「ごめん、もう帰らないかん」
「はぁ」
卓球もここからというときに佐知子は気もそぞろに帰り支度を始める。カナエの白けた目にため息をついてみせた。
「里沙がオンライン授業なんよ」
「はぁ」
「コロナでさ、里沙はずっと家におるとよ。ご飯の支度をせんといかんけん」
卓球が済むといつもは小一時間ほど体育館の休憩室で自販機の珈琲を飲みながらのお喋りを楽しんでいたのだが、当然のように老人のささやかな楽しみは奪われた。取り残されたカナエは小石でも蹴りながら帰りたい心境だが、舗装された道には小石さえ落ちていない。孫とは言いながらも自分が役立つということは生活の張りにもなるのだろうか。佐知子は面倒臭い、と言いながらもそそくさと帰ってしまう。
…私もいっそ山口の娘のところへいこうかな…
弱気な気持ちに襲われ帰る道々、川辺を歩きながら知らず知らずいつもの歌が口を突いて出ていた。
あれ鈴虫が鳴いている リンリンリンリーンリン
そういえば、最近鈴虫の声なんて聴いたことないなぁ。一節歌って味気ない気持ちに襲われた。人の役にたつことってやっぱりそれが生きがいなんだとすれば、博多を離れてみようかな…
考えてみればとんでもない誤算だった。楽しい老後 豊かな人生と夢見た自分は本当にバカだ。 老いてこそ見えてくるものなんて過去の後悔ばかりだ。これから先にいったい何の楽しみがあるんだろう。秋は陽の落ちも早く辺りに夕闇がたち始めて、慌ててマンションのドアを開けながら、大きなくしゃみがでた。