前回ブログで書ききれなかったことを書いていきますね。
【父の趣味】
堅物人間である父だが、決して無趣味ではなく、たくさん趣味があります。
一つ目が手品、「手品セット」なるものを買ってきて、よく私に手品を見せてくれました。
次に英会話、「N〇K田崎英語会話講座」なるレコードを聴くだけのものなんですが、結局生かさずじまい。
資格取得にも熱心でした。銀行在職中に大学の通信教育で宅建・税理士・社会保険労務士などの資格を取ったものの、これも生かさずじまい…。
8ミリ撮影もよくやっていました。家族で動物園やブドウ狩り、運動会など父はその様子をカメラで撮って、それを観るのが楽しみでした。映写機でフィルムをセットして、スクリーンに映しだされると「何回もみせて!」とせがんでいました。特に思い出に残ったのが私が補助輪なしで自転車に乗っているところでした。たぶん私が小学三年生でした。その思い出が詰まったフィルムの数々は実家取り壊しとともに処分されました(泣)。
あと小鳥の飼育。家には小さな庭があって、そこに割と大きな鳥小屋があり、セキセイインコ、オカメインコ、ジュウシマツなど数十羽の小鳥を飼っていました。それだけ多くの小鳥がいるとピーピーうるさく鳴いて近所から苦情が出たことも。でもそれも気にしてなかったようで。ところがある日、別の鳥かごに入れられた一羽のオカメインコがイタチにやられていました。他の小鳥たちもイタチや野良猫にやられるのではと、飼うのをやめることにしました。小鳥たちは近所の方に引き取られたりペットショップに買い取ってくれたりしました。他にも部屋を作りたかったのもあります。父はとても残念がってたが、家にお風呂がなかったので、お風呂場を作りたかったそうです。(でも作ったのは大工さん^^)
【父の優しさ】
母の持病悪化で入院生活が続き、退院してから自宅療養となり、その自宅療養中でのこと。ほとんど寝たきり状態の母に父は吸引器で痰を取ったり、背中をマッサージしたり、それまでめったに見せなかった父の優しさを感じられました。とはいえ、家事は専らヘルパー任せでしたが…。それでも、父ができることといえば、それらが精一杯だったのでしょう。「これが父の母への最後の優しさなのか」なんですよね…。そして母は肺炎になり入院、数日後息を引き取りました。
【超偏食】
私たち子供がまだ小さかった頃、家族と父の親類とで温泉旅行に行った時のこと。父は旅館の料理を「食べられるものがない」、とずっと文句タラタラ…。それもそのはず、父の苦手なお刺身などの魚料理が中心ですから。お肉にして、なんて言えないのもあったのでしょう。父のその姿を見て子供ながら恥ずかしかったです。また、外食先でもメニュー表を見て「食えるものがない」とボヤいてました。前回のブログで父の超偏食に悩まされていたもの。(アレルギーとかでなく、単に食わず嫌い)そもそも父がこんな風に育ったのは、子供の頃から病弱で親がさんざん甘やかしたからでしょう。とにかく自分が食べたいものを親がホイホイ与えて、体のために食べてほしいとはいえ、苦手なものは無理強いさせなかった。その結果、自分の好きなものしか食べられず、母も献立作りに苦労していました。
【帰省】
そういえば、父の実家に帰省するたびに乗り物酔いをしていました。特急列車で約二時間余、揺れの激しさと車内独特の臭いで気分悪くなり、トイレで〇いたりビニール袋に〇いたりと、酔い止めを飲んでたのに、ですよ。ちなみにバスやタクシーでも同様の理由で苦手でした。父はタクシーのことを「ハイヤー」と言ってましたね。(父は自動車免許は持っていない)
ただ、実家の居心地はよかったです。同居していた伯母さんはとても愛想がよく、私とよく遊んでくれました。また広い庭があってそこで小さいながら養蜂もしていたため、瓶入りのハチミツをおみやげにもらって冷えるとカチカチに固まったところをスプーンなどで掬ってなめていたのを憶えています。その実家も伯父夫婦が居なくなり取り壊され、父の兄弟もほとんど他界し、残された兄弟や従兄弟とも疎遠になっています。父・母とも親類のつながりは必ずしも永遠でない、というのを思い知らされています。
こうして父のことをつらつらと綴ってきましたが、良くも悪くも「空気みたいな人」でした。早いもので父が逝って10年、法事は兄夫婦だけでやって娘の私は申し訳ない気持ちです。今年のGWこそはお墓参りします。それだけが私が両親にできることですから…。