愛は束縛/フランソワーズ・サガン | ー こどもと暮らす ー

ー こどもと暮らす ー

こきちです。
子供中心の生活に変わり、ブログタイトルを「やむ、ヤム、yammy!!」から変更いたしました。
主に子供との時間、長年のライフワークである懸賞の事を書いてます。

小吉 (・Θ・)∩ <ヤム、やむ、ヤミィーッ!!-La Laisse

久しぶりにサガンを読み返した。

「愛は束縛。」

原題は「LA LAISSE」
訳者のあとがきでも書いてあるが、犬を散歩させる際の皮紐の事だ。

今でいう「リード。」

誤字を正してそのまま引用するが、

「柔らかくしなやかでありながら、しっかりと犬をつなぎとめておき、
もし犬が自由に走りだそうとするなら容赦なく、その動きをさえぎることのできるもの。
へたをすれば犬の首を絞めてしまいかねないもの。
そういう意味がこめられている。
つまり束縛せずにすむ恋や愛であったら、どんなに幸せだろうか。
だが時として人は、自分とは全く異質な相手を異質であるがゆえに深く愛し、執着し、
そして異質であるがゆえに傷つき苦しみ始めるもののようだ。
束縛せずにはいられなくなってゆくようだ。」


この作品では、社会における階層や性格の違いを「異質」な相手、理解し合えない相手みたく書かれている。
まだそういう文化が色濃く残るフランスだからしようがないかもしれないし、確かに異質な相手とみなす時もあるだろう。

自分にないものを持った相手に惹かれたり、合わないだろうと分かっていて欲する相手と付き合い、向き合おうとして求め、傷つけ合うことはある。

でも、どの恋愛でもバランスは大事。
育った環境、ライフスタイル、慣習、性格、色々なものが違うのは当然で全てが一致する夢の国の白馬に跨ったた王子様なんて存在しない。

何かの拍子で今まで信じて来たものは何だったのだろう?理解し合えていると思ってきたのは錯覚だったのか、自分だけだったのではないかと疑問に思う事が長い付き合いであれば特にあるのではないだろうか。

ある程度の妥協や居相も必要で、それはお互いに許せる範囲なのか。

2人の間に軋みや歪みが生じた時。
不均衡な状態が長く続いた時。

ずっしり構えた人もいるし、感情の振り子の幅が広くて常に不安定で思春期のような人もいる。

どちらかが或いは両方がバランスを崩したとき、距離感をつかめなくなった時。
肝心なのは手を差し伸べられるかどうか、だと思う。

できるだけ早い時点で。


愛は束縛。
若い頃、相手を束縛しようとして重たいと言われた。
コントロールはできなかったし、束縛して愛情を過分に得られたことはなかった。

あれは本当に愛だったのだろうか。
記憶は曖昧で脆く、美化されているのかもしれない。



この本の結末は悲劇だった。


 【中古】afb 文庫 愛は束縛

 【中古】afb 文庫 愛は束縛

価格:130円(税込、送料別)



<愛は束縛をヤフオクで探す>