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betyaの日記

禁止は男性だけでいいねダメだよ。日記は女性だけです。

Preface

 

私にとって、師であり、父ともいえる戸田城聖先生は、1900年(明治33年)の2月11日、現在の石川県塩屋町に生まれました。

今年2000年が、生誕100周年の佳節となります。

 

それは、世界に植民地支配の嵐が吹き荒れ、日本も富国強兵策のもと、近代化を加速させていた頃でした。

恩師誕生のその日、100年前の2月11日、日曜日付の「東京日日新聞」(現在の毎日新聞)を見ると、

「露艦(ロシア軍艦)の集合」「要塞砲兵隊長の教育召集」などの見出しが並んでおります。

日露戦争が勃発したのは、この4年後の2月でありました。

また「鉱毒被害民の大挙」という記事は、足尾銅山の鉱毒に苦しむ農民たちが、青年を軸に決起していく様子を伝えております。

 

しかし、日本で最初の反公害闘争は、この2日後に激しい弾圧を受け、多数の負傷者を出してしまいました。

これに憤怒した田中正造は、機会で「民を殺すは国家を殺すなり!」との演説を獅子吼したのであります。

100年前の紙面に映し出された「光」と「影」からは、その後の20世紀の動向をも、窺えるようです。

 

私たちの平和と哲学の民衆連帯は、こうした時代の空気のなかを生きた、牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長によって構想され、創始されました。

日露戦争前夜の「軍事競争」のさなかで、「人道的競争の世紀」を提唱し、人類の共生を展望した牧口会長。また冷戦の渦中に、「地球民族主義」の理念をいち早く訴え、核廃絶を主張した戸田会長。

 

両先生は、ともに「生命の尊厳」に立脚した、人間教育を最重要視し、その充実・変革を出発点にしょうとしました。

ゆえに「創価教育学会」の名を掲げ、草創の対話の行動を開始したのであります。

それは、1930年(昭和5年)のことでありました。

時を待ち、時を創り、大難に殉じた、両師の実践の重みに、感慨は尽きませんん。今年は、創価学会の創立70周年でもあります。

 

『大道を歩む』と題して、第二巻となる本書には、『第三文明』ならびに「大百蓮華」誌上で連載した「私の人生記録」の24回分が収録されております。

早いもので、執筆を始めて、もう5年になります。

1975年(昭和50年)1月26日のSGI(創価学会インタナショナル)の発足から書き起こし、毎月1回、時系列に沿って、ありのままに人生の春秋を綴ってきました。

波乱万丈の日々のゆえか、書き留めておこうと思う事柄が意外に多く、ようやく連載は、10年前の歩みに筆を進めた段階です。

今年で、齢72-。

起伏に富んだ年輪の連続であり、その記録も、エンドレステープのように、なかなか終わりそうにありません。

むしろ、これこそが、手応えのある人生の証かもしれない。そう言い聞かせて、多忙の合間合間に、ペンを執っている次第です。

 

静かに振り返ると、生来の虚弱体質で、長く生きられないと思ったからこそ、師に命を捧げ、一日また一日、日めくりのカレンダーをめくるように、懸命に生き切ってきました。

それだけに、「長生きしろ!」と叱咤しつつ、10年にわたる薫陶で、私の全人格を形づくってくださった、師の戸田先生には、筆舌に尽くせぬ篤き大恩があります。

また、今日までの私を支えてくださった、すべての方々に、深い感謝を禁じ得ません。

 

ともあれ、この連載の第1回で触れた、51ヵ国・地域の代表が参加して出発したSGIは、今や、148ヵ国・地域を数えるに至りました。

私たちの文化と教育、平和と人権の、ヒューマニズムの運動は、大きく、世界へ伸展しております。牧口・戸田両先生のお喜びは、いかばかりでありましょうか。

 

SGI結成の折、私は参加者の一人として、署名を求められ、その国籍欄に「世界」と記しました。そして、その会議の席上、各国の代表に、簡潔に呼びかけました。

そこに、私の真情は、一切、込められております。

「自分自身が花を咲かせようという気持ちではなく、全世界に平和という妙法の種を蒔いて、尊い一生を終わってください。

私も、そうします」-

師に続きゆく、不二の精神闘争には、終わりはありません。『大道を歩む』も、世紀を超えて、限りなく続く運命のようであります。

 

終わりに、第1巻に引き続き、出版の労をおとりくださった、毎日新聞社の出版局長の山本進氏と編集担当の清水香臣氏はじめ、御関係の皆様に、心からの御礼と感謝を申し上げます。