――漫画から現実へ流れ込むスポーツの記憶
漫画には、血統がある。
もちろん、それは遺伝子によって受け継がれる血統ではない。けれども、ある作家が生み出した「物語の型」や「人物の立ち上げ方」や「スポーツを見る眼差し」は、次の世代の作家の中へ入り込み、姿を変えながら生き残っていく。
それは本人が、その作家の作品を熱心に読んでいたかどうかだけでは決まらない。
同じ時代を生き、同じ雑誌をめくり、同じテレビ画面を見て、同じ社会の中で漫画家になった。その環境そのものが、すでに一種の「記憶」になっているからだ。
その意味で、日本のスポーツ漫画を語るとき、梶原一騎という存在は極めて大きい。
『巨人の星』や『侍ジャイアンツ』が社会に放った衝撃は、単に「野球漫画がヒットした」という話ではない。
スポーツを、人生そのものとして描いてしまった。
努力、才能、父と子、師弟、ライバル、挫折、勝利、身体の限界――。
それまでの「野球を題材にした漫画」とは異なる、スポーツを人間の生き方そのものとして描く巨大な物語装置が、テレビアニメーションによって日本中の少年たちへ届けられた。
そして、テレビが存在し、少年たちがそこから逃れられなかった時代に育った以上、その洗礼から完全に自由でいることは難しい。
直接『巨人の星』を読んだかどうか、ではない。
その後の漫画を描く人間が生きていた「空気」の中に、すでに梶原的な何かが存在していたのである。
だから私は、そういう作家たちを「魂の意味での“梶原”チルドレン」と呼んでもいいのではないかと思う。
その「梶原的な記憶」は、当然ながらそのままコピーされるわけではない。
水島新司は、水島新司になった。
『ドカベン』は『巨人の星』ではない。
そこには梶原作品とは違う野球のリアリティがあり、選手の身体感覚があり、試合そのものの面白さがあり、そして何より「野球という競技そのもの」への強烈な愛情があった。
しかし、それでも大きな流れの中で見れば、水島作品もまた、スポーツを少年たちの人生へ接続した巨大な系譜の一部だった。
そして水島作品の面白さは、やがて漫画の内部だけに閉じなくなったことにある。
『ドカベン プロ野球編』が象徴するように、漫画のキャラクターと現実のプロ野球選手との距離が極端に近づいていった。
少年時代に『ドカベン』を読んでいた人間が、やがて本物のプロ野球選手になる。
そして今度は、そのプロ野球選手が漫画の世界へ入ってくる。
ここで、奇妙な循環が完成する。
現実が漫画を生み、漫画が少年を育て、少年が現実の選手になり、その選手が再び漫画の中へ帰ってくる。
漫画は現実を映す鏡だったはずなのに、いつの間にか現実の側が漫画の記憶を背負っている。
この現象をさらに拡大した存在が、高橋陽一の『キャプテン翼』だった。
梶原一騎がスポーツを「人生の物語」として巨大化したとすれば、高橋陽一は、その物語の構造をサッカーへ移植し、さらに国境を越えさせた。
『キャプテン翼』を見てサッカーを始めた少年たちが世界各地に現れ、その少年たちの一部がプロサッカー選手になった。
つまり、
漫画 → 少年 → アスリート
という流れが、現実のスポーツ界そのものにまで届いたのである。
ここでは、漫画は単なる娯楽ではない。
「自分もあの世界に行けるかもしれない」という想像力を、現実の身体へ変換する装置になっている。
そして、そこで生まれた選手たちが今度は次の世代の子供たちに影響を与える。
漫画から始まった想像が、現実の選手という肉体を得て、さらに次の想像力へと戻っていく。
満田拓也の『MAJOR』も、この流れの中で見ると非常に興味深い。
『MAJOR』は、一人の野球少年が成長していく過程を、非常に長い時間をかけて描いた。
少年野球から始まり、成長し、高校へ進み、プロを目指し、そして海外へ挑戦する。
そこでは「野球の試合」だけではなく、「野球選手として生きること」そのものが物語になる。
そして21世紀に入ると、現実の野球界には、大谷翔平という存在が現れる。
ここで大切なのは、「大谷翔平は『MAJOR』を読んだからこうなった」と単純な因果関係を設定することではない。
そんな一対一の証明ではない。
むしろ興味深いのは、『MAJOR』のような作品が存在する世界で育った世代の野球観そのものである。
「投手でありながら打者でもある」
「日本から世界へ行く」
「メジャーリーグを目指す」
「自分の限界を更新していく」
そうした想像が漫画の中に描かれていた。
ところが、やがて現実の選手が、その漫画的な想像を現実のものとして実演し始める。
すると今度は、現実の大谷翔平が「漫画のようだ」と語られる。
これは面白い逆転である。
かつて漫画家は、現実には存在しないほどの選手を想像して描いた。
しかし現代では、現実の選手が漫画家の想像を追い越してしまう。
漫画が現実を先取りし、現実が漫画を追い越し、そしてまた次の漫画がその現実を物語化する。
だから「梶原一騎の遺伝子」という言葉は、比喩としてかなり面白い。
もちろん生物学的な遺伝子ではない。
それはむしろ、文化の中を漂っている「パーツ」である。
熱血というパーツ。
努力というパーツ。
師弟というパーツ。
ライバルというパーツ。
少年が自分の限界を超えるというパーツ。
スポーツを単なる競技ではなく、人生として見るというパーツ。
それらが作家から作家へ、作品から作品へ、そして作品から読者へ渡っていく。
しかも、その受け渡しには必ずしも「私は梶原一騎に影響を受けました」という自覚が必要なわけではない。
むしろ文化というものは、本人が意識していないところで最も深く受け継がれる。
それこそが「隔世遺伝」という言葉を使いたくなる理由なのかもしれない。
祖父のような作家の記憶が、孫のような世代の作品に突然現れる。
その間には、無数の作家と読者と作品が存在する。
しかし、完全に消えたわけではない。
どこかに残っている。
そう考えると、スポーツ漫画の歴史は、単純な「作品の歴史」ではなくなる。
それは、
漫画家 → 漫画 → 読者 → アスリート → 現実のスポーツ → 次の漫画家
という循環する歴史になる。
梶原一騎が作ったものを、水島新司が別の形に変え、高橋陽一が別の競技へ広げ、満田拓也が次の世代へ渡す。
そして、その漫画を読んだ少年たちが現実のグラウンドへ出ていく。
その少年たちの中からプロ選手が生まれ、そのプロ選手が今度は漫画のモデルになったり、漫画の世界へ登場したりする。
そこで初めて、「漫画が現実を侵食している」という感覚が生まれる。
だが、本当は侵食というより、循環なのだろう。
漫画は現実から生まれ、現実を変え、変わった現実がまた漫画を変える。
その循環の中に、何十年も前の作品の「記憶」が残り続ける。
だから、ある意味では、現代のスポーツ選手の中にも漫画のDNAがある。
そして現代の漫画家の中にも、さらにその前の世代のDNAがある。
誰かが誰かの「子供」であるというだけではない。
作品そのものが、次の作品を産む。
読者が、次の現実を産む。
現実が、また次の物語を産む。
そうして考えていくと、「梶原チルドレン」という言葉は、単なるファンや影響関係を示す言葉ではなくなる。
それは、日本のスポーツ文化そのものに刻み込まれた、ある種の文化的な記憶の系譜なのではないか。
梶原一騎が直接読者でなかったとしても。
水島新司が直接読者でなかったとしても。
満田拓也が直接その作品を読んでいなかったとしても。
テレビが存在し、漫画が存在し、スポーツを物語として見る文化が存在した以上、その「記憶」はどこかを経由して次の世代へ渡っていく。
そして何十年か後、その記憶を持った少年がグラウンドに立つ。
その少年が、世界記録を打ち立てる。
すると今度は、人々がその姿を見て言う。
「まるで漫画みたいだ」と。
けれども、その「漫画みたいな現実」を生み出す想像力のどこかには、さらに何十年も前の漫画家たちが残した、小さなパーツが埋め込まれているのかもしれない。
それが、漫画の「魂の意味での遺伝」なのだと思う。
