今年からNetflixでも配信が始まった唯一のジブリ作品「火垂るの墓」。
小学6年生の息子の読書感想文に、映画もあるし、ちょうどいいのではないか、と思い、昨晩から鑑賞し、今日の午前中に観終わりました。
私が初めて「火垂るの墓」を観たのは映画館で「となりのトトロ」と2本立ての上映でした。一人で観たような気がします。おそらく「火垂るの墓」をはじめに観て、そのあと「トトロ」を観たのだけど、「火垂るの墓」の印象が強すぎて、トトロの世界観にはまれなくなったような気がします。
そして、「火垂るの墓」は二度と見たくない、悲しすぎる、と思いながらうん十年経ちましたが、ついに自分の子供とみることになりました。
というのも、息子を一人でこの映画に立ち向かわせるのは酷だ、と思ったからなのです。やはり、隣に人がいて、話しながら、安心しながら観るのがよいのでは、と思いました。なので、実は「トトロ」との同時上映も「火垂るの墓」の強さを打ち消す、よく考えられた構成だったのかもと思いなおしました。
いまの小学校は「はだしのゲン」が教室においてあることもないし、昔の先生がしたような反戦教育の授業もないし、近所の公民館に戦争の写真パネル展がくることもないし、「ちいちゃんのかげおくり」という話が教科書に載るくらいで、圧倒的に戦争の情報が昔と比べて少ないように思います。高校でも「さくら隊散る」という反戦映画を観て感想文を書いたけど、いまはやってるのかな? 「火垂るの墓」のテレビ上映もなくなったらしいし、やってないかもしれないですね。
私たちのころは「はだしのゲン」が教室に全巻そろっていたくらいなので、小学6年生が「火垂るの墓」を観るのは問題ない、と思ったのですが、いまは「火垂るの墓」の小説は中学生の推薦図書になっているそうで、いまの感覚だとちょっと早いみたいですね。
さて、観終わってから、少し作品についてぐぐったのですが、(当時映画館で観た時はインターネットなんてなかったので、観て終わりですが、いまは簡単に情報を深堀できて、いいですね)野坂昭如さんの自伝的小説をもとにしたアニメ映画だということは知っていましたが、現実と違うところもいくつかあるそうで、そのあたりを興味深く思いました。もちろん、はじめに亡くなる主人公は生きていて、そのあと小説家になるのですから、現実と違うのはわかります。ただ、野坂昭如さんの妹さんは実際には1歳4か月だったそうで、話すこともできないくらい幼かったそう。そして、野坂さんはあんなにいいお兄さんではなかったそう。自分の娘ができてから、死んだ妹のことを思い出して書いた小説だとか。主人公のように、優しくできたらよかったのに、という気持ちなのでしょうか。その背景を知ると、やはり、本当の意味での反戦小説なのかもしれません。
アニメの方は、監督は反戦映画ではなく、現代人の若者の姿を見て、「社会からはぐれる」とどうなるか、ということを見せたかったそうです。主人公が部屋でゴロゴロしていて、何もしてない、ところが現代の若者の姿だとか。ラストシーン、幽霊となった主人公が現代の神戸の姿をみていますが、なにを訴えたかったのでしょうか。それともう一つ。主人公のお母さんの着物をおばさんが売りに行こうとするシーン。そこで、幽霊の主人公がでてきて、節子の泣き声に耳をふさいでいますね。あれも、なんの意味があるのでしょうか。
見終えたばかりで咀嚼できていませんが、また観てよかったな、と思ったのでした。