自分のココロがどんな状態なのかを知ろうとするようになってから、
色々な事に気付くようになりました。
多くの人がこの信念を持っていると思いますが、
「頑張る事はよい事」というこの信念は、
私自身の中にとても深く根付いていました。
頑張っている自分はOKで、頑張っていない自分はダメだという思考で、
なのでダラダラしていると罪悪感で重苦しい気持ちになってしまって
いたのでした。
頭で考えれば、頑張るときは頑張って、休息の時はゆっくり休息し、
遊ぶときは遊べばよいという事は、その通りだと思えるのですが、
自分のココロを深く探って行くに連れて「やるべき事をやってから
でないと遊んではいけない」という信念がある事にも気づき、
それが苦しさの元になっている事に気付きました。
なぜなら、私には「やるべき」と思っている事がとても多かったので、
いつまでたっても、そのやるべき事リストが完了しなかったのです。
なので「遊ぼう」と思って遊ぶ事が出来ませんでした。
更に、自分の中に「楽しむ」という選択肢がなかった事に気付いた時、
私にとって、それは人生の大きな転機となりました。
そして、長い間自分に「楽しむ」事を許していなかったのだから、
これから残りの人生を「楽しむ」事を優先して行こうと決意した
のでした。
そのようにして、自分のココロが喜ぶ事を選択できるように
なっていったのですが、
どうしても、気が進まない事、やりたくないと感じる仕事も避けられ
ない事もあるわけですが、
そこについても探求していくと、避けられない事は「嫌々やる」の
が一番辛いものだと実感するようになり、
一番抵抗ある事、大変だと感じる事を、どうすると楽しみ、喜びに変え
られるかを考えるわけですが、
最終的にそこに辿り着くのは、「子供は何でも遊びに出来る」と
いうものでした。
まだ「嫌な事を頑張る」という事を教えられる前の子供は、
好奇心旺盛で、体験が楽しい遊びになり、
自分が今、そんな風に子供のように純粋で好奇心旺盛で、やってみる事が
楽しく感じられたらどうだろうと、
今苦手と感じている事も、やってみて出来るようになる事が楽しいに
違いないと。
そう思うと、それまで「嫌だなぁ」「大変だなぁ」と感じていた
のが、ワクワクする気持ちに変化して行くのでした。
それでも、また油断すると「嫌だなぁ」「大変だなぁ」と逃げたい思考も
戻ってきますが、
遊びに夢中な子供のイメージを思い出すと、また、
明るさを取り戻すことが出来、
子供をお手本に、仕事や雑事でも「遊びの天才」を死ぬまで目指して
いきたいと思っています。