――暴力の文法と性別表象の交錯――

 

 

  はじめに

 

1970年代の東映プログラムピクチャーにおいて、千葉真一主演の《殺人拳シリーズ》(1974–75年)と志穂美悦子主演の《女必殺拳シリーズ》(1974–76年)は、カラテ映画の代表的フランチャイズとして並び立つ存在であった。前者は「男の肉体性と暴力性」、後者は「女性アクションスターの誕生」を主題としつつも、いずれも東映的な任侠美学や娯楽アクションの文脈において武道的身体を商品化する装置となっていた。本稿では、両シリーズの主題的・演出的特徴、身体表象の差異、そして背後にある流派的力学に注目し、カラテ映画というジャンルの多様性とその限界を論じる。

 

 

  1. 制作背景と監督陣の違い

 

《殺人拳》シリーズ(『激突! 殺人拳』『殺人拳2』『逆襲! 殺人拳』『子連れ殺人拳』)は、千葉真一の「JAC(ジャパン・アクション・クラブ)」と極真空手を中心とした武道的身体のアピールを基盤としており、初期3作は小沢茂弘が監督、最終作『子連れ殺人拳』では山口和彦が監督を引き継いだ。演出スタイルは、残酷描写・スプラッター・暴力の演出が濃く、千葉=孤高のカラテ戦士という構図が貫かれている。

対して《女必殺拳》シリーズ(『女必殺拳』『女必殺拳 危機一発』『帰って来た女必殺拳』『女必殺五段拳』)は、山口和彦が3作を手がけ、最終作でのみ小沢茂弘が復帰するという、逆の監督交代をたどる。志穂美悦子という新しい女性アクションスターを前面に押し出しつつも、作品ごとに家庭・師弟関係・復讐などのテーマが変化し、娯楽時代劇との交錯も見せていた。

この逆転的監督交代は、演出スタイルの変化(暴力の即物性 → メロドラマ性/あるいはその逆)と、武道表現の変質を如実に反映している。

 

 

  2. 身体のジェンダー表象と暴力の様式

 

千葉真一が演じる《殺人拳》の主人公・剣琢磨は、「都市における超人的孤高の存在」として描かれ、暴力を通して秩序を回復する〈任侠の戦士〉である。一方、志穂美悦子が演じる《女必殺拳》のキャラクターは、「家族・道場・師匠」といった共同体との関係性の中で戦う〈情の戦士〉である点が大きく異なる。志穂美は単にアクションができる女優ではなく、「母性と復讐」が両立する矛盾的な身体として描かれた。

暴力描写においても、千葉のシリーズでは「骨折音」「飛び散る血しぶき」「容赦ない連打」など、肉体の破壊性が強調されるのに対し、志穂美のシリーズでは蹴り技や飛び技の美学性が重視され、同時に“女性が男を倒す”という図式が演出の中心的ギミックとなる。

これは、東映アクションが「男の暴力の神聖性」と「女の暴力の異化効果」を並立させ、観客のジェンダー規範を一時的に攪乱する装置として機能していたことを示している。

 

 

  3. 武道的リアリティと流派力学の影響

 

《殺人拳》シリーズには、極真空手系の演武が色濃く反映されており、武術監修には極真系統の関係者が多く関与していた。その一方で、武道家・鈴木正文(他流派)が敵役として登場し、「極真とは異なるリアリズム」を持ち込む役割を果たしている。この構図は、極真=正統/他流派=異端という対立でなく、むしろ映画内における多元的な武術価値の提示として機能していた。

対照的に、《女必殺拳》シリーズでは、鈴木正文が最終作『女必殺五段拳』(小沢茂弘監督)にて“父親役”として登場するが、武道家としてのアクションは封印されている。この非武道的キャスティングには、流派間の配慮(とりわけ極真系と他流派の政治的緊張)や、演出的観点から「女性主人公の物語を際立たせるための背景装置」としての使われ方が影響していると考えられる。

また、シリーズを通して石橋雅史(極真初期メンバー)の起用も多く、東映カラテ映画が極真空手の広告装置であったことを如実に物語る。

 

 

  4. 監督交代とシリーズの再編成

 

興味深いのは、両シリーズとも監督交代によって最終作で作風が大きく変化する点である。『逆襲!殺人拳』までのスプラッター的演出から一転して、『子連れ殺人拳』では山口和彦による「女性・子供を守る父性」の物語へと変化し、より叙情的で東映現代劇の文法に回帰する。

一方、『女必殺拳』は、山口和彦による様式的娯楽時代劇路線を経て、『女必殺五段拳』(1976年)で小沢茂弘が再登板。男性的任侠文法を導入し、志穂美悦子のアクションに“カラテの荒々しさ”を再注入することでシリーズに緊張感を取り戻そうとした。ここに、監督の作家的カラーがシリーズの武道性や暴力の様式に与える影響が読み取れる。

 

 

  おわりに

 

《殺人拳》と《女必殺拳》――この二つのシリーズは、1970年代の東映が築き上げた“武道アクション”の両極である。前者は「男の暴力の孤高化」、後者は「女の身体の神秘化」という形で、いずれも武道的リアリズムと虚構性の狭間に立ち現れていた。監督の交代や流派の派閥性、役者の身体性がシリーズごとの特色に直結しており、これらの映画は単なるアクション作品ではなく、1970年代日本の身体文化・性別観・武道言説の交差点として読み解くことができる。