小説の中で出会うゲランやエルメス。
松本清張「けものみち」の中のゲラン 夜間飛行。
山崎豊子「華麗なる一族」の中のエルメス。
そして今読んでいる渡辺淳一「化身」の中のエルメス。
パリにて。
【 抜粋 】
まことにパリの街は、女性の目を輝かせ、男の目を委縮させる。
~ 中略 ~
秋葉は、上の娘に頼まれた、カルティエの指輪を探してもらうことにした。
だが店に行ってみると、色変わりの三連のものは日本円にすると十五万円近くする。
この春ようやく出版関係の会社に勤めて、社会人になったとはいえ、これでは贅沢すぎる。
秋葉は霧子と相談して、一番細いタイプにしたが、それでも六万円もする。
二番目の娘からはとくに注文はなかったが、これも霧子の意見をいれて、エルメスのアジャンタカバーの手帳にする。表が仔牛の革で若い女性に人気があるというが、ボールペンをつけると一万円以上になる。
他に、母とお手伝いの昌代に財布を買うと、秋葉の買物はすべて終ってしまった。
「どうだ、決ったか」
思い出してきくと、霧子は大きくうなずく。
「少し高くてもいいですか」
「まあいいから、いってごらん」
「あちらに、あるんです」
いわれて棚の前へ行くとバッグが並んでいる。
霧子が指さすのを店員が渡してくれるが、値段を見て、秋葉は目を疑った。
「ケリーバッグといって、みんな憧れているんです」
霧子は早くもバッグを手にして鏡の前に立っているが、日本円で二十七、八万になる。
「高すぎるわよね・・・」
霧子が窺うように秋葉を見る。
きこえぬように黙っていると、霧子がそっとバッグを店員に戻した。
その沈んだ顔を見て、秋葉はきっぱりといいきった。
「約束だから、買おう」
たちまち、霧子の顔一杯に、笑いが広がっていく。
~ 中略 ~
ケリーバッグも、かつて秋葉が憧れたグレイス・ケリーが愛用したとあっては、霧子に買ってやるに、やぶさかではない。
だがそれにしても、このバッグはいささか高すぎる。普通バッグといえば、五万か、せいぜい十万くらいかと思っていたが、その三倍近くもする。
しかし霧子が欲しいというのなら仕方がない。
男の約束というより、ここまできたら男の意地である。
店員からバッグの入った包みを受けとると、霧子は喜びを顔一杯に表わして深々と頭を下げた。
「ありがとう、一生、大切にします」
この一瞬の笑顔を見たいばかりに、男は三十万のお金を捨てる。
考えると馬鹿げてみえるが、これが男の喜びでもある。
霧子はよほど嬉しかったのか、ホテルに戻っても、バッグを持った姿を何度も鏡に映してみた。
「とっても品がよくて、落着いているでしょう」
「しかし、君には少し大人っぽいかもしれない」
「だから一生持てるでしょう」
高くても流行に関わりなく、上質なものを持つように教えたのは、秋葉自身である。
「これを見たら、みんな驚くわ」
~ 略 ~
出発まで少し時間があるので、免税店を見て廻ることにした。
ケリーバッグを買ったとき、霧子は「もうなにもいりません」と宣言したはずだが、新しい品物を見ると、また買いたくなるらしい。
「朋ちゃんは、どうしようかな」
一人でつぶやきながら、財布や定期入れを手にとっている。
秋葉はそれを横目で見ながら、史子になにも買わなかったことに、こだわっていた。
すでに別れた女性に、いまさらお土産でもない。
そうは思いながら、なにか買ってやりたい気がしないでもない。
迷いながらふと横を見ると、霧子が奥のアクセサリーが並んでいるショーケースを眺めている。
いまなら、見つからないかもしれない。
秋葉はなにか悪いことでもしているような気持ちでスカーフを一枚手にとった。
柄をよく見る余裕はないが、ベージュを基調にした落着いた柄のようである。
「これを・・・」
秋葉が店員に差し出した途端、霧子がこちらを振り向いた。
急いでくれればいいのに、店員がゆっくりスカーフをたたんでいるうちに、霧子が戻ってきた。
「あら素敵ね、お土産ですか」
「ちょっと、世話になった人がいるんでね」
「いくつくらいの方ですか」
「四十くらいかな」
「いいんじゃない」
霧子はそれだけいうと、またアクセサリー売場のほうへ行く。
※初出紙 「日本経済新聞」1985年1月18日~85年11月1日
単行本 1986年3月 集英社刊