トキワ荘の歴史は、「地方から上京した若き漫画家たちの青春物語」として語られることが多い。
もちろん、それは間違いではない。
しかし、その輪の中には、少し異なる立場の漫画家がいた。
つのだじろうである。
彼はトキワ荘の住人ではなかった。淀橋十二社の理髪店を営む実家からスクーターでトキワ荘へ通っていた「通い組」である。藤子不二雄(藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐ)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが地方から上京してトキワ荘を拠点にしていたのとは対照的に、つのだじろうは東京生まれの漫画家として、自宅から仲間たちのもとへ通っていた。
この構図は、トキワ荘史ではあまり強調されることがない。
やがて1963年、つのだじろう(と仲間達)は中野区本町通り五丁目の、八百屋の二階建て倉庫(元ボクシングジム)を利用した建物に、漫画制作会社スタジオ・ゼロを設立する。その経営には、長兄の角田喜代一も加わった。電通勤務の経験を持つ喜代一は営業や対外折衝を担当し、漫画家集団を企業として成立させる重要な役割を果たした。
そして会社が成長すると、スタジオ・ゼロは手狭になった中野を離れ、淀橋十二社近くの市川ビルへ移転する。
ここで、私はつい想像してしまう。
これはもちろん史実ではない。
そんな記録はどこにも残っていない。
しかし、つのだじろうの胸の内には、こんな思いがよぎったのではないだろうか。
「今度は、お前たちが俺の地元へ通え」
トキワ荘では、自分がスクーターで仲間たちのところへ通っていた。
けれどもスタジオ・ゼロでは、今度は藤子不二雄(藤本弘と安孫子素夫)や石ノ森章太郎、赤塚不二夫らが、淀橋十二社という自分のホームグラウンドへ通ってくることになる。
もちろん、市川ビルへの移転理由は会社の規模拡大や交通の利便性など、極めて現実的なものだったはずだ。
しかし結果として、「通う側」と「通われる側」の立場は、見事に入れ替わったのである。
しかも、その淀橋十二社は、つのだじろうの実家であると同時に、兄・喜代一の実家でもあり、後に歌手・つのだ☆ひろの実家としても知られる角田家の拠点だった。
さらに時代をさかのぼれば、この地域には、つのだじろうが高校時代に師事した島田啓三の存在も重なってくる。島田から学んだ漫画の基礎は、つのだじろうを経てスタジオ・ゼロへ、そしてトキワ荘世代との共同制作へとつながっていく。
淀橋十二社は、単なる「実家のあった場所」ではない。
家族が支え、師匠との縁があり、会社が育ち、多くの漫画家が集まった場所なのである。
だから私は、トキワ荘を椎名町だけの物語とは考えない。
トキワ荘という文化は、そこに住んだ人だけではなく、そこへ通った人によっても形づくられた。そして、その「通い組」の代表格だったつのだじろうの視点から見れば、淀橋十二社もまた、もう一つの漫画史の舞台だったと言えるのではないだろうか。
「今度は、お前たちが俺の地元へ通え」
そんな言葉を、つのだじろうが本当に口にしたことはない。
だが、スタジオ・ゼロの歩みをたどっていると、そんな小さな"立場の逆転"を想像してみたくなる。
史実をたどることは歴史研究である。
しかし、史実の上に人の心をそっと想像してみることもまた、漫画史を楽しむ一つの方法なのかもしれない。
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