知らない男の声がした。海辺で独り倒れていた美佐は、巡回していた警備官に密入国者と間違えられて保護されたのだった。あの海岸近辺は密入国者がよく流れ着く場所でそのため立ち入り禁止になっていたのだった。
「昨日、何回も電話したのに、電話を取らんけん、何か胸騒ぎがして家まで来てみたら、一体、何ばしようとね! 心配ばっかりさせてから」
悪戯電話とばかり思っていた毎晩の電話は理恵だったと知った。母親と喧嘩別れしたものの、孤独死でもしてるんじゃぁないかと思うと、毎晩生きているかどうか確かめなければ気が済まなかった、というのだった。
「お母さん、理恵は気が強いですが根は優しい女ですよ。お母さんのことは許さない、とは言いながら、毎日、独りでどうしてるか、と心配していることが傍にいてよく分かってました。やっぱり、親子ですねえ」
理恵の主人の啓司がしみじみと言った。涙が後から後から止めようもなく溢れては枕を濡らす。腕を伸ばし白い包布のついた掛け布団に顔を埋めて泣く理恵の髪を撫でながら、理恵がまだ幼い頃に、おかっぱ頭を撫でたときのすべすべした感触を思い出していた。
「悠ね、大きゅうなって」
泣きじゃくるママを心配そうに覗き込む小さな頭に天使の輪が光っていた。
「美佐ちゃん、何か楽しそうやねぇ、また、別の男でも出来たん?」
和恵の目が興味津々だ。
「そうたい、今からデートやけん、お先に」
弁当屋の惣菜の余り物をタッパに詰めると自転車の前籠に手提げを入れ、自転車を走らせる。かわいい歌声が聴こえてきた。
きょうもいちにちすみました、なかよししこよしでかえりましょう、
せんせいさよなら、またまたあした バイバイ!
元気いっぱいの声だ。一斉に、小さな子どもらが出て来るなかで、ひときわ甲高く叫ぶ声がした。
「ばあちゃん!」
悠だ。悠が美佐をめがけて走り出してくる。
理恵と啓司は共働きで、いつも延長保育だった悠は美佐が定時に迎えに行くようになりるんるんだった。簀の子板の靴脱ぎ場に座り込み靴を履きながら精一杯の声を張り上げる。
「ばあちゃん、今日はコロッケある?」
「ああ、ゴメン、コロッケはなかばってん、唐揚げのあるよ」
満面の笑顔が返ってきた。
悠を後ろに乗せてゆっくりと自転車を走らせるとき、すれ違った男に気づいた。
何の胸のときめきもなかった。 了(五〇枚)(全作家101号、文芸時評 最優秀賞受賞作品)
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