晩秋 | ryo's happy days

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思い切り人生を楽しむこと。これが全ての私。

今朝は寒い。晴れ間も見えない今日は久しぶりに一日家と決めた。昨夜東京在住の従姉から電話があった。しかも数日前に私からかけたばかりなのに。生き生きしてて明瞭な声に嬉しくなった。アルツハイマー初期と診断されて私も気落ちしていたのだ。「薬を飲んだら本当に自分でもはっきりとしてきたことが分かるの」と言っていた。従姉とは2つ違いの仲良し、聡明な彼女だ。
晩秋の想いを馳せし東京に
連載小説「代わり筆・上」26
 吉乃の評判は瞬く間に広がり、湊が吉原へ診療に行くとき吉乃はほとんど同道しては遊女たちの代書をすることになった。そのほとんどは国元への便りだが、中には客をおびき寄せる恋文だったりもする。
 ぬしさんと語りましたし、ほんに、しんぞ待っていんすにえ、などとまだ年端も行かぬ娘が恥ずかしがりもせず口にすると、吉乃の方が思わず頬を赤らめるのだった。
 湊は遊女たちの間では、せんせ、せんせと慕われ、なかにはあからさまに吉乃に焼きもちを焼く女子もいる。
「若せんせとは言い交わしておらしゃんすとか、それは、ほんだんすかえ」
「そんなことはありません。先生とは医者と助手との関わり合いですよ」
 そう言う吉乃にあからさまに敵意を見せる遊女もいた。
 人を疑うことを知らぬ吉乃が初めて招いた災難であった。湊より一足先に吉原の大門を出たところでたちの悪い風情の三人の男どもに囲まれ、危うく連れ去られかけたのだ。
「何をするのです」
 掴まれた腕を思わず昔、父より習い覚えた護身術でわざと男の懐に入る振りをして力が緩んだところを、腕を捻って振りほどいた。
「小癪なことしやがる」
 逃げようとした吉乃を背中から羽交い締めに掛かった男に、えいっと肘で突き放したところで、血相を変えた湊が土を蹴立てるように走ってきた。
「何をするのだ」
 駆けつけざまに男の鳩尾深く拳をねじ込むと男は、うっと言葉も出ないままに地べたに這いつくばったところで騒ぎを知った町奉行所の定町廻り同心のお縄となったのだった。
 男どもは京は嶋原(しまばら)から女を買い付けに来た女衒(ぜげん)であった。吉乃の器量や才覚を妬む遊女が寝物語りにそれとなく女衒にけしかけたのである。

「いいですか、絶対に私の横を離れては行けません。ここは女を売り買いする普通とは違うしきたりがまかり通る遊里(ゆうり)なのです」
 震えが止らぬ肩をきつく抱く湊の分厚い掌の温かさが吉乃の芯までも貫いていた。歩けますか、と、問う湊にこわばった頬に少しばかりの余裕を見せて、ゆっくりといつもの道を歩いた。
「しかし、吉乃さんにあのような逞しさがあるとはついぞ知りませんでした」
「昔、まだ、河野という在所に住んでおりましたころ、父が護身術と申して教えてくれました。腕を掴まれたら敵の懐に入ると見せて腕を振りほどくようにと、背中から廻られたら肘で相手の腹を思い切り突けと。河野は草深い村で人攫(ひとさら)いに遭えばひとたまりもないと、父は私に何度も何度も同じ護身術を。今になり役に立ちました」
「しかと見届けました、吉乃さんにはうかうかと手は出せませんな」
「まぁ」
 湊の冗談にやっと和やかな気持ちが戻ってきた。
「私もとくと拝見させていただきました」
「何を」
「湊さまの何と頼もしい、毎朝、鍛錬される声は聞こえてはおりましたが、医術だけではなく武術もたしなまれますか」
「いえ、たしなむというほどではありません。幼少の頃に始めた柔術を長崎で体が鈍らぬ程度に道場に通っておりました。ですが、実際に使うたのは今日が初めてです。父は争いごとを嫌う人ではありますが、然し乍ら、医術を学ぶものは柔術にも秀でておらねばならぬ、としばしば言われておりました」
「なぜでございますか」
「怪我には諍い事が付き物、医者であればそのような場所に行き会うことは覚悟せねばならぬと」
「大先生のお言葉、私も身に滲みてございます。湊さま、私に是非ご指南を」
 足下からようやく恐怖が抜け出て行くようで、顔を見合わせるとどちらからともなく笑顔になった。
 吉乃はあわやというとき駆けつけた湊の凄まじいほどの気迫に満ちた顔を思い出していた。それは常日頃の穏やかな面立ちの湊からは窺い知れぬ、吉乃を守るという一心さを漲らせていた。だが、今、こうして肩を並べ歩きながら語らうときにいつもの穏やかさが伝わってくる。心から頼りに思う吉乃であった。