9月に入るといつも思い出すのが「9.11」

あれは本当に忘れることのできない出来事でした。

2001年のNYCでのテロ事件を知らない人というのは
世界中でもほとんどいないのではないかと思います。


当時私自身はNYCのアッパーイーストサイドに住んでいました。

わたし個人的にとっては結婚した翌年。
ニューヨーク生活も7年になる頃で、
ニューヨーク生活も板についてきた時期でした。


そんなことが起こらなかったら、特になんてことのない普通のよく晴れた美しい一日だったはずの日。

その日、朝目覚めると、うちの彼がテレビをつけて叫びました。

"World trade center is on fire!"

あまりにも尋常じゃない言葉にわたしの脳は最初その言葉を理解することができませんでした。

自分もテレビを見ると、本当にワールドトレードセンターのビルのひとつが燃えていました。

それを見ても最初は脳が状況を理解することができず、
少ししてビルが崩れ落ちていくのを見た時、初めて
ただぼんやりと「なにかとんでもないことが起こっているらしい」と感じました。
けれどもそれに対してまったく反応ができなくなっている状態でした。

その日、わたしの住んでいた付近は雲ひとつない快晴で、
ワールドトレードセンターからは結構離れているその地域は平和な美しい景色でした。

けれども人の心にも、街にも、目には見えない真っ黒な濃く分厚い闇が襲ってきているような感じが常にしていました。

当時はEメールなどほとんど受け取ることもなかったのに、
その日は普段はほとんどつながっていない人たちまでたくさんの人たちが「大丈夫?」とメールをしてきました。
(してこなかったのはわたしの家族だけ 笑)


そしてその後は少しずつこの街で起こったことを痛切に思い知らされていきました。

すぐにサブウェイのサービスは止められ、特に14thストリートから下にはしばらくの間電車が走っていませんでした。


テレビで見る画像には本当にすさまじいものがありました。

ワールドトレードセンターから少し離れた場所で報道する人は
突風が吹いてきた途端、一瞬にして全身灰まみれになって、まるで石像みたいになるし、

ビルの窓の外のふちに逃げてきた人たちがどうすることもできずにそこから飛び降りる映像は今思い出しても悲しさと恐ろしさに涙が出ます。

どれだけ怖かっただろうか?
そんな死に方しなきゃならなかった人たちがいるなんて!

そして帰ってこない愛する人たちを探す人たち。
その数も半端ではなく、特にダウンタウンには数え切れないほどの張り紙!
それを目にするだけでこちらも心が真っ暗になり、泣けてきました。

わたしたちの住んでいたアップタウンでさえも結構そんな張り紙を見ました。

ワールドトレードセンターにいた人たちだけでなく、
消防士たちなども多数が亡くなりました。

本当に言葉では表現し切れないほどの感情、思いがその出来事の中にありました。


その後、しばらくの間、街には大きな悲しみと、嘆きと、怒りと、恐れのエネルギーが渦巻いていました。

わたしは当時、学校で子供たちに日本語を教える仕事をしていたのですが、恐怖に学校にこれなくなってしまった子も何人かいました。

私自身は父にNYCは今、とても危なさそうだからしばらく日本へ帰ってくればと言われました。

けれどもわたしとしては決してそんな気持ちにはなれませんでした。

確かにわたしも怖かったけど、だからといって彼を残して自分だけ日本へ帰って、
たとえ自分は死ななくても彼や友達が死んじゃったりしたらどうだろう?

・・・そんなふうに想像してみて、やっぱり違うなあと感じたのです。

「自分はニューヨークの人だ!ここはわたしの家だ!」・・・そう思ったんですね。

つらくても、怖くても、ここで一緒にこの街と生きていこう!
ここでみんなと一緒にこの時を乗り越えていこうと!


「9.11」は本当に恐ろしく、腹立たしく、悲しい事件だったけど、
それによって、NYCで生き残った人々は何かを学んだんです!

日々のなんでもないシンプルなことが、ただ生きているということが
どれだけ幸せで素晴らしいことかということを!

その証拠にその二年後に起こったNYCのブラックアウト(大停電)の時は
ニューヨーカーたちはそれをとてもスムーズに助け合って乗り越えることができたんですグッド!

そのときの話はまた改めて書きますが、
あの日はますますニューヨークに誇りを感じた日でした。合格



Image result for world trade center

アメリカ合衆国というのはその名の通り、まったく違う州が合併してひとつになった国で、
州が変われば、まるで別の国にいるような感じがすることも多い、ユニークな国です。
そのため、住む場所をどこにするかによって、その印象もまったく違うと思います。

私自身はニューヨークとマイアミにはどちらも10年以上住みました。
あとはハワイ(ハワイ島)に短期間ヴォランティアワークをしながら滞在したことがあったり、
そのほかにもボストン、DC、ホノルル、ニューメキシコ、オーランド、ラスヴェガスなど、様々な場所を訪れたことがありますが、本当にどこもまったく違ったカラーを持った場所ばかりでした。


アメリカに住もうと思った時にどこを選ぶのか?

それは自分自身のニーズをよく把握して決めた方がよいと思います。

私自身の場合は「踊る」という目的があったので、
もうその時点でNYC以外にチョイスはなかったのですが、

たとえば
日本人にとって住みやすい場所を選ぶのか?
それともちょっとチャレンジングな環境を選ぶのか?
・・・その辺ははっきりとさせておいたほうがいいと思います。

基本的にアメリカの主な場所の中で日本人にとって最も住みやすいのは、

NYC(マンハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクス)

LA

Honolulu

・・・その三つの街の中だと思います。

なぜならこれらの街の中には日本人も大勢住んでいるし、
日本人のコミュニティーなどもあるので、人に頼ることができるからです。

異国で暮らし始めた頃は、普通ならなんでもなくスムーズにできる小さなことにも苦労するものですが、
そういう苦労することも人に手助けしてもらえばスムーズにできますからね。

ただし、その環境の中ではついつい甘えた気持ちになって、
なんでも人に頼む癖がついて、自分ひとりではなにもできなくなってしまったり、
下手すると、英語さえ話さずに暮らすようになったりすることもあります。

実際にニューヨークに何十年も住んでいるのに、
いつも日本人とばかりつるんでいて、英語もひどいし、感覚的にも日本人のままで、ただきつくて変わった日本人になっただけっていう人たちを私自身、結構見ています。

・・・まあ、目的がただ「ニューヨークに住むこと!」だけなのであればそれでもいいと思うけど、
アメリカで暮らすことによって自分の経験や視野を広げ、世界を見て、心も人生もより豊かにしたいと思っている人たちにとってはそれでは残念すぎますよね!ダウン

その点、日本人がいない場所を選べば苦労も多くなる分、嫌でも英語力も経験値も上がります。
けれども、本当の意味でのアメリカ生活って誰にでも簡単にできるような易しいことではないことも確かです。だから最初からきつすぎる状況を選ぶと、挫折してしまうこともあるかもしれません。

おまけに日本人のいない地域に住む人たちというのは日本人の習性を知りませんから、自分を理解してもらうことも難しいのです。
だからどうしたってある程度相手に合わせたアメリカ的な言動、リアクションの仕方ができなくては人の中に溶け込めません。それで孤独になることも多いと思います。

わたしはニューヨークに10年以上住んだ後でマイアミに移りましたが、それでもマイアミの生活というのは結構きつかったです。

わたしのハズバンドはアメリカ人ですし、わたしの場合、英語に問題があったわけではなくて、
日本人があまりいず、日本人に慣れの薄い人たちのなかで行動することが非常にしんどかったのです!あせる

特にマイアミはラテンのエネルギーが強く、
(もちろんニューヨークにもラテンの人たちはたくさんいるけど・・・)
ラテンのエネルギーというのは基本的に日本人とは真逆だし、
同じラテンでもマイアミのラテンはピュアにラテン・・・ってかんじで
ニューヨークとは人のエネルギーも全然違ったのです!

ただ、そんな環境の中でもいくつものヨガのティーチャートレーニングを受けたり、実際にヨガのティーチングをしたりした私自身の経験が自分をより強く、フレキシブルにしてくれた(英語においても、コミュニケーションにおいても、精神的にも)
・・・そう感じます。

また、同じ州でも街に住むか、郊外に住むか、田舎に住むか・・・場所によって全然違うはずです。

わたしはこの2年半、ニューヨークのロングアイランドに住みましたが、NYCにいる感覚とはまったく違いました。
非常に美しい素敵な場所ですが、NYCとは違って、ここが自分の家、居場所という感じが全然しませんでした。
マイアミにいた時もずっと(10年以上も!)バケーションに来ているような気分でしたけどね。

けれども・・・

アメリカのどこに住むかを選ぶシチュエーションの中では、
やっぱり理屈以上に本能、直感で感じるものが大切だと思います。

自分が住むべき場所のエネルギーを感じている時には
なんだかいい気分になったり、ワクワクしたり・・・直感、本能が「ここだよ!」って教えてくれるものなのです!

私自身も1992年(渡米する2年前)に初めてNYCに来た時、異常なストレス状態だったにも関わらず、突然ドクドクと血が騒ぎ出すような、とても特別なワクワク感を感じました。
あの感じは本当に特殊で、それ以外の場所では感じたことのない感覚でした。

マイアミ、ハワイ、ロングアイランドではその美しさに夢見るようないい気分にはなったけど、
ニューヨークに入る時に感じた「ドーン!」っていう衝撃はなかったです。

・・・そんなわけで、私自身は自分が一番いたい場所へついに戻ってきました!ドキドキ




Image result for nyc



前のブログでわたしが渡米した1994年頃は特に日本人にお金があるイメージが強烈だったというお話をしました。

お金があると人はへえこらしてくれると同時に騙されやすい!
特に当時のニューヨークでは日本人には想像もつかないような人たち、日本では考えられないようなこともたくさんあったので、豊かで平和な日本の人間には注意が必要でした。

・・・・・とはいえ、あまり疑い深くなっても人生は楽しくありませんよね。

当時のニューヨークに住む日本人たちの多くが、いつもいつも騙されることを恐れながら生きていたように思えましたが、なんだかそれもつまらないよなあとよく思っていました。

「騙されてはならない!」と、いつも人を疑う。
目の前にいる人は自分を騙すことを前提として接する。

・・・・・常にそんなふうにしていると、どんどんギスギスとした人間になっていくのですよ!
非常に人とコネクトしにくくなる!

当時、ニューヨークで何年も暮らしている日本人というのはそういう人たちが本当に多かった!
申し訳ないけど、自分もそんなふうになりたいとはとても思えなかったのです。

だから、わたしはあえて疑うということをしなかったんです。
ニューヨーク先輩(?!)の日本人たちにはさんざん
「注意しろ!」
「すべてを疑ってかかれ!」
「ニューヨークにいたらきつくならなくては生きていけない!」
「その人はあなたを騙そうとしているんだ!」
・・・・・などと、いろいろ脅されたのですが、
そういう感覚で生きるのが嫌だったんですね。

もちろんニューヨークで暮らすためには特にある程度注意深さは必要だと思うけど、
騙されたら、騙されたで、その騙された経験から学べばいい。

物事を判断する時には自分の本能と直感に従えばいいだけで、
最初からすべてを疑う必要はないと思っていました。

そんな「騙される」経験で面白いものがありますので、それをシェアします。


それは確か1995年の夏。
渡米後、初めての日本への帰国からニューヨークに戻ってきた時の話です。

その時は空港から初めて一人でシティーまで戻ってくる体験をしたのですが、
キャブ乗り場を探していたら、ジプシー・キャブのお兄さんに声をかけられたのです。

ジプシー・キャブなど、ぼられるので
特に慣れていない人間は絶対に乗ってはならないのですが、
そのお兄さんはとてもフレンドリーで親切でした。

シティーまでいくらかかるか聞いたのですが、場所によって違うという返事で、ちゃんとした金額を出してこず、
それだけでも今なら絶対に断る状況なのですが、
あの時は無知だったし、経験も浅かったし、
疲れていて早く帰りたかったのでそのジプシー・キャブに乗っちゃったんです!

キャブの中ではお兄ちゃんと学校のことだとか、楽しくいろんな話をしました。

しばらく走ると、お兄ちゃんは突然。

「駄目だ!僕にはできない!」 (No! I can't do this!) と叫んだのです!

「どうしたの?」 (What's wrong?) と聞くと、

「このままシティーまできみを乗せていったら、
きみから80ドル取らなきゃならなくなるんだよ。
きみはすごくいい子だし、そんなことできないよ!
すぐそこに地下鉄の駅がある。そこで降ろしてあげるから地下鉄でシティーまで帰りな」
・・・・・・そういって、ジプシーキャブのお兄さんはわたしを地下鉄の駅で降ろしてくれたのです!

それは目から鱗が落ちるような体験でした。

当時、わたしはしっかり20代だったけど、どう見ても高校生くらいにしか見えなかったのです。
会話の中で大学の学生だということはわかったと思うけど、ジプシー・キャブのドライバーに明るく自分のことを話す、そんな無邪気なキッドを騙すことに心が痛んだのだと思います。

その体験からのメッセージは

「人を見たら泥棒と思え!」ではなくって、

「どんな人にもハートがあるドキドキ・・・・・・ってことでした。

騙されてみてよかったという、ちょっと現実味のない心温まるお話でした。ラブラブ

(でもやっぱり慣れないうちはジプシーキャブには乗っちゃだめよ! 笑)



Related image

わたしの1994年の渡米当時の話をもう少し書こうと思います。

とにかくちょっとしたことをするのが大変で、すべてがアドベンチャーだった渡米当時でしたが、
そのなかでも当時、一番大変だったのがバンクアカウント(銀行口座)を開くことでした。

確かニューヨークに着いた翌日くらいに、近くに見かけたシ○○バンクに、バンクアカウントを開きに、
行動を共にして助け合っていた日本人の友達六人そろって出向いたのですが、
そこは大きな支店ではなかったため、
そこから大きな支店に電話してバンクアカウントを開かなくてはならなかったのです!電話

その結果、六人のうちの三人はその日バンクアカウントを開くことができず、
改めて大学の近くにある大きなバンクの支店に行くことになりました。
(大学の近くの支店にはそういう学生たちをサポートしてくれる人たちがいたようでした)

わたしはその日そこで何とかバンクアカウントを開くことができたのですが、
相手が何を言っているのかわからなかったり、バンクのシステムとか用語がわからず、かなり時間がかかりました。

わたしの電話を受けていた相手は話の進みのあまりの遅さにとてもイラついていたようで、

"Could you say that again?"
"Could you speak a little more slowly?"

・・・などと頼むたび、「チッ!」「チッ!」と舌鼓を打たれましたが、むかっ
わたしが8000ドル預けると言った途端、

"Hello, ma'am. Thank you for using the ci** bank."

・・・と、態度がころっと180度変わりましたね。
わたしのような外国人の学生は40ドルとかでバンクアカウントを開くことがほとんどだったからですね。

どこの国でもそうかもしれませんが、基本的にお金があるとわかると人は突然、親切にしてくれる気がしました。
ただし、それと同時にお金があると騙されたり、嫌われることも多いですね。

94年頃はまだ日本はバブルエコノミーをひきずっていて、
日本人というのは非常にお金を持っているイメージが強かったようです。

まあ、今もそうなんですが、当時は中国人などはお金を持っていなかった時代なので、
特に日本人がお金を持っているというイメージは強烈でした。

世界中どこの国を見たって一部の大金持ちたちを除けば
そんなにお金のある人っていうのは一般的にはかなり少なかったので、
日本人というのはNYCのなかでも特に浮いていました。

金銭感覚が違うと人間としての感覚も違ってきて、普通に人とコネクトできなくなってしまうのです!
実はお金なくてがんばっている人たちのほうがずっといいフレンドシップを経験できるのです!

わたしは当時はいわゆる「お嬢様」で、そんな日本人の中でもお金を持っているほうだったので、
(今はあんまりお金持ってないけど・・・笑)
多くの人たちからかなり嫌われましたね。
しかも当時はなんで自分が嫌われるのかがまったく理解できなかった!

けれども今になって思えば確かに、好き放題に何でも買えて、やりたいことはなんでもできる外国人の小娘が偉そうにシティーを我が物顔で歩いていたりしたらムカつきますよね(笑)むかっ

・・・と思うのも、今はそういう過去の自分とよく似た、一部の金持ちの日本人や中国人などを見てちょっとムカッときたりしているからなのかも(笑)

24年の間にわたしもすっかりニューヨーカーの目線になりましたね。




Image result for bank phone 90's


渡米24周年記念日で
「自分のアメリカ体験をシェアしよう!」って思った勢いで、
さっそく何か書き始めようと思ったのですが・・・・・・

あまりにもいろいろあり過ぎて何から書いていいかわからない!!!(笑)

それで、とりあえず、24年前(1994年9月)にNYCに着いたばかりの頃のことを書いてみようかと思いました。


当時、わたしはNYU(ニューヨーク大学)の大学院に行くことが目的で渡米しました。
(実はそのほかに『踊る』という目的もありましたが・・・)
同じ留学斡旋の会社を通して渡米した同世代の若い2人の仲間たちと一緒でした。

その2年前の夏に一人でちょっと怪しい会社を通して5週間の英語とダンスの短期留学にNYCにきていたのですが、その時と比べると、留学斡旋の会社もちゃんとしていたし、一緒に行く仲間もいたので安心でした。

2年前はまず、空港に迎えに来るのを忘れられるという悲惨な始まり方だったのです!
当時は携帯電話もほとんどない時代。
最初から蕁麻疹が出るほどのストレスでしたが、94年の渡米の時はとてもスムーズにNYUの寮に着けました。

寮の部屋に入るとルームメートの女の子が自分の部屋で昼寝をしていました。
(キッチン、バスルームが共有で、ベッドルームは別々に分かれている部屋でした)
起こしちゃ悪いと思ったので、挨拶は後にして、わたしも自分の部屋でおとなしくしていました。
その子はギリシャ系のアメリカ人で、日本人とは違う寝顔をちらりと見ながら、
まったく新しい世界が自分の目前にあるのを感じました。

そして少しして薄暗くなってきた時に、わたしはあることでとてもギョッとしました!

部屋の電気をつけようとして、電気のスイッチをいじると、電気がつかない!
どのスイッチをいじってもつかない!
電気が切れちゃっているのか?
どうしたらいいんだろう?叫び

そして薄暗くなった部屋を見回すと、
スイッチはあっても電気自体がどこにもないことに気づきました!
どうやらそれぞれにスタンドランプを買わなくてはいけなかったよう。
まるっきり想像もしないことだったのでビックリしました。
どんどん真っ暗になっていく部屋の中で一人でおろおろしていました。

しかも、ベッドを見ると、ベッドのフレームとマットレスだけで、ブランケットやシーツなどは何もない!
それもまた買わなくてはいけないようだったんだけど、
数時間前に日本から着いたばかりだというのに、どうすりゃいいの?
・・・・・そんなかんじでした。

ラッキーなことにわたしはその夜はルームメートのレイチェルにスペアのベッドセットを貸してもらえたのですが、
ブランケットなしに寒くてふるえながら丸くなって寝たのをよく覚えています。

今年は同じ季節の今、ひどく暑いですが、あの年はニューヨークは日本よりはずっと涼しくて、
通常は暑がりのわたしがニューヨークに着いてカーディガンを羽織ったことを覚えています。
日暮れ時になるとさらに肌寒くなったことも。

翌日からは、ニューヨークへ一緒に来た二人の日本人の友達と、そちらの寮についてから知り合ったもう三人と六人でいろいろ助け合ったり、一緒に行動したりするようになり、スタンドランプやベッドセットを一緒に買いに行きました。

インターネットの時代ではなかったので、私の二年前の記憶と共に、ミッドタウンの大きなストアへ行きました。(二年前に一人でたくさん歩き回っておいてよかった 笑)

とにかく、渡米の最初の頃というのはちょっとしたことをするのが大変で、すべてがアドベンチャーでしたが、
その分、とても印象深く忘れられない、楽しい日々でした。ラブラブ





Related image