はじめに
手塚治虫(1928–1989)は日本のマンガ表現の革新者であり、多くの国民的作品を生み出した「マンガの神様」として知られている。『鉄腕アトム』『火の鳥』『ブラック・ジャック』など、倫理性と娯楽性を高次で融合させた作品群は、今なお高い評価を受け続けている。しかし、その一方で、彼のキャリアにはしばしば“問題作”とされる作品も含まれており、1970年代に発表された『アラバスター』(1970–1971年、週刊少年チャンピオン連載)はその代表格である。
手塚本人はこの作品について、後年「好きではない」「やりすぎた」といった否定的な発言を残しており、公的な場で積極的に語ることもほとんどなかった(NHK『手塚治虫 創作の秘密』、2018年)。しかし一部の読者や研究者の間では、「嫌い」と語ったその裏に、創作者としての無意識的な本音、あるいは否応なくにじみ出た自己投影があったのではないか、との指摘もなされている。
本稿では、『アラバスター』における作家の内面の表出を「鏡像」「ナルシシズム」「闇の投影」といったモチーフから読み解き、手塚治虫の創作の両義性――すなわち、自己否定と自己肯定、倫理と暴力、光と闇の交錯する地点――を考察する。
1. 『アラバスター』の位置づけ――ジャンル的・倫理的「居場所のなさ」
『アラバスター』は、プロボクサーからFBI捜査官に転じたアフリカ系アメリカ人・ジェームス・ブロンドが、ある事件を契機に復讐鬼「アラバスター」と化し、透明化装置を利用して社会の表層的な美醜を暴いていくというダークヒーロー作品である。物語は徹底して陰鬱かつ暴力的であり、倫理的葛藤よりも破壊衝動が前景化している。
手塚作品において「悪の論理」を正面から描いた例は他にもあるが、本作ほど倫理的中立性を放棄し、登場人物たちに明確な救済や成長を与えない構造は異例である。また、登場人物の中には、他作品でもおなじみの「ロック」が登場するが、その性格造形は極端に歪められ、ナルシシズムと狂気に支配された存在として描かれている。
ジャンル的にも、「SF」「スーパーヒーロー」「社会派」など、いずれにも分類しがたい雑種性を持ち、後のアニメ化や商品展開とも無縁であったことから、商業的にも“黒歴史”的な扱いを受けてきた。
2. 「ロック=鏡像」の読解――ナルシシズムと自己否定の交錯
本作における最大の象徴的場面は、ロックが全裸で鏡の前に立ち、自らの美貌を確認するという描写である。これは単なる異常者の演出ではなく、明確なメタファーとして解釈可能である。すなわち、「自らの美しさを誇る」という行為と、「全裸であること(=装飾なき自己)」との間に、作家の自己像を重ねることができる。
心理学的には、このような行為はナルシシズム(自己愛)の表出とされるが、同時にそれは自己否定と裏腹の関係にある。鏡に映った「理想の自我」は、常に現実の自分からは遠く隔たっており、そこには分裂した自己像が露呈する。ロックのこの描写は、創作者としての手塚自身が「理想的な作家像」と「創作における暴力的衝動」の間で引き裂かれていたことの暗喩とも読めるだろう。
3. 「嫌い」と語ることの戦略――自己批判と自己防衛
手塚が後年、『アラバスター』について否定的な発言を残した事実は、多くの研究者の知るところである。しかし、その発言は単純な自己批判にとどまらず、むしろ創作上の「過剰さ」を自己客体化することで、自らを倫理的作家として再定位しようとする戦略的な発話とも読み解ける。
『アラバスター』がNHKのドキュメンタリー番組『手塚治虫 創作の秘密』で言及されたこと、しかも問題的な場面をカットせず放映したことは、本人または周囲がこの作品を“黒歴史”として完全に排除しきれなかったことの表れである。つまり、手塚はこの作品を「嫌い」と言いながらも、「忘れ去られること」には耐えられなかったのではないか。
4. 結語――『アラバスター』という「鏡」
手塚治虫は極めて多面的な作家であり、倫理性・娯楽性・政治性・自己投影の欲望を多層的に作品に織り込んできた。『アラバスター』はその中でも例外的に、倫理的制御を外した地点で自己の闇を描いた作品であり、意図的か無意識的かを問わず、彼自身の鏡像的作品であった。
「嫌い」と語られた作品にこそ、作家の本音が滲み出る。そうした逆説的な構造を内包した『アラバスター』は、手塚治虫の創作原理の一断面を照らし出すと同時に、倫理と暴力、理想と醜悪のせめぎあう地点で、作家自身の分裂を映す“鏡”として読むことができる。
参考文献
- NHK『手塚治虫 創作の秘密』、1986年。
- 手塚治虫『アラバスター』秋田書店〈サンデーコミックス〉、1970–1971年。
