藤子・F・不二雄(藤本弘)といえば、『ドラえもん』をはじめとする国民的な作品を数多く生み出した漫画家だが、その作風は一貫して“子どもの目線”を大切にした、優しい世界観が特徴とされる。だが、そんな藤子作品の中でも異彩を放っているのが、1977年から1983年にかけて連載された『エスパー魔美』だ。

思春期の少女・佐倉魔美が超能力に目覚め、さまざまな事件に関わっていくこの作品。SFや青春ドラマの枠に収まりながらも、実はかなり大胆に「性」や「芸術」について踏み込んでいる。中でも注目されるのが、魔美がしばしばヌードモデルになるという展開だ。しかも、その“モデル先”は実の父親。倫理的にギリギリな設定にもかかわらず、作品は終始この状況を淡々と描く。これは一体どういうことなのだろうか?

実は『エスパー魔美』は、登場人物たちを通して藤子・F・不二雄自身の内面を映し出す、「分身たちの物語」として読むことができる。

 

 

  魔美の父=芸術と理想の父性の象徴

 

まず、魔美の父である画家の佐倉修一。彼は娘の裸を淡々とスケッチし、それを芸術として扱う。読者からすれば「ちょっとそれ大丈夫?」とツッコミたくなるが、彼自身も魔美もごく自然にこの状況を受け入れている。

ここには、藤本自身の「芸術」へのまなざしが強く反映されている。もともと美術大学を志した過去を持ち、絵画への憧れや信仰のようなものがあった藤本にとって、ヌードを「性」ではなく「美」として扱うこの父親像は、おそらく理想の投影だったのだろう。

「娘を愛し、かつ芸術家としても妥協しない」――現実では難しいこの理想を、フィクションの中で形にしたのが、魔美の父というキャラクターだと考えられる。

 

 

  高畑くん=思春期の藤本自身?

 

次に、魔美の同級生・高畑和夫。知的で冷静、感情に流されず、常に「理屈」で動く彼は、ある意味で“藤子・Fらしい”キャラだ。だが、魔美の予想外な行動やヌードにたびたび動揺し、困惑する姿からは、「思春期の男の子」としてのリアルな感情も見えてくる。

この高畑には、内向的で理知的だった藤本少年の自画像が重なっている。魔美との距離感や、彼女に対して抱く淡い好意、そして一線を越えない慎重さ。どれも、藤本が自分の“少年時代”を振り返りながら描いた結果ではないだろうか。

 

 

  魔美自身=もう一つの“藤本”

 

そして、最も興味深いのが魔美本人だ。彼女は裸になることにほとんどためらいがなく、父の前でも、時には同級生の前でも自然体でいられる。羞恥心がないわけではないが、それを越える「信頼」や「自信」がある。

これは単なる「理想の娘」ではない。むしろ、彼女は藤本の中にある“もう一つの自分”――自由で、恥じらいなく、のびのびと表現する「少女的な側面」の具現化なのではないか。

作中の魔美は、エロティックであると同時に、非常にピュアでもある。藤本が「性」をどう描くかについて、葛藤しながらも誠実に向き合っていたことが、このキャラクターに凝縮されているのだろう。

 

藤子・F・不二雄の「分裂」と「統合」

こうして見ていくと、『エスパー魔美』という作品には、藤子・F・不二雄の内面が三つのキャラクターに分裂して宿っているのがわかる。

  • 芸術家で父親である〈魔美の父〉
  • 少年期の知性と戸惑いを持つ〈高畑くん〉
  • 自由で無垢で性的な〈魔美自身〉

これらは単なる物語上のキャラではなく、藤本自身の「理想」や「欲望」「倫理観」が三方向に分かれて表れている“分身”たちだ。そして、それらが一つの作品の中で共存し、互いに干渉し合いながら、どこか危うく、しかしどこまでも誠実な物語が紡がれていく。

『エスパー魔美』は、エスパー能力というSF的なギミックに包まれつつも、実のところ、作家自身の深層心理を表した「自己分裂と統合のドラマ」でもあったのだ。