今日は晴れている。この分ならば今日の月食が見れそうだ。さて、今日は
久しぶりに友人と会っておしゃべりした。でもお互いにこの齢になれば
話の内容は病気のことばかりだった。昔のように華やいだ会話もなく、でも
懐かしい語らいで時が過ぎた。
 宵闇の待たるる今日の名月や
連載小説「医と筆と」14
 順庵は悪い足を庇いつつも川向こうの薬草園に出かけて新種の研究に余念がなく、与作がつきっきりで世話をしている。診療所では誰一人怠けるものはいない。日暮れて賄いのお滝さんが作る夕餉につくときが唯一寛ぎのときであった。今夜は薬草園の一画で採れたそら豆が緑も鮮やかに夏の味覚を添えている。
「父上、今日は呉服問屋樋口屋まで足を伸ばしました」
「たしか、浅草広小路は田原町であったか」
 田原町は浅草は広小路、つまりは吾妻橋から西、雷門界隈にあり大火を恐れて広く取った道筋の両脇は呉服問屋が軒を連ねているが、女子どもが好む小間物、はたまた古着屋など様々な店で人通りも活気がある。
「はい、一人娘のお駒さんの気鬱(きうつ)が未だはかばかしくなく、ここまで治らぬのは祟りかあるいは何かが憑依(ひょうい)したのでは、と、母親が占い師をたてて占ったところ、罹っている医者の方角が悪いと出て転薬(てんやく)の申し出がありまして」
「占いに走るとはそれはまた、困ったものだが、医者を替えたい、と願い出られても、それも困ったものだな。そもそもの気鬱のきっかけになったのは、確か縁談であったかな」
「はい、父上もご存知の通りお駒さんは一人娘で、いずれは婿養子を迎えることは本人もちゃんと承知していたそうです。聡明で気立てもよく細やかな思いやりのある女子ですが、ある日、何を思うてか、突然、婿は取らぬ。女子でも世の中に役立つ仕事をして一生を独り身で通す。などと言い出したそうです。両親が慌て婿取りの話を勧めたらしく、その辺りから塞ぎ込んでしまうようになったとか」
「して、今はどんな具合だ」
「はい、日を追うごとに気難しくなり、親には一切口をきかぬそうで、食も進まず部屋に閉じこもり考え事に耽っているとか。今までつききりで世話をしていた乳母さえも遠ざけて一体何を考えているやら、さっぱり分らぬといった具合なのです」
「体のどこにも異常が見当たらぬとあれば、気鬱の原因を取り除くほかあるまいが、いっそ転地療養などして気分を晴らすこともよいかも知れぬな」 
 傍らで聞いていたさよが口を挿んできた。
「もしや、想いを遂げられぬ好きなお方でもおられたのでは」
「はて、そのようなことは聞いてはおりませんな。お駒さんはいうなれば駕篭の鳥、男と出会うことなど考えられませぬ」
 女の鋭い勘である。
「湊、お駒さんはおそらくは心を開いて話す相手がいないのではありませんか」
「はい、それは、そのようです。いつの頃からか段々と友だちにも疎んじられてきたようで」
「それはなぜでしょう」
「私が察するに、あまりにも大事にするあまり、友だちの誘いなどにもあれこれと親が煩く口を挟んだようで、恐らくはそれが理由ではないかと」
 さよは合点がいったというように深く頷いた。
「それではお駒さんの気鬱はよくはなりません。私が買い物がてらお駒さんの話し相手を買って出ましょう」
「えっ、母上がですか」
 湊も驚いたようであったが、さよの言葉は更に皆を驚ろかせた。
「何を驚いておられるやら。だてに長く医者の妻をしているわけではありませんよ。人の体というものは血と気によって養われておることは耳に胼胝ができるほど聞かされております。気血が五臓六腑に淀みなく廻ることこそが健康の秘訣というもの。お駒さんは、その気の部分が失われているのでしょう。私に考えがあります。亀吉を連れて行きましょう」
 今まで吉乃でさえも気付かぬ考えがさよの口を突いて飛び出したのだ。
「きっと亀吉がお駒さんの気持ちを和ませてくれますよ。今、お駒さんにとって必要なことは心のゆとり、そうは思われませぬか。賢いお駒さんのことです。目から鱗という諺もありますよ。見方が変われば、あとは自ずから心を開いてくれるでしょう。女子には女子でなければ出来ぬ立派な役目もあります。恐らくお駒さんは一途な性格なのです。察するに親御さんは余りにも性急にことを急いだのだと思いますよ。気を長く持たなければ縺れた糸は易々(やすやす)とはほぐれません。これは身内ではできぬことです。お駒さんに気を取り戻すためにも、ここは亀吉に一役かってもらいましょう」
 さよの思いも寄らぬ言葉だった。