「超時空の観測者」としての手塚治虫と、評価不在の中での創作的応答
【要旨】
本稿は、手塚治虫の後期作品群を、「超時空の観測者」すなわち神的視座を持つ創作者としての自己認識に着目して読み解く試みである。1970年代以降、劇画ブームの台頭とともに手塚は読者の支持を失い、梶原一騎らの作品が人気を博した。本稿では、そうした文脈における手塚の創作的応答――『奇子』『アドルフに告ぐ』『ブッダ』『火の鳥』等――において、「神でありながら評価されない」存在としての自己イメージがどのように投影されているかを検討する。その視点は、単なる表現者の内的苦悩ではなく、創作者における「視座の倫理」および「読者との関係構造」の問題として再定位されるべきである。
【キーワード】
手塚治虫、火の鳥、神の視点、劇画、梶原一騎、報われない創作者、輪廻、創作論
はじめに
「漫画の神様」と称される手塚治虫は、自身の作品世界においてもしばしば神的俯瞰者としての創作主体を仮構してきた。特に『火の鳥』においては、過去・現在・未来の時間軸を越境し、生命や人類の営為を「観測」する存在としての火の鳥が登場するが、それは単なる物語内キャラクターではなく、手塚自身の創作視座のメタファーとして機能していると考えられる。
本稿では、この「神的視座」を出発点としながら、手塚が1970年代以降に直面した評価不在の状況――とりわけ梶原一騎らによる劇画的表現の台頭――に対する自己認識の変容と、そこから導き出された創作的応答に注目する。
手塚は“神”でありながら、その言葉は人間たちに届かなかった。報われない神としての手塚治虫という像を、『火の鳥』『アドルフに告ぐ』『奇子』『ブッダ』などの後期作品を通して再読し、創作者における視座の倫理的・社会的問題性を論じることを目的とする。
1. 手塚治虫と「超時空の観測者」という視座
1.1 『火の鳥』における時間構造
『火の鳥』シリーズにおける最大の特徴は、時空を越えた断片的なエピソード群が、全体として生命や歴史の連関を描く構造をとっている点にある。黎明編から未来編、太陽編に至るまで、物語は特定のキャラクターの生と死を描きながら、同時に一つの生命循環としての人類史を俯瞰的に描写している。
ここで中心に位置づけられる火の鳥の視座は、因果や倫理を超えた非情な観測者である。それはしばしば登場人物にとっては救済や呪いとして現れるが、読者にとってはむしろ作中世界のメタ的統括者=手塚治虫その人であるように読まれる。
1.2 観測者=創作者という自己位置づけ
この「観測者」としての火の鳥の視点は、創作における“神の位置”=物語を支配し、全体構造を見渡す視点に等しい。手塚はしばしば、作品世界を俯瞰するこのような視点を持つ一方で、登場人物の視点にも分け入り、苦しみ、あがく人間の姿を描く。
この自己矛盾――**「神」として描きながら、「人間」として共感する」――という二重性が、手塚作品の根底に存在している。
2. 評価されない「神」としての苦悩
2.1 劇画ブームと梶原一騎
1970年代に入ると、漫画表現は手塚的なヒューマニズムや寓話性から離れ、劇画的なリアリズムや暴力・性愛を軸とした表現へと移行する。梶原一騎原作による『巨人の星』『あしたのジョー』などが一世を風靡し、手塚の作品は「子供っぽい」「古い」と評され、商業的にも低迷期を迎えた。
2.2 手塚の内的葛藤と創作の反転
このような状況のなかで、手塚はたびたびインタビューにおいて嫉妬と焦燥を明言している(註1)。
創作者としての自己評価と、世間からの不理解との落差。**「神」であるはずの自分が、最も低く評価される」**という逆説的状況が、手塚にとっての創作の動機となっていく。
註1:たとえば『ぼくはマンガ家』収録のインタビュー(虫プロ文庫)などを参照。
3. 創作的応答としての後期作品群
3.1 『奇子』:劇画への対抗としての暴力性
『奇子』は、封建的家父長制、近親相姦、戦後の腐敗を描きながら、暴力と抑圧の構造を劇画的語法以上に過激に表現している。これは単なる社会派作品ではなく、梶原的劇画への明確な対抗として読むことができる。
3.2 『アドルフに告ぐ』:正義なき世界の俯瞰
ナチス・ユダヤ人・スパイという重層的なモチーフを背景に、歴史を俯瞰する冷徹な視座と、そこに翻弄される人間たちの悲劇を同時に描く。手塚の神的視点が、倫理や感情の外側に向かって開かれていく表現的到達点として位置づけられる。
3.3 『ブッダ』:宗教神話の物語化=神の記号化
『ブッダ』では宗教的救済を語りつつも、神仏そのものを物語構造の中に還元していく。
ブッダさえもまた、物語の一登場人物に過ぎず、火の鳥と同様に「観測」される対象となる。
4. 『火の鳥』という「報われない神」の黙示録
最終章とも言える『火の鳥・太陽編』では、主人公サルタヒコが文明と信仰、暴力と知識のはざまで翻弄される姿が描かれる。火の鳥は彼に問いかけも救済も与えない。ただ、「生きよ」と告げる。
この構造は、手塚治虫という創作者が、読者や時代に理解さおれずとも、なおも創作を続ける姿そのものを重ねることができる。
「この世界に意味なんてない。ただ、生きて、生きて、死んでいくのだ。」
(『火の鳥・太陽編』より)
おわりに──理解されぬ神、創作し続ける神
本稿で見たように、手塚治虫の後期作品には、「神の視点」と「人間の苦悩」が共存する複層的構造が織り込まれている。それは単なる作者のエゴや不満ではなく、創作者における倫理的視座と、読者との関係性の断絶という構造的問題として表れている。
評価されなくとも、報われなくとも、創造は続く。
それが、**手塚治虫=“報われない神”**としての創作哲学であり、『火の鳥』とは、その黙示録的記録である。
【主要参考文献】
- 手塚治虫『火の鳥』『アドルフに告ぐ』『奇子』『ブッダ』(講談社文庫、角川文庫)
- 手塚治虫『ぼくはマンガ家』(虫プロ文庫)
- 米沢嘉博『戦後SFマンガ史』(河出書房新社)
- 中野晴行『手塚治虫と路地裏のマンガたち』(毎日新聞社)
- 萩尾望都・竹宮惠子ほか『マンガ表現論』(トランスビュー)
- 大塚英志『物語の体操』(朝日文庫)
- 宮崎哲弥「“神様”は報われない──手塚治虫の人間的肖像」(雑誌『表象』掲載論文)
