福岡の感染者が500人を超えたと聞いて、もうどこにも行く気がしなくなった。せめて我が家で焼肉をして楽しく食べた。朝、雨にて歩かない日。
 風鈴は昔も今も同じ音
連載小説「みつさんお手をどうぞ」15
 四人部屋の窓際のベッドに小柄なみつさんはちょこんとおさまっていた。ベッドを六十度ほどに傾けた姿勢で俺たちが近寄る気配に気がついたのか、じっと近づく俺たちを見ている。年は取っても、身に染み付いたちょっと粋な雰囲気が漂っている。昔はきっと美人だったに違いない。真っ白な髪にピンクのヘヤーバンドがよく似合っていた。木元さんは、笑顔を見せながらまっすぐベッドに歩み寄る。
「やぁ、おふくろ、今日はどんな? 腰はまだ痛むね」
 やや、間があり、みつさんが恥ずかしそうな口ぶりながら、はっきりとした口調で答えた。
「はぁ、おかげさんで腰は随分いいようにあります。昨日、ベッドから落ちまして」
「そうじゃないでしょ、お風呂で転んだんでしょ。それも一週間も前に」
「…そうだったですかねぇ。で、失礼ですが、お宅はど、な、た…」
木元さんが俺の方を振り向いた。ほらね…、というふうに口を歪めて溜め息を吐く。
「誰と思う?」
「知っとりますよ。植木屋の権藤さんでっしょ。もう、そろそろ庭の木ば切ってもらわあにゃぁと思っとりました。山茶花に虫がついとりませんな。あれがしつこうて、私ゃ、負けて往生したことがありますもんねぇ」
「そうそう、俺は植木屋の権藤のおじちゃん、でね、今日は浩志ば連れてきたけん」
 浩志と聞いてあきらかに気持ちが動揺したようだった。節が曲がった指で白髪を撫で付ける仕草をする。紙のような生気のない色白の頬にぽっと灯りがともったように見えた。
「ひ、ろ、しが来たて? どこ?」
 木元さんが俺の背中を押し出すように前にやった。何か言うて! 囁き声で命令した。どぎまぎする俺の背中を無言の声が突つく。何か言え! 度胸を決めてみつさんを見つめた。きょとんとした顔で、目の玉だけがせわしなく動いている。
 突拍子もない声が飛び出した。
「おふくろ、久しぶり!」
 みつさんの顔が固まった。
「おまえ…、ひ、ろ、し?」
 みつさんは少し顔を傾け、訝るように俺をじっと、穴があくほど見つめる。俺の背中を湿った汗がつつっっと流れたのは、効きすぎた暖房のせいでも、この温室のような冬陽のプールのせいじゃない。みつさんの純な視線がまるで俺の良心をいぬくように刺さってきたからだ。笑って! 木元さんが耳元で囁いた。頬がピクピクと痙攣したようなぎこちない笑顔を作る。
「はい、ひろしです」
「おまえ、どこに行っとったんね」
 木元さんに思い切り肘でこづかれた。
「海外旅行に行ってました」
 もっと馴れ馴れしく! また、木元さんの声が威嚇するように囁いた。
「そうでしたか。それはそれは大変なことでございました」
 俺の脳裏に死んだばあちゃんの顔が重なった。ばあちゃんは、死ぬ一年くらい前から、突然、惚け出しておふくろの顔が分からなくなったのだ。母が何か言うと、はい、それはそれは、さようでございましたか、とか、まるで他人行儀な言葉で話を返していたっけ。俺はまるでふざけたようなばあちゃんの物言いに笑いが止まらなかったが、おふくろは、他人行儀なばちゃんの言葉に傷つき、悲しそうな顔をして涙を拭いていた。
「おふくろ」
「はいぃ」
「俺、もう、どこにも行かんけん、これからおふくろの傍におるよ」
「さようでございますか。そこまでされなくても結構でございますよ」
 みつさんは小さな両掌を口にあて、顔を崩してそれは嬉しそうに笑った。正直、不思議なほど、全く他人という違和感がなかった。みつさんの目尻に涙が溜まっている。俺は傍にあったガーゼでそっと拭いてやった。
「浩志、ありがとう」
 胸の奥がツーンと痺れて、俺は随分長いこと、こんなやさしい気持ちを忘れていたことに気付いた。