―語りの完結、作者の死、そして人工生命の誕生―

 

  1. はじめに ― 一貫した語りへの問い

手塚治虫は自らの長編構想『火の鳥』において、過去と未来を交互に描くという独自の物語構造を採用した。1968年『未来編』単行本(虫プロ商事)のあとがきにおいて、彼は次のように述べている。

「私は、新しいこころみとして、一本の長い物語をはじめと終わりから描き始めるという冒険をしてみたかったのです。……最後には未来と過去の結ぶ点、つまり現代を描くことで終わるのです。」

この発言は、『火の鳥』が単なる連作短編ではなく、ひとつの巨大な叙事詩として構想されていたことを明言している。過去と未来の振り子運動を繰り返しながら、物語は「現代」に収束する設計となっていた。では、その「現代」とは何か。そしてなぜそれが描かれなかったのか。

本論では、手塚が意図した「現代=現在=火の鳥の完結点」が、手塚自身の死の瞬間と対応しているという視点から再構成し、さらにその象徴的対となる存在として**鉄腕アトムの誕生日(2013年4月7日または2003年4月7日)**を位置づけることで、火の鳥とアトムが共に語る「生命の始まりと終わり」の環構造について論じる。

 

  2. 過去と未来を往復する「振り子構造」

『火の鳥』シリーズ(「COM」「マンガ少年」「野生時代」連載)は、「黎明編」「未来編」「ヤマト編」……と過去と未来を交互に描くスタイルを基本とする。これは、物語が線形的に進行するのではなく、時間軸上のさまざまな点を「跳躍」することにより、生命の普遍性と反復性(輪廻・カルマ)を可視化する構造であった。

この形式はしばしば「振り子構造」として捉えられる。つまり、物語は過去と未来を行き来しながら徐々にその振幅を縮めていき、**語りのゼロ点=「現代」**に至る。

 

  3. 「現代編」とはなにか──作者の死と一致する語りの終焉

手塚は『ニュータイプ100%コレクション 火の鳥』(角川書店、1986年)に収録された角川春樹との対談において、「現代編」構想について次のように述べている。

「現代というのは、自分の体から魂が離れる瞬間なんですよ。それ以降の未来はなく、そこから以前はすべて過去である」

この言葉はきわめて象徴的である。手塚にとって「現代」は時間軸上の一地点ではなく、語り手の魂が離脱する瞬間=死の瞬間である。
すなわち『火の鳥』の「現代編」は、手塚治虫が死ぬ瞬間に初めて描かれるべき物語であり、それ以前にはあり得ないという語りの終末設計だった。

実際に手塚は次のようにも語っている:

「火の鳥の結末は、ぼくが死ぬとき、はじめて発表しようと思っています」(『火の鳥 休憩』)

ここにおいて語りは自己言及的であり、語り手が消えるときにだけ完結するという構造になっている。これはきわめてメタフィクション的かつオートフィクション的構造であり、語り手の生死が作品の構造に直接関わっている点で、他に類を見ない。

 

 

  4. 猿田彦とお茶の水博士 ― 一族の輪廻とメタキャラクター構造

手塚作品において重要な位置を占める「猿田彦一族」は、『火の鳥 黎明編』に登場し、『太陽編』でも再登場する。その中で猿田彦はお茶の水博士の先祖であると明言される(図版①参照)。

さらに『太陽編』後半では、お茶の水博士本人が「未来編」の回想のようなかたちで再登場する(図版②参照)。

このようにして、『火の鳥』と『鉄腕アトム』という一見異なる時間・ジャンルの作品が、登場人物の血脈/人格を通じて接続される。これもまた「輪廻」と「魂の連続性」というテーマを、キャラクターの存在構造で示した例といえる。

 

  5. 鉄腕アトムの誕生日と「語りの現在」

『鉄腕アトム 四次元の少年の巻』(1966年12月、『少年』光文社)では、アトムが2013年4月7日(または別資料によっては2003年4月7日)に誕生したことが明言されている(図版③参照)。

この未来日付は、現実世界では手塚治虫の死(1989年)を越えており、手塚にとって「描かれた未来」でありつつ、我々読者にとっては「到達された現代」である。

つまり、

  • 火の鳥の語りは手塚の死=1989年で終わった
  • アトムの語りは2013年=「手塚亡きあとの現代」で開始される

この二つは時間軸上で入れ替わりながらも、「語りの完結と始まり」が象徴的に対応している。

火の鳥の完結 = 現代 = 現在 = 手塚治虫の死ぬ時
アトムの誕生 = 現代 = 2013年4月7日

これは、火の鳥が「魂の象徴」、アトムが「人工生命の象徴」であるという意味で、魂の終わりと新たな生命の始まりが、同一座標で交差する設計と見ることができる。

 

  6. 結論 ― 火の鳥=語りの終焉/アトム=語りの継承

『火の鳥』と『鉄腕アトム』という二大作品は、それぞれ「終焉」と「誕生」という構造的対概念を体現している。前者は振り子運動の果てに、語り手の死=語りの消失としての「現代編」に至る。そして後者は、未来の予定された誕生=語り手の不在を前提とした物語の出発点となる。

語りが死を迎えた地点で、新たな語りが始まる──この二重の構造は、手塚治虫という作者が「語り手であること」と「語られるものを創ること」を常に重ね合わせていたことの証左である。
火の鳥の完結とは、手塚の死そのものであり、アトムの誕生とはその後に続く命の象徴である。こうして両者は、「生命とは何か」「魂とは何か」「語りとは誰が行うのか」という問いに対して、メタフィクション的かつ詩的な解答を提示しているのである。

 

 

  参考図版

  • 図版①:『火の鳥 黎明編』における猿田彦とお茶の水博士の祖先性の関係
  • 図版②:『火の鳥 太陽編』で未来編的時間に再登場するお茶の水博士本人
  • 図版③:『鉄腕アトム 四次元の少年の巻』に明記された「2013年4月7日」誕生日設定