人生の最終楽章を想う ❺ 天寿 | マクロビオティック&野口整体&東日本大震災から暮らしを見直して

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もし、これらに出会っていなかったら…自分の意識がこれほど変わることはない気がします。だからこそ、これらの体験から得た後の暮らしを綴りたいと思います。


3年前の夏に、道で倒れて、病院に運ばれた母は、認知症の他、いくつかの症状がいったん落ち着くと、弟の家の比較的近くにある介護老人保健施設(老健)でお世話になることになった。
⭐︎母の認知症の記事は👉こちら

母の認知症の症状は、しばらく前とは変わらないように見えて、でも、話をしていると、抜け落ちていくものが見えてくるという穏やかなものだった。

年をとるにつれてに起こりやすい、という圧迫骨折もあったが、寝たきりにはならず、ゆっくりとなら、歩けるようにもなっていた。


母を見舞いに行く頻度も、
始めの頃こそ、三カ月に一度ほどだったが、次第に二カ月に一度になり、毎月に、と変わっていった。

母も、私が行くと、その時間はお昼寝中...ということも、あるようになった。

お年寄りが、お昼寝をしていたり、
行くたびに、お昼寝が若干長くなっていても、それは老化にともなう自然な生理現象。
だから、そんな時は、母の手や足に触れて、母が目覚めるのを待っていた。

ただ、母の手は眠っているときも、温かい照れと、感じることはなかったショボーン
以前は、起きていて、椅子に座っていたときも、温かくはないけれど、冷たいというほどではなかったが、
お昼寝中の母の手は、お布団の中でも、平熱の低さが感じられるほどだったショボーン

そんな母の手も、私が両手で挟んでいると少しずつ温かみがでてくる。
やがて、母は目が覚めて、私が来ていることに気づく...というようになっていった。


圧迫骨折の次に、(施設の併設の)病院でお世話になったのは、梅雨の時季に、誤嚥性肺炎になったときだった。

私が行ったときは、点滴を受けていて、
私に気づき、起き上がろうとするのだけど、
ベッドの手すりを掴んでも、身体がついてこられなくって、起き上がれない。
少し前まで、かろうじてでも、歩けていたのに...ショボーン
でも、身体を支えてあげれば起き上がれる。
点滴を受けていて、若干微熱があるのに、手は冷たい。
私が来たことを、いつものようにびっくりしながらも、嬉しそうな表情を見せてくれるし、意識もちゃんとしている。

「だいぶ良くなってるので、もう少しで退院ですよウインク」という看護師さんの言葉に、母も頷いていて、
安心して、私は帰った。


数日後のことだった。
弟から連絡があった。
母の微熱が続いているので、検査をしたら、膵臓癌が見つかった...びっくり

私は、膵臓癌=癌の王様という認識でいたので、脳天が吹っ飛んだような衝撃だった。
そして、母の年齢を頭の中で一巡させ、この何ヶ月間の母の様子を振り返ったえーんショボーン

「ひょっとして...💡、このは、天寿ガンかもしれないびっくりキョロキョロ

そう思った途端、気持ちが落ち着いた。


私は、これまで、普段医者にかかることもなく普通に暮らしていた高齢者が、
朝起きて来なかったから、見に行ったら亡くなっていたとか...
お昼寝してる...と思っていたら、亡くなっていたとか...
そんな自然な死を迎えた方が、
死後、調べたら、ガンが見つかったびっくり!という話を聞いていた。

⚠️普段、医者に罹っていなければ、かかりつけの医師がいなくて、死後、警察が介入することになる。かかりつけ医のいない状況で自宅で事切れると、警察の厄介になるのは仕方ないにしても、家族が保護責任者遺棄致死の罪で取り調べを受け、迷惑をかけるので、ある年齢になったら、そんな時のための医師は必要なようだキョロキョロ⚠️


母も、ひょっとしてこのタイプの癌なのではないか?

何故なら、こうした天寿ガンを迎えた方は、
変わったことといえば、ここ数ヶ月の間、眠っている時間が多くなった⁈キョロキョロ...というぐらいで、あとは普通に生活できていた!...と、聞いていたからだ。
そして、亡くなられる前、不快な症状を見せることもなく、特に苦しんだ...ということはなかった...キョロキョロと、聞いていたからだ。


母も、昨年の暮れ頃から、
それ以前なら起きていた時間帯だったのに、お昼寝していて、
その後も、そんなお昼寝タイムは続いていた。
認知症の症状も、少しずつは進んでいるとは思うけど、
私のことをいつも覚えているし、トイレも、介助を受けてはいるけど、ちゃんと自分から意思表示している。
声音も、弱くはなってきているけど、これは老化!と考えれば、自然なことだ。

本人に、我慢できないような痛みなどの苦痛があれば、鎮静剤のようなものも必要かもしれないが、もし、’ 天寿ガン ‘ とすれば、痛みなどは無いはず...キョロキョロ
だから、治療は一切不要だ。


私は、弟に、
「我慢できないような痛みがあれば、鎮静剤のようなものも必要かもしれないけど、そうでなければ、点滴や酸素吸入も一切使わないで欲しいショボーン」と私の希望を伝えた。


母は、施設に戻り、夏を越すのが難しいと思われていたが、9月に入っても命を繋いでいた。

母を見て、驚いたことは、
前に、病院で、誤嚥性肺炎で点滴を受けていた時より、ずっと明るい顔で、意外なほど表情が良くなってることだった。

介護士さん( 私よりも一回りぐらい年上と思われる女性で、私はとっても気に入っている )の軽口に、母は面白がって、笑う。
手も足も口も、ゆっくりと動かす。
黒目は私を追う。
私も、黒目を通して母が生きている証を見、感情の動きを見る。

これが、末期の眼なのだろうか?
穏やかな最期に向けて、今を慈しんで生きているように見える。
「何処か痛いところある?」という私の問いに、明るい表情で首を横に振る。
認知症とわかる前に、耳が遠くなってきているとは思ったが、こういう状態でも、聴こえているし、聴力は気になる程、変わってはいないようだ。

あとどれくらい、生きられるのだろうか?



母は、私が9月に見舞った1ヶ月後に亡くなった。享年88歳。

亡くなる数日前の水曜日、弟から、
「もうそんなに長くはないようだ...」と、医者から告げられた、という連絡があった。

今日、明日...という事態ではないように思えた。
週末の土曜日の早朝、帰るつもりでいた。

母は、金曜日の朝、弟が見に行ったときは、とくに変わった様子は無かったそうだ。
その後、11時前に呼吸が変わってきて、午後1時20分に亡くなった...と連絡があった。

施設の方に、後で、母が亡くなった時の様子を伺った。

弟が、朝、見にきた時は、前日と変わらない状態だったが、11時前くらいから、呼吸の様子が変わっていったこと。
苦しんで亡くなったのではなく、静かに息をひきとっていったこと。
死亡時刻は、‘ 1時20分 ’ となっているけど、これは医師の診断でこう記されているけど、看取りの場にいた者としては、もう少し前くらいに思っていること。
そのくらい、安らかな最期だったことを伺った。

施設での生活も、
認知症の人が皆こんなふうだったら、介護も本当に楽になる...と思われるほど、手を煩わせることがなかったようだ。
あえて、いえば、圧迫骨折の後、徘徊とまではいえないけど、立ち上がって歩こう!とするので、ちょっと気をつけていた...と。(私は、このことには苦笑するしかないんだけどねえー)
⭐︎圧迫骨折後の経過は👉こちら


看取るとは、
亡くなるまでよく世話をすること。
亡くなる場に居て、確認すること。
そう捉えるなら、私は看取りはできなかった。

でも、母はいつも気遣い、私の些細なお節介にも嬉しそうにしていてくれた。
だから、心に重荷を負うことはなかった。

来てくださった方々も、見送った後の月曜日には、普段の生活ができた。
もし、一週間後のことだったら、あの近年にない大型の台風の影響で、色々不都合なことが生じていたと思う。

母は、すべてを配慮して、旅立ったように思えた。

以前は、
昭和一桁世代の母は、
’ 恥 ‘ の意識が、自分の気持ちにフタをしているようで、
今のような自分がやりたいことをやっていい時代の感覚に馴染んだ私からみると、
いつも世間体を気にしたり、常識を外れた私の行動を非難することが、疎ましく思ったこともあった。

でも、こうした最期を見とどけると、
母は、周りや状況に流されていた...というより、‘ 配慮がある ’ 、‘足るを知る’ という生き方だったように思えた。


母の癌は、私の聞いていた通りの経過を辿った天寿ガンだった。
天寿ガンは、老衰のひとつの形だと思った。


一般に、天寿ガンは、亡くなった後に解剖して、見つかる。


母は、最期の時に向けて、痩せた⁉︎というより、枯れていった。

施設では、
はじめの頃は、訪れる人と話したり、迷路のような脳活をしていたり、お茶を飲んだりしていたが、次第に眠る時間が多くなっていった。
そのせいか、食べる量が減ってきたりして、水分をとる量も少なくなって、一日中うとうとしていて、弟のさし入れの豆乳しか取らなくなった。

自然に枯れていこうとする人に、水分を取らないからといって、点滴をすると、むくみを発生させ苦しめる、と聞いていたので、自然に任せた。


まだまだ、一般には、
‘ 癌=遠くない死 ’ 
‘ 癌=不幸な死 ’
というイメージが人々の脳裏に焼き付いている。
癌と判れば、何らかの対策やら処置が行われる。
何もしないでおく...!という選択は、常識に異論を唱えることになるので、簡単なことではないのかもしれない。

意外にも、母の癌は、
何もしなければ、死ぬまでにけっこうな時間があった。
何の手出しもしなければ、最期まで痛まなかった。
高齢でも、肉体的な苦痛のある癌もあるとは思うけど、延命治療をしなければ、肉体的な苦痛も少ないような気がする。

認知症への偏見や思い込みにも気づけた。
だから、自分の人生の行く末にも、これまでとは違った角度から想いを馳せることもできた。

若ければ、癌に消えていってもらう方向に何らかの行動をしても、
高齢者の癌は、こういうと非難もあるとは思うけど、
利点は、確実に死ねることで、長生きしすぎて思わぬ苦痛に遭う危険を免れる。

仮に、ある程度の年齢になって、
自分のことも自分でできないようになって、
自分が自分でなくなってまで、いつまでも生きるほうが、ずっとこわい。

私は食事と排泄が自力でできなくなったら、生きることの意味が見いだせなくなるような気がするので、
認知症になる前にガンとわかったなら、
人はいつかは死ぬのだから、
最後は、’ こうするウインク ‘ と心の準備をしておけば、いいニコニコ!と思った。

末期治療は、死にもしない、助かりもしない時間を作るだけだから、
何もしない方が、覚悟して、最後の時間を普段以上に慈しむこともできる。

そういう、大っぴらには、話題にしたくないことかもしれない本当のことが、もう少し世間に広まれば、
ある年齢からは、癌も忌み嫌われることがなくなるかもしれない。

とはいえ、老いも死もすべての人にとって初体験。
判断に迷うことは大いにあると思った。

’ 人生の最終楽章を想う ‘ 
どの記事も長くなってしまって、ここまで読んでくださって、ありがとうございます😊
来年も皆さまに幸せが多く訪れることを願っています。