「ごめん、社長。今から病院へ行ってきます」
父の危篤を告げらた摂子は車を飛ばし、父が入院している花草病院へ向かった
やがて810号室に着き、病室には母、弟一家そして付き添いの看護師・さゆりがいた
一時は良くなる兆候を見せていたが、その後は悪化する一方だった
しばらく小康状態を保っていた父の正幸だったが、再び酸素マスクと点滴の針が付けられ、元気だった頃の面影がないほどやつれて、顔色が別人のように変わっていた
主治医は、
「あらゆる手を尽くしてみましたが、もう長くないでしょう」
と、諦めた様子だった
(みんな来てくれたか…)
正幸は苦しみながらも、家族に喜びを表した
「親父、しっかりしろ!」
「あんた…あんたが居なくなると私一人になっちゃうよ…!」
(臨終を迎えにきたのか…)
体温や心拍数がだんだん下がってきた
やがて酸素マスクと点滴の針が外され、摂子が、
「お父さん!私の手を握って!」
と、手を差し出したが、とうとう握り返すことができなかった
最期を看取った瞬間だった
(体も冷たくなってきている…)
そして、父・正幸は家族に見守られ、眠るように息を引き取った
(お父さん、お前の花嫁姿が見たいってよく言ってたよね。ごめんね、親不孝な娘で…)
摂子はためていた涙をぼろぼろと流した
母や弟一家も愛する家族の死に号泣した
父の亡骸は実家に安置され、元職場の友人、親類や近所の人たちが焼香を上げに来ていた
雪美夫妻も線香を上げに来ていた
「せっちゃん、このたびはご愁傷さまでした」
父の葬儀は、実家から車で10分くらいのところにあるキャベツホールでしめやかに行われ、元職場仲間や親族ら大勢出席した
あひる荘の管理人の知加子は面識はないが、夫の唯夫と幼馴染みだったこともあり、顔を出し、故人の冥福を祈った
そして、かつての職場仲間や友人らに見送られ、正幸は天国に旅立った
(さようなら、お父さん。たくさん心配かけてきたね。そんな私を陰で暖かく見守ってくれた。私はあなたの娘でよかった…いつか必ず幸せになって、その想いが天国に届きますように…)
残された家族、身内らはすすり泣いた
その頃、あひる荘ではー
「大家はいないのか?」
やって来たのは、町内会の会長・初岡末美だ
「はい…私ですが」
知人の葬儀で帰ってきたばかりの知加子は低い声でボソッと返事をした
「困るんだよね~お宅があまりにもうるさくて、近所から苦情がいっぱい出てるんだよ。先日会議で立ち退き話が持ち上がって、どうやら決まったようだよ」
「なぜですか!ここに住んでいる人たちはこれからどうすればいいのですか?無理やり撤去だなんて…」
「泣いてもわめいてももう遅いよ。解体屋に頼んで重機なども手配したからな。これも時代の流れだから、あきらめてくれよ」
(そんな…)
あひる荘は近々取り壊す、という話が噂されていたが、本当に決まったのだ
跡地には高層マンション建設を計画中らしい
築50年以上、知加子が祖父の代から引き継いできたボロアパート、床や壁のあちこちにひびや穴が開いていて、補修の跡もたくさんあり、廊下を歩いていてもギシギシと鳴り、今にも崩れ落ちそうである
建て替えるにせよ、莫大な費用がかかるため、取り壊すのは決定的となった
(いずれはこのアパートともお別れになる運命。だけど、おじいさんの頃からずっと守ってきた。私にとっては宝物のよう。もし壊されるのなら、私は帰るところがない。夫も子供も居ない。頼る人もいない…白旗さんユーコさんはいなくなったけど、皆いい人ばかり。話し合って、その後どうするか考えておかないと…)
知加子にとっては、あひる荘はふるさとのようなものであり、愛着があった
一人去り、二人去り、静けさに還ったあひる荘だが、残された住人たちは、取り壊される運命にあるアパートのこれからのことを考えると、途方に暮れていた
彼女は眠れない日々が続いている
(続く)