河合が帰った後、暫くぼおっとしていた。
「会社から、毎日毎日、給料泥棒まがいの皮肉言われてですねぇ、端で聞いておっても腹立たしかったですもん、あれだけ嫌味言われたら、そりゃぁ、おられませんよ」
そうだったのか。だが、もう遅い…。取り返しがつかないことをした。そう…。全てが虚しかった。自分は何と愚かな人間なのだろう。恒男の苦しみは何一つ分からずままに、恒男の女々しさに腹立ち、いつまで経っても仕事をせぬ恒男の胸の内など分かろうともしなかった。いや、それどころか、同じ齢の近藤の逞しさや、遊び慣れた近藤が歌うカラオケの甘い旋律に酔わされ、貧相な恒男を裏切ることさえ、さして悪いこととも思わなかった。だが、あのとき、恒男は苦しんでいたのだ。
河合も言っていたが、恒男は仕事に情熱を持っていた。それは知っていた。恒男は自動車の小さな部品を作っていた。
「俺の作る部品が車ば動かしようとぜ」
そんな恒男が、ある日、美佐に差し出した物、それはステンレスで出来たリングだったが、恒男の心をまるで映し出すかのように丹念に磨かれてピカピカに光っていた。
「これ、どうしたと?」
美佐の言葉に誇らしげに言った。
「車の備品たい。そればちょっと工夫して指輪にしたとよ。この部分がなかったら車は動かんけんな。俺はそげな重要な部分ば作りようと。美佐ちゃんにはろくな指輪も買うてやれんかったけん、まぁ、これで我慢しといて。次はダイヤば買うちゃるけんな」
マンションを出るとき、恒男の位牌をいつもの手提げ袋に入れた。アクセサリーを入れていた抽き出しを掻き回し、底の方に隠れていた茶封筒を見つけ逆さに振ると、あった。恒男が作ってくれたステンレスのリングが転がり出た。薬指にはめてみる。もはや昔の輝きはない。それはまるで今の自分のようだと思った。天神の郵便局前にずらりと並んだバス停で和白方面のバスを待って乗り込んだ。夕方の混み合う時間だが空いていると思ったら各駅停車だ。…まぁ、よか。今更、急ぐこともなか…。窓際の席に座り陰り始めた景色をぼんやりと眺める。バスは高速に乗らずゆっくりと一般道路を走る。窓の景色は昔と随分変わったが、四〇分も走るうちに段々と昔懐かしい道筋が見えだしたとき、美佐は窓に顔を押し付けるように窓の外を見る。あった! 和白から国道3号線を逸れて左に入った細い道筋の弁当屋だ。昔と少しも変わっていない。若い頃、海が好きな恒男と二人で数えきれないほど、雁ノ巣の海に行った。そのとき、決まってこの弁当屋で弁当を買ったものだ。それも今、弁当屋で売っているような豪華な物でもなく、焼いた竹輪の一本も乗っていればご馳走だった。あの頃は貧乏だったけれど、二人とも若さを持て余していた。弁当と二缶のビールを抱えて松林を分け入り人気のない秘密の場所に行った。夕方近くまで泳いだり寝転んだりしながらやがて周囲が闇に包まれ沖にイカ釣り舟の灯りがチラチラと見えだすと、それを合図に海辺を離れた。電気一つない暗闇を月の明かりを頼りに恒男としっかり手をつないで歩いた。ただそれだけで幸せだった。