今年で父がこの世から去って10年。父のことを綴っていきますね。
父と母の出会いは、お好み焼き店で働いている母に一目惚れした父が猛アタックの末、父が26歳母が21歳で結婚、翌年兄が生まれ5年後に私が生まれました。
私が3歳の時に、商店街(結構有名です)近くに引っ越しして、両親は手帳貼りの内職を始めました。幼子二人を育てながら細々とやりくりしていました。しかし内職ではとても生活できない、と思い内職を辞め、父は銀行員として働き始めました。
また、父は勉強家で働きながら大学の通信教育も受け8年がかりで卒業できました。その間たくさんの資格を取りました。
ただ、父の性格を一言でいうと、よくいえば「真面目、堅実」悪くいえば「堅物で融通が利かない」私は父の性格を譲り受けたのでしょう。自分はその性格が嫌で、父を恨んでいたこともありました。普段はおとなしい父ですが一度キレると、コントロールできなくなるほど暴れ出したこともありました。両親が若かった頃、母も兄が2,3歳の頃に「出てけ!」と追い出されたそうです。喧嘩をするたび、母は兄を連れて自分の実家に帰っていました。
母もそんな父に苦労していたと思います。父は食べ物の好き嫌いが激しく、お肉は牛のみ、しかも中まで火が通ってないとダメ、豚や鶏はダメ、お魚は切り身を焼いたものしか食べられず、煮魚や刺身はダメ、エビやカニなどの甲殻類はダメ(アレルギーではない、見た目がダメらしい)、野菜も食べられる種類がごく限られている。食事も外食中心で、母の手料理はほとんど食べず、朝食は温めた牛乳(冷たいのは飲めない)・バナナ・菓子パンという不健康な食生活。
その母も父より二年早く他界し、とうとう一人暮らしとなり、お酒がないと生きていけない。お酒は家に居ると朝から飲んでいて、とうとうアルコール依存症になり、たばこも一日一箱は吸っていた。そのせいか、よく咳き込んだり痰を吐いたりしていました。(ドン引きですね…道路に痰吐くのって)なのに、お酒もたばこも「ドクターストップ」がかかってもやめられず、母は「先が長くないから好きにさせてる」とあきらめていました。
父は銀行を退職後、ビル清掃などのアルバイトをしていましたが、すっかり年金生活になり家に居ることがほとんどで、認知症・寝たきり予防に商店街あたりを散歩するのが日課でした。先述のアルコール依存症がもとで不眠に陥り、寝る前の一杯が習慣化し睡眠薬も手放せなくなりました。
”悲劇”が起きたのは2013年1月の終わりごろ。近所の人が「郵便物が溜まっている。何日も外灯が点けたままになっている。これはおかしい」と気づき、家には鍵がかかっていたので父から預かっていた鍵でドアを開けて父の部屋に入ると、父は布団の中で冷たくなっていました。おそらく自〇だったのでしょう。布団には血がびっしり付いていました。その時私は仕事中だったので、義姉から連絡があって仕事を切り上げて急いで兄夫婦宅へ。兄夫婦と一緒に父が棺で眠っている葬儀場に行くと、父は穏やかな表情をしていました。また天国で会えるなんて、先立った母も喜んでいるでしょう。
この年の正月に帰った時は元気だったが、持病で入院を勧められてたので本人は嫌だという話をしていました。(入院しても)面倒見る人がいない、病院食が食べられない(先述の好き嫌いが多いため)からです。お酒もたばこも〇ぬまで止められなかった。もし、それらを守っていれば命が延びていたかもしれません。
父は生きていれば今年で90歳。父にはあまり尊敬する部分はなかったが、私が帰省するたびに温かく出迎えてくれて感謝しています。長年住んでいた実家は更地になり、ブルーシートが掛けられています。両親の墓参りは3年前のGWに行ってから567禍のせいで”自粛”してたので今年のGWこそは行くつもりです。
それまでに鬱陶しい”増苦禍”が終わってますように!