「近藤さんの奥さんさ、筑紫路っていう店で働いとうらしいよ」
「筑紫路ってあの結構高い和食の店?」
「そう、あそこの天神店におらっしゃぁげな」
「何で、知っとうとよ」
「いや、この前、偶然見かけたとき、友だちと一緒やったとよ。その友だちが、どこかで見た人、って言いよったけど、思い出したって電話かけてきたとよ」
「ふぅうん」
「ねぇ、興味ないと? いっぺん天神の筑紫路ば覗いてみたら? ランチどきやったらそげん高くはないけんさ。一緒に行ってやりたかばってん、こっちも忙しかけん、ランチどきに二人で店ば休むわけいかんけんねぇ」
あれから和恵のことは少し距離を置いてみているものの、和恵は美佐の疑う気持ちなど全く気づいていないようで、美佐も自分の勘は外れているのか、とも思ったりする。細身で髪が長く齢は50歳くらい、という情報しかないものの、美佐に突然芽生えた嫉妬心がどうしても見てみたいという衝動に駆り立てた。筑紫路の天神店と街の弁当屋では月とスッポン、品格からして違いすぎる。悔しさがキリキリと胸をえぐる。
家に帰るなり冷蔵庫から取り出した水を立て続けに二杯飲んだ。あまりにも一気に飲んだため口の端から溢れた水が喉元からTシャツの胸を濡らした。
今日、近藤はホテルに来なかった。近藤との約束の日だったが、すっぽかされたのだ。近藤が約束をたがえたことはついぞなかったことだったから強いショックを受けていた。今まで一度もしたことがないことをした。タブーを侵して美佐の方から電話をかけたのだ。電話の向こうから聞こえる近藤の声はまるで他人だった。
「奥さん、そばにおると?」
「はい、そのようですね」
「待っとうけど」
「はい、その件につきましては、一応キャンセルということで、では失礼します」
思い出してもはらわたが煮えくりかえる。つい最近までまがりなりにも西田恒男の妻として西田という名前を当たり前のように名乗ってきたが、今日、近藤からいとも簡単に約束を破られたとき、突然気づいたことは、確固たる妻の存在だった。恒男が死んで妻という拘束から解き放たれたとき、これで心おきなく好き勝手ができると思っていたが、まさか自分が近藤の奥さんにこれほどの嫉妬心を抱こうとは…。美佐の誤算だった。