔で斬首に処せられます。


1536年5月19日、享年35歳でした。


アン・ブーリンの死後は、英国人の大好きな幽霊として活躍します。


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王の身勝手な都合のためにおどろおどろしい罪まででっちあげられて首を切られたアンに、恨みがなかったはずはない。


アン・ブーリンの幽霊は、処刑後、毎年の命日に、首なしの御者が乗った首なしの馬のひく馬車に、血まみれの首を膝に載せて、ロンドン塔からブリックリング・ホールへと向かうという。


《英国王室愛欲史話》より引用
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さて、その後もヘンリー8世は男児の誕生に執着し、4度の再婚を繰り返します。


ところが、何もかもが空回り、やる事なす事すべてがうまくいきません。


後世より、次々に襲いかかる不幸は、アンの祟りによるものだと言い伝えられてきました。


残りの4人の妃については、簡単な紹介にとどめたいと思います。


ヘンリーはアンの処刑後の翌日、かねてより想いを寄せていた3番目の妃ジェーン・シーモアと結婚。


まったく、この王の神経は普通の人間には理解に苦しみます。


彼女は、特別美人というわけではありません。


性格はアンとは正反対で、物静かで温厚、控えめで従順、家庭的な理想の女性像といったところ。


強引きわまる結婚だったが、1537年ジェーンは首尾よく男児(後のエドワード6世)を産みます。


待望の王子の誕生に、宮廷は一時お祭りムードに浮かれていたといいます。


ところが、その出産は想像を絶する難産でした。


当時の帝王切開は、赤ん坊か妊婦の命、二者択一を迫られます。


赤ん坊の命をとるか妻の命をとるか、どちらか一方は死を選択しなくてはなりません。


侍医は、その選択についてヘンリーに尋ねます。


王はすかさず「男の子を助けてほしい!その女は殺しても構わない、妃の代わりなんていくらでもいる」と答えたそう。


気持ちはわからなくもないけれど、もう少し別の言い回しってあるんじゃない!?


そう感じるのはデイジーだけでしょうか。


ジェーンは男の子を産んだあとに亡くなります。


その男の子はヘンリー8世の死後、エドワード6世として即位しますが、病弱だった彼は16歳で病死。


エドワードの虚弱体質を知ったヘンリーは、もう少し王子をもうけるべきと判断し、4番目の妃を娶ることに。


今回は政略結婚が決め手となります。


大国フランスとスペイン、北はスコットランドに挟まれ、常にカトリックの脅威にさらされていたイングランド。


イングランドを強固にガードするため、妃となる相手はドイツや北欧のようなプロテスタントでなければならない。


ヘンリーにグッドニュースが舞い込んできます。


ドイツの皇女アン・オブ・クレーヴスが候補となり、ドイツ人宮廷画家として活躍していたホルバインの描いた肖像画を見せられます。


当時は写真のない時代。


肖像画は、あまりあてになりません。


それを見たヘンリーは、彼女の美しさに魅せられ結婚する気になったという。


ところが、実物の彼女とご対面したところ、肖像画とは似ても似つかない皇女。


ヘンリーは彼女の器量が気に食わない理由で、一度もベッドをともにすることなく、半年後に離婚。


落胆したヘンリーは、この結婚をお膳立てした廷臣2人を処刑した。


なんて身勝手な王なんでしょう!


だったら結婚すんなよって感じですよね。


このスピード離婚直後の5番目の妃は、ノーフォーク公の姪キャサリン・ハワード。


ヘンリーとは親子以上に年の離れた彼女(年の差32歳)は、まだ20歳にも満たない令嬢。


ところが、反ノーフォーク派は、キャサリン王妃の不貞をカンタベリー大僧正クランマーに告げ、クランマーは王に密告。


キャサリンのかつての愛人(元カレ)トマス・カルペパーやフランシス・ディアラムとよりを戻し、王の目を盗んで密通していたことが発覚。


この事実に憤怒したヘンリーは、関係者をただちに処刑し、翌年にはキャサリン本人と姦通の手引きをした侍女もアン・ブーリンと同じロンドン塔で処刑。


哀れなキャサリンは、裁判に通されることもなく処刑に追い込まれたのです。

 

断頭台に向かう彼女は、震える声で「王妃としてではなく、トマス・カルペパーの妻として死にたかった」と、本音を漏らしたといいます。


1542年2月13日、享年21歳でした。


キャサリン・ハワードの処刑後1年半たって、ヘンリーは最後の妃キャサリン・パーと結婚。


彼女は語学に堪能で、宮廷内でも抜群の才女でマナーもよく、誰からも尊敬され、宮廷のまとめ役としても活躍。


また、ヘンリーの庶子のままだったメアリーとエリザベスの2人の娘をプリンセスの地位に戻し、エドワード王子への教育にも力を注いだ。


この頃、すでに50歳を過ぎていたヘンリーは、原因不明の病魔に冒されはじめます。


容態は悪化の一途をたどります。


もう男児の誕生は望めません。


6番目の妃キャサリン・パーは、ヘンリーの看病に明け暮れた妻として終わります。


病の床のヘンリーは、男盛りだったころの面影はすっかり消え失せ、顔は歪み体中から膿を出し、臨床では激痛と高熱にうなされるようになります。


当時は、痛みを和らげるモルヒネなど無い時代。


死の間際まで、ヘンリーはひどく苦しみ、のたうちまわりながら死んでいったと記録されています。


1547年1月28日、享年55歳でした。


王と死別したキャサリンは、ヘンリーの3番目の妃ジェーンの弟サー・トマス・シーモアとひそかに結婚し、翌年女の子を産んだが、お産がたたり死亡。


1548年9月5日、享年36歳でした。


その後、夫のサー・トマス・シーモアも失政を重ね処刑されます。


アン・ブーリンの呪いはこれだけでは済まされません。


まだこの先も、一族の不幸は続きます。。。。。


前述した、ヘンリー8世とジェーン・シーモアの王子エドワードは、9歳で国王に即位したものの16歳で病死。


エドワード6世の崩御後は、ノーサンバランド公の陰謀によりレディ・ジェーン・グレイを女王として即位させたものの、議会ではヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの王女メアリーが女王として即位。


哀れなジェーンは、9日後に反逆罪のかどでわずか16歳の若さで処刑。


父親譲りの性質を受け継ぐメアリー1世は、イングランドにカトリックを取り戻すため、200人あまりのプロテスタントを異教徒とみなし、火刑に処した残虐な女王として君臨。


ヴォッカとトマトジュースを割ったカクテル “Bloody Mary”(残忍なメアリー) は、メアリー1世のあだ名から命名されていたって知っていましたか。


こんなところにも、イギリス人らしいユーモアセンスが感じられます。


やがてメアリー1世も病死します。


メアリーの夫フェリペ2世スペイン王との間に子どもは誕生していません。


次なる、イングランド王については、選択の余地がありません。


当然、ヘンリー8世と処刑されたアン・ブーリンの王女エリザベスしかいません。


女王となったエリザベス1世は、アン・ブーリンの実の娘。


彼女はその後、およそ44年間、国家を統治し英国史上において輝かしい黄金時代を築きあげていくことに成功します。


生涯結婚せず独身だった彼女は、世継ぎを残さずに亡くなります。


ヘンリー7世から続いたチューダー朝は、エリザベス1世の御代で終焉を迎えます。


生前は世継ぎにこだわり、王家の繁栄を夢見たヘンリー8世の野望は、無念な結果に終わったのです。


これまでの一連の不幸が、すべてアンの祟りによるもとしたら、


オンナの恨みって恐ろしいですねぇぇぇぇぇぇ!!!!!!


とはいえ、祟りや呪いとかは、まったく科学的根拠がありません。


近年の科学者や歴史研究者の分析によると、次々と襲いかかる不幸は、若いころヘンリー8世がフランス遠征に赴いたさい、現地で娼婦たちを調達し、梅毒に感染したことが専らの説とされています。


梅毒は本人のみならず、性交した妻や出産する子どもにも悪影響が発生し、産まれても直ぐに死んでしまったり病気がちだったりと。


ヘンリー8世とは、悪魔のような王でしたが、そんな彼にも天使の心をみせてくれたのです。


それが【離婚制度】の容認。


1番目の妃キャサリンと離婚したいがゆえに、カトリック教会を弾圧しイギリスに英国国教会というプロテスタント系の教会を創設したのを機に、その制度は貴族社会から民衆へと広がっていきます。


それまで、カトリックに支配されていたイングランドは、離婚は許されず、不仲になろうが夫のDVに悩まされようが、夫婦の契りを添い遂げなくてはいけません。


現在でも保守的なカトリック社会において、レイプされた女性でさえ中絶は許されません。


昔は日本でも、離婚歴などある場合、少し後ろめたい感覚を抱いていたようです。


いまでは、バツイチ、バツニなんて、ほとんど問題視されない時代になりました。


ヘンリー8世の功績は、私たち日本人のこんな道徳観念にも変化をもたらせてくれたのかもしれません。



▲マダム・タッソーに展示されたヘンリー8世と6人の妻たち


ヘンリー8世を中心に左から
キャサリン・ハワード(5人目の妃)⇒キャサリン・パー(6人目の妃)⇒ジェーン・シーモア(3人目の妃)⇒アン・ブーリン(2人目の妃)⇒アン・オブ・クレーヴス(4人目の妃)⇒キャサリン・オブ・アラゴン(1人目の妃)


ロンドンのメジャー観光スポットの一つ、マダム・タッソー(蝋人形館)。


館内には様々なテーマのもと、等身大の蝋人形が展示されている人気施設。


記念撮影もOKです。


ここで、皆さまに質問です。


心無いヘンリーからは、子どもを生むための道具として利用された6人の王妃たち。


同情に値する薄幸な人生を歩んだかのように思えますね。


ところが、この6人の内一人だけ、かろうじてハッピーな人生をまっとうした王妃がいます。


さあ、だれでしょうか?


もうおわかりですね。


正解は4人目の妃、アン・オブ・クレーヴスです。


ヘンリーにフラれ離婚を迫られたときは、そうとう落ち込んだと思います。


とはいえ、「オマエはオレのタイプではない!とっとと出ておゆき!」とは、さすがに言えませんよね。


その後、彼女は王妃としての地位は格下げされますが、ヘンリー8世の妹としての地位を獲得。


アンはその後もイングランドにとどまり、広大な敷地と城が与えられ、国王の外戚として宮廷儀式の参加も許されます。


男の子が産まれない理由で殺される心配もありません。


年金はガッツリもらえ、欲しいものは何でもゲットでき、贅沢な衣装を着て、美味しいものを飲んだり、食べたり、音楽を奏でたり、ダンスをしたり…。


お気楽な暮らしを堪能し、6人の妃たちのなかでいちばん長生きしたとされています。


「災い転じて福となる」とは、このことかもしれませんね。


もし、ヘンリーに気に入られて結婚し、またもや男の子に恵まれなかったら、彼女の末路は…。


【3】


《エリザベス1世(アルマダの肖像画)》
作者不詳

 

1588年頃

 

 

トランプダイヤ生涯独身をつらぬき通した「ザ・ヴァージン・クイーン(処女女王)」エリザベス1世トランプダイヤ


英国史に関心なくても、この肖像画を前に『あっ!どこかで見たことある人だ!』と、感じている人もいるのでは。


たぶん、学生時代とか、世界史の教科書などに挿入されていたのではないでしょうか。


それだけ、英国史において重要な役割を果たした存在なのかもしれません。


腹違いの姉メアリー1世の死後、1558年エリザベスは25歳でイングランド女王に即位。


処女の象徴といわれる真珠(パール)を散りばめたゴージャスな衣装、ひな人形ように顔には真っ白なメイクを施し、性を超越した威厳に満ちたカリスマ的なオーラに圧巻。


彼女の首の周りの糊で固めた白いレースのカラーは、その後も象徴として残り、現代、愛犬が病気になった時、首につける「エリザベスカラー」の由来となっています。


この肖像画はスペイン無敵艦隊に対する勝利(1588年)の祝いを描いた作品。


画面左側のイングランドの火船が出発する様子が印象的。


エリザベスの成し遂げた偉業は大きく、英国史上、イングランドの礎を築いたザ・ゴールデン・エイジ。


まさに、オトコですね。


彼女の性格を一言で表現するならば “石橋をたたいても渡らない” 慎重な二重人格。


2歳8ヶ月のとき、母親のアン・ブーリンが処刑され、様々な苦難を乗り越えてきた逆境でこそ形成された人格のように感じます。


女性としての十分な魅力がそなわっていたにもかかわらず、生涯独身を貫き通しました。


求婚を申し込んでくる男たちすべてを拒絶。


「私はイングランドと結婚している」


このフレーズが彼女のモットーとして、結婚相手は人間の夫ではなく、国家そのものを意味しています。


幼い頃から宮廷男女の織り成す惨劇を目のあたりしてきたエリザベスは、結婚そのものにひどく嫌悪していたようです。


彼女は「結婚など思うだけで厭(いと)わしい」と、晩年のお気に入りだったエセックス伯に語ったという。


そんな彼女でも、男嫌いだったわけではありません。


イケメン好きな恋多き女だったとの史実もあります。


彼女が特に寵愛した廷臣は、ウォルター・ローリー、エセックス伯をはじめ、何人かと恋愛ゲームを楽しんでいます。


これらのシークエンスは、映画やドラマなどでも描かれています。


結婚はしないが、いい男はそばに置いておきたい。


これが彼女のスタンスなのです。


彼女についての書籍やインターネット情報は、日本にもたくさん出回っているので、ここでは割愛させていただきます。


エリザベス1世については、共感できる3つの興味深い点を上げてみたいと思います。


① 演劇好き


エリザベスが統治する時代に、いまや世界的に有名な劇作家シェイクスピアが誕生したのも、偶然ではないように感じます。


一つには、美しい言葉を好む多彩な教養がそなわっていて、会話は気品やウイットにあふれ、典型的なルネッサンス人の一人だった。


こんなエピソードがあります。


あるとき、エセックス伯の振る舞いに対して気分を害したエリザベスは、王宮に駆けつけた彼の拝謁を断じて許さなかった。


✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩
エセックスは手紙で「私は陛下が身に供えた権力に服従するのでなく、陛下の美に服従するものです」と、哀訴すると、女王はすぐに彼に拝謁を許した。


《英国王室愛欲史話》より引用
✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩ ⋆ ✩


こんな、お世辞に弱いお茶目のところもあったんですね(^^♪


② 匂いフェチ


イングランドの国花はバラ。


香りの女王ともいわれたエリザベス1世。


エリザベスはバラの花の香りがお気に入りだったようで。


彼女にちなんだ、バラの品種まで存在する所以が理解できます。


寝室をはじめ、シーツ、カーテン、ドレスや手袋まで、優雅なローズの香りに包まれていたなんて、お人柄が偲ばれますね。


③ 占い好き


エリザベスの腹心であり信頼を寄せていた側近に、ジョン・ディー(1527-1609)という占星術師がいました。


何かに行き詰ったり、難局に直面したとき、いつも相談に立ち会い占ってくれた重要なポスト。


彼の存在こそ、彼女に大きく貢献し、イングランドに繁栄をもたらしていた貴重な存在。


ジョン・ディーは、数学者にして天文学者、錬金術や魔術にも精通しており、未来を予言する特殊な能力がそなわっていたとか。


これまで、宮廷内を取り巻く陰謀や暗殺などの恐怖に脅かされてきたエリザベス。


そんな多くの危機から彼女を守護してきた、縁の下の力持ち的な存在。


もし、彼がいなければ、まったく別世界の英国史に成り変わっていたといっても過言ではないようです。


日本でいうと、さしずめ天下を取った徳川家康公の側近、天海(てんかい)僧正に相当する人物のように思えます。


以上3点が、デイジーに共感できるエリザベスの実像でした。


血なまぐさい情勢を忌避し、冷静な立場から、平和主義者のエリザベスは、父親ヘンリー8世のように、やたらと罪人を処刑に追い込むような残忍な女王ではありません。


晩年には可愛がっていたエセックス伯が反乱をおこし、処刑せざるをえなくなるなど失意が重なり、老木が倒れるように、エリザベスは徐々に衰弱し、1603年3月24日死去。


治世44年、69歳の生涯でした。


【4】


《アン・オブ・デンマーク》
作者不詳

 

1628-44年頃

 

 

トランプダイヤ国庫を使い果たした王妃アン・オブ・デンマークトランプダイヤ


派手好きのアンは、黒いドレスなんかでは満足できないはず。


この度、上野の森美術館での展示は、これ1点だけなので、この作品をもとに紹介します。


イングランド王ジェイムズ1世(兼スコットランド王ジェイムズ6世)の王妃アン・オブ・デンマークは、デンマーク=ノルウェー王フレデリック2世の王女。


ブリテン島と北欧諸国との関わりは、遠いバイキング時代から深く、婚姻も度々行われていたようです。


デンマークに赴いたジェイムズは、典型的な北欧美人のアンに魅了されます。


一時、アンをデンマークからスコットランドへ連れ去ったという逸話もあります。


ジェイムズとアンは1585年婚約。


ところが、スカンジナビアからの圧力を怖れたエリザベス1世の反対にあって頓挫。


1589年、ジェイムズの母親スコットランド女王(メアリー・スチュアート)が処刑されるにいたって、1589年ようやく結婚が実現。


アン15歳、ジェイムズ23歳のときです。


翌年、デンマークからスコットランドへ向かう途中、タイタニック号もどきの事件が発生。


悪天候により、船が沈没する寸前、危機一髪でアンもジェイムズも命からがら救われます。


迷信深かったジェイムズは、これに関して国王に反対する勢力が雇った黒魔術師のなせる業と勘ぐり、70名の女性が逮捕される魔女狩り騒動を起こします。


魔女狩り裁判は、デンマーク、スコットランド両国で行われ、疑わしき女性20名を惨殺する事件が発生。


この史実を知ったとき、肖像画で見るジェイムズ1世は、温厚そうに見えますが、けっこう残忍な王だったとショックを受けるデイジー。


デイジー的には、その海上の嵐は魔女云々ではなく、今後のアンとジェイムズの不仲な関係を暗示しているように感じます。


スコットランド時代、結婚したばかりの頃は、仲睦まじい夫婦だったようですが、しばらくすると喧嘩が絶えなくなり、二人は別居状態に入ります。


1603年にジェイムズがイングランド王として即位し、ロンドンにやってくると、アンはものすごい浪費家になります。


旅行や芸術品の蒐集にはじまり、建築にも凝ったアンは、ヨーロッパ屈指のサロン造りに精を出し、国家の財政は火の車。


やがて、国庫は底をつき、夫を金策に走らせるばかりか、莫大な借金まで残すハメに陥ります。


そんなアンは国民から嫌われ、彼女についてはEmpty Headed(空っぽの頭)と酷評されるに至ります。


アンの死後、ジェイムズは借金を返し続けたといわれています。


また、ジェイムズにはもうひとつの顔があり、ホモセクシャルであった一面があり、ロンドンに移住してからは、妃のアンを顧みず男遊びに興じていたとのこと。


アンは死の2年ほど前から病気を繰り返し、こもりがちになります。


いよいよ病気が重くなってから、ジェイムズが彼女を見舞ったのはたったの3回だけ。


アンとジェイムズとの間に誕生した王子、チャールズ(後のチャールズ1世)は、度々母を見舞い、泊まり込み、臨終にも付き添ったそうで。


それだけが、死に臨む彼女の救いだったのかもしれません。


無神論者といわれるほど、宗教に関心のないアンでしたが、夫のジェイムズを困惑させるため(推測論)、途中カトリックに改宗しています。


ところが、アンは死の床で「私はプロテスタントでした」と告白したそうです。


1619年3月2日、享年44歳でした。


アンとジェイムズの関係は、現代に生きる日本人にも普遍的な要素がはらんでいるように感じます。


妻やパートナーが借金をしてまで、高価なブランド物を買いあさったり、突飛な行動を起こすのは、愛情不足からきているといわれています。


アンは夫に無視されるよりは、困らせて嫌われたほうがマシと考えていたのかもしれませんね。


【5】


《アン女王》
ゴドフリー・ネラー

 

1690年頃

 

 

トランプダイヤ17回にわたる妊娠の末、世継ぎを残せなかったアン女王トランプダイヤ


優美なドレスの上に中途半端に羽織るオコジョの毛皮。


生活習慣の乱れと不摂生から、身を亡ぼす暗雲を漂わせるオーラ。


どこかアンニュイで不貞腐れた表情を浮かべているようにも見えませんか。


姉のメアリー2世、相次ぐウィリアム3世の死によって、女王に即位したアン。


暗愚な女王として、民衆からも蔑まされることが多かったアン女王。


でも、決して愚かな女王なんかではありません。


重要な芸術支援者であり、乗馬を好むスポーツウーマンでもありました。


政治的には、イングランドとスコットランド2つの国をグレート・ブリテンという1つの国へと統合した偉大な功績を残しています。


デイジーは、この女王さまについての知識がほとんどありません。


アル中、美食家、肥満、気分屋…そんなイメージしか思い浮かびません。


この肖像画は、まだ若くてスレンダーな体型を維持していた頃のアン女王かと思われます。


それから、ヘンデル作曲による《アン女王の誕生日のための頌歌》。


デイジーお気に入りのUKミュージック、ペットショップボーイズのナンバー《Hold on》にも、序曲がミックスされ親しみを感じます。


この作品を前にして、彼女の不遇な人生に共感されるメッセージが伝わってくるようです。


18歳でデンマーク=ノルウェー国王フレデリック3世の次男ジョージ・オブ・デンマークと政略結婚。


夫婦仲は良好だったといわれています。


アンの不幸は17年の間で17回妊娠をしたが、双子を含め6回の流産、6回の死産、2人は生まれて数時間後に死亡、2人は2年も経たないうちに病死。


唯一幼少期を生き延び、世継ぎとして期待されていた、グロスター公ウィリアムも11歳の時に猩紅熱で命を落としています。


そもそも、彼女は女王という地位など、全く興味なかったのではないでしょうか。


これも王家に生まれた宿命と運命によるめぐり合わせ。


自由のない堅苦しい宮廷の暮らしに加え、世継ぎを生むことへのプレッシャー…。


そのストレスから次第に暴飲暴食へと走るようになります。


わけても、彼女の大好物はブランデー。


いつもブランデーの香りを漂わせていたことから、ニックネームとして「ブランデーおばさん」と呼ばれるようになります。


ブランデーの香りなんて、いい匂いではありませんか(^^♪


過度なアルコール摂取により、痛風を患い、いよいよアルコール依存性にまで発展。


真っ昼間から酒をあおるように飲み、手は震えはじめ…これでは、まともな公務は望めません。


過食も進み、晩年はブクブクと太り、ウルトラメタボな肥満体型となり、歩くことも困難だったようです。


そのような、自暴自棄に陥るアンの振る舞いに対して『意志が弱い』『甘えている』と、非難する人も多くいますが、デイジーにとっては共感できる局面があるようです。


もし、17~18世紀初頭のイギリスに生まれ、彼女と同じような境遇と重ね合わせてみれば、デイジーも同じ運命をたどっていたかもしれない、と。


1714年8月1日、ブランデーが祟り脳卒中で倒れ、帰らぬ人となりました。


享年49歳でした。


アン女王の埋葬時には、こんなエピソードがあります。


最終的には極度の肥満に陥り、遺体を収容する棺も正方形にせざるを得ないほどの大きさとなってしまったんだとか。



▲陶磁器&テーブルウェアの英国ブランドQUEEN ANNE


まじかるクラウンアフタヌーンティーのはじまりはアン女王まじかるクラウン


アン女王はイギリスに紅茶を定着させた女王として、今日に及んでいます。


美食家だった彼女は大の紅茶好きでもあり、朝食には必ず紅茶を飲み、ロンドン郊外のウィンザー城にティーサロンを設けるほど。


宮廷では、女王を真似して、豪華なティーセットを揃え、日に6~7回紅茶を飲む習慣が広がりました。


現在、ホテルのラウンジや高級カフェなど、日本人にも浸透しているアフタヌーンティー。


こだわりの紅茶とともに、サンドイッチ、スコーンやケーキといっしょに召し上がる優雅なひととき。


イギリス人ならではの美意識とセンスが凝縮された紅茶文化は、彼女の存在なしに語りつくすことはできないのです。


アン女王バンザ~イ\(^o^)/


さて、世継ぎを残すことが叶わなかったアン女王を最後に、ジェイムズ1世から続いたスチュアート朝は幕を閉じます。


再び、王位継承権問題が暗礁に乗り上げる英国。


次のイギリス王は誰になるのでしょうか。


そろそろ、この辺で失礼いたします。


この続きは次回に更新したいと思います。



▲デヴィ夫人ことデヴィ・スカルノさん


この度の展示、KING&QUEENのサポターはデヴィ夫人。


デヴィ夫人の解説は、とても説得力があってわかりやすい。


敵いませんわよ~~おほほほほ(^^♪


海外の国家元首の妻になり激動の人生を歩まれた夫人ならではの視点だからこそ、肖像画人物に感情移入しやすいのかもしれませんね。


ここだけの話し、デイジーはデヴィ夫人がだ~~い好き!!!!!


なのです(´∀`*)ウフフ


こんなにお美しくて気品があって、教養豊かな女社長なんかが存在したら、デイジーは即その会社に面接を挑むでしょう(^^♪


言い過ぎて、ごめんあそばせ音譜

 


最後は、幸福な国デンマークからドキドキドキドキドキドキ


ノリノリの曲でお別れしたいと思います。


『あっ!このメロディどこかで聞いたことある!』


なんて、人もたくさんいると思います。


1995年にデビューした、Me&Myはデンマーク出身の姉妹アイドルデュオ。


本国デンマークをはじめ、たちまちヨーロッパ中にその人気は広がり、デビューアルバムはゴールドディスクを獲得。


日本でも150万枚以上の大ヒットを記録。


ビデオクリップナンバーは“Baby Boy”。


男の子の赤ちゃん…別に女の子でもいいんですが~


この曲を聞くと、不思議と元気が出てくるんですw


頭を空っぽにさせて、ハイな気分になりたいときにはオススメかな。


心まで灰色モードになってしまいそうな、メランコリーな11月は、コレを視聴して小春日和(こはるびより)を授かりましょう。



▲Me&My – Baby Boy 1995年


秋から冬にかけて寒くなる季節は、ファッションにレパートリーの幅が広がります。


色合い的にはダークなものを選びがちな傾向がありますが、なるべく明るい色のものをお召になることをおすすめします。


原色やパステルカラーに抵抗のある人は、帽子、マフラーやショール、手袋、バッグなどの小物にポイントを効かせるだけで、気分まで明るく前向きになってきます。


赤や黄色のモミジにおおわれた野山や庭を思わせるような色とりどりの洋服を身にまとった人たちが歩いていると、世の中全体が楽しくハッピーになりますものね。


デヴィ夫人のように(^0^))爆笑


デイジーからでしたいちごいちごいちご