――『空手バカ一代』『ガンダム』『ウルトラマン』における情動の系譜と板野一郎の現場倫理

 

 

  はじめに

 

「男泣き」という行為は、日本の大衆文化、とりわけスポーツ・武道漫画やアニメ制作現場において、情熱と理念、継承と感応の象徴として描かれてきた。
涙は単なる感動の発露にとどまらず、しばしば師弟関係や制作理念の受け渡しを媒介する身体的言語として機能する。それは、フィクションの内部に限らず、現実の制作現場においてもまた、重要な意味を持つ。

本稿では、以下の三つのエピソードを軸に、「男泣き」がいかにして思想や芸を“身体的に継承”する儀式として働いているかを考察する。

  1. 漫画『空手バカ一代』における三重の涙――「師が師に泣き、弟子が師に泣く」
  2. 『機動戦士ガンダム』第28話の絵コンテを前にした富野由悠季・安彦良和の男泣き
  3. 板野一郎の「ガンダム打ち切り」時の困惑と『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』での笑顔

これらを通じて、「男泣き」がもたらす感情の連鎖と、職人としての矜持がどのように現場を通して継承され、成熟していくのかを明らかにする。

 

 

  一.『空手バカ一代』における涙と継承

 

梶原一騎原作の『空手バカ一代』は、武道における師弟関係と魂の継承を描いた作品である。中でも、芦原英幸と二宮城光の関係を描く以下の場面は、作品の感情構造の頂点に位置する。

「すばらしい空手の道を……芦原先生のうしろからついていける おれは……しあわせだ!」
“芦原は、自分の中に生きる 師・倍達の偉大さに泣き その姿に 若い二宮が泣く……”

ここでは、「大山倍達 → 芦原英幸 → 二宮城光」という三層の継承ラインが、“男泣き”という情動によって可視化されている。
涙は、理念の伝承を「言語」ではなく「身体」を通じて伝える媒体として働いており、弟子は涙を通じて師の“魂の実在”に触れ、それを受け継いでゆく。

梶原はこうした情動の連鎖を、「感動」ではなく「魂の焼き写し」として描いており、涙はその焼き印としての役割を果たす。

 

 

  二.『ガンダム』制作現場の涙と「もらい泣き」の構造

 

同様の情動構造は、1979年放映のTVアニメ『機動戦士ガンダム』の制作現場にも見られる。NHKのドキュメンタリー『ガンダム誕生秘話』にて、当時アニメーターだった板野一郎は次のように証言している。

「富野さんが『大西洋、血に染めて』のコンテを見せて安彦さんと男泣きしてたんです。二人とも嗚咽してて……。その後、僕ももらい泣きしてしまった」

ここで興味深いのは、富野・安彦という創作者たちが、まだ形になっていない「コンテ」の段階で涙を流しているという点である。

 


それは、キャラクターに感情移入して泣くのではなく、創作そのものに理念と覚悟が宿っていることを意味する。そして、その情動は現場の若者であった板野に伝播し、「もらい泣き」というかたちで受け継がれる。

この場面は、『空手バカ一代』における「芦原の涙に二宮が泣く」構造と酷似しており、制作者自身が“リアルな魂の受け渡し”を行っていることを示す記録である。

 

 

  三.「好きだけど……」から「楽しかった」へ:板野一郎の変遷

 

『ガンダム』打ち切り後、スタジオは『ザ★ウルトラマン』(1979)の制作に移行する。板野一郎はそのときの心境を以下のように回顧している。

「ウルトラマンは好きだけど……」

この発言には、“リアルロボットもの”としての『ガンダム』制作にこめられた自負と、子供向けアニメとしての『ウルトラマン』への戸惑いがにじむ。
だが、この「好きだけど……」という葛藤を経て、板野は多様なジャンルを横断するアニメーター・演出家としてのキャリアを重ねてゆく。

2006年、特撮映画『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』のメモリアルボックス特典映像では、板野が現場で笑顔を絶やさず、誇りと楽しさをともに体現している姿が収録されている。
そこには、「好きだけど……」と戸惑った青年が、「好きでやってる」と確信をもって語るような、職人としての成熟と祝祭性がある。

 

 

  四.「男泣き」の身体性と、アニメーターの継承倫理

 

『空手バカ一代』の登場人物たち、『ガンダム』の制作陣、そして板野自身の姿は、一見異なる文脈にありながら、情動を媒介にした理念の継承構造において密接につながっている。

  • 芦原が倍達に泣き、二宮が芦原に泣く
  • 富野が構成に泣き、安彦と共鳴し、板野がもらい泣きする
  • 板野が「好きだけど」と葛藤しながらも、「祝祭の現場」で満面の笑みを浮かべる

このように、「涙」や「感情」は決して感傷的な要素ではなく、思想・信念・職能の継承を身体化する表現形式として文化的な機能を果たしている。

とりわけ板野一郎の事例は、「職人が矜持を持ちながらジャンルを横断し、現場に感応しつづける」ことの困難と尊さを体現している。彼の涙、戸惑い、笑顔は、**アニメーションにおける“男泣きの系譜”**を締めくくるものでもある。

 

 

  おわりに

 

本稿では、フィクションと現実の両領域における「男泣き」の構造を比較しつつ、アニメーター板野一郎のキャリアを通じて、情動による理念の継承と現場の倫理について考察した。

「涙」は一過性の感情ではなく、思想の身体的言語であり、受け継ぐ者を“感動させる”のではなく、“覚悟させる”ための儀式である。
そして、それを可能にするのは、時代やジャンルを超えてなお、表現と向き合い続ける者だけなのだ。