1960年代、子供向け科学書籍や科学雑誌が複数発行されていた。


旧ソビエトとアメリカは競って宇宙開発を行い、この中でアポロは月面着陸し、この後には大阪万博があり、この後にはスカイラブ計画があり、宇宙に人間が長期滞在して各種実験や観測を行った。



子供向け雑誌は、これらのことを報道し、私たち子どもは日常の会話の中でこぞってそれらの記事について語り、科学が未来を作ってくれるという幻想を楽しんでいた。



しかし、80年代になって、バブル絶頂期を経て、90年代前半に崩壊した時点で、私たちには自前の夢がなかったということが判ってしまった。



夢というのは、どうも自分の外側にあるメニューから、好みのものを選ぶというところから生まれるのではないか。


アメリカは、そして旧ソ連は宇宙開発という夢のメニューを提示した。


この夢を提示した仕組みとしては、発展する経済力を背景にして、宇宙開発を行うというメニューだった。

これはいいアイディアだった。



科学は、時間と共に新しい視点を提供し、私たちの視野を広げてくれる。


これを国家がバックアップすることで、未来のついての夢のメニューを提示することは、大変いいことだと思う。


しかし、科学の進歩で描かれる未来の夢のメニューというのは、やはり自分の外側にあるもので、与えられた夢にすぎない。


経済状況によっても、政治状況にっても大きく変化していくものだし、何より、自分のペースで追いかけることが難しい。



もし、夢を持つとしたら、自分で持つことが出来る夢がいい。



夢の描き方というものは、やはりあるのだろう。


ここから学ぶ事は、未来は自分にとっての未来であり、この未来を描き出すのは、やはり願いなのだという事だと思う。



私たちは、科学に未来を描く事を付託してしまったのだった。



科学が私たちの願いを叶えてくれると信じてしまったのではないか。



科学が描き出す未来像とは別に、なにか私たち自身の願いを考え出す必要があり、これを自らの手で叶える必要があると思う。

「夢に云はく、何処よりぞ物へ行かむと思ふ。然るに、一条の大臣殿之御紋に到りて、一疋の黒き犬あり。足に纏われて親馴を作す。心に思はく、余、年来この犬を飼へり。然るに、今日出でし時見えず、この御門に至りて待けり。いつ此処へは来たりけるやらん、今は相朋いて離るべからずと思ふ…」。

寺で生活している僧侶が外の世界に出かけようと思ったところ、一匹の犬が親しげに足元にまとわりついている。私は長年この犬を飼っていたと思った。今日出ていく時は見えなかったが、寺の門の所で待っていた。どこ...からやってきた来たかはわからないが、今はいっしょにいて離れないようしようと思う。

黒い犬は誰の心にもいるのだと思います。そして、黒い犬は自分の無力を表しているといわれます。


私たちの心は多くの可能性があるのですが、積極的に自己を主張し、時に支配的であることで、私たちは人生を切り開きつつも、それ以外の心の可能性は無力なものとして、取り残されています。


しかし、この無力なものも私なのですから、私から黒い犬の姿でもって、呼び掛けがある。だとすれば、黒い犬は、私であって、この黒い犬と共に生きていこうとすることは、改めて生きようと決意をすることにほかなりません。


ひょっとすると、黒い犬がいるからこそ、私たちは慎重に注意深く充実して生きていられるのかもしれませんし。

最近コマーシャルでも流れていますので、戦国武将でいえば…、という定番の話です。



信長は、夢に気付いたと思います。

秀吉は、夢を叶えたのだと思います。

家康は、願いを叶えたのだと思います。



この三人を見ていると、夢というキーワードが共通しているように思います。



信長は、


人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。


といって、幸若舞『敦盛 』の一説をよく舞ったといわれていますし、



秀吉は、

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」


といった辞世の句を残しています。



これに対して家康は、


「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」


という辞世の句を残していますが、先の二人と少し趣が違います。



こういう句について深くは知らないのですが、家康の辞世の句は次の世代につながっている安堵感があるのではないかという印象があります。


安心して死ねるというのは、人生の目的としては最高のものではないでしょうか。



そして、思うのですが、私たちは夢に向かって一直線に邁進するとしても、この夢から何を学び、そして、夢を超えることが大切なのだと思っています。



このことを私は願いを叶えるというのだと考えています。



天下を取るという事は、大変な夢であることには違いないですし、誰でもが叶えられることではありません。


しかし、だとしても、それらの夢は盤石のものではありませんでした。



それは、自分にとっての本当の願いがなんであったのかという事が、やはり明確ではなかった。


いや、夢があまりにも大きすぎたために、夢に飲み込まれてしまったとさえいえるのではないか。


だとしたら、やはり、家康は、夢がどういうものであったのか、わかっていたのではないか。


そして、自分が叶えようとしていたものは、自分を超えた何かを実現することだったのではないかと思います。



これが願いです。



このことは、本当によくよく考えておかないといけない。



私たちは夢の向こう側を視野に収めていなければならないのだという事です。


これが私たちの目指すものです。



セッションのポイントは、相手に対する関心を持ち続けることです。



まず、私たちは、共通の願いを持っているという前提に立ちます。



この前提に立つと、クライアントさんは、なにかしらの望みを叶えたいと思っているとしても、話を聴いている私たちと共有している願いの片鱗として、何がしらの望みを抱いていると考えます。



このように考えると、私たちは、お互いに同じことについて、それぞれの立場から、話し合っていると考えることが出来ます。



私ならこのように捉えて、話を聴くことにします。



このようにクライアントさんとの関係を築いていくと、クライアントさんの話がいろんな方向に展開したとしても、テーマを本来の願いの方に軌道修正することが容易になります。





コーチングのセッションでは、まず何を話したいかという事をクライアントさんに決めてもらいますが、本当にクライアントさんが話したいことと、セッションで話しているテーマとが、食い違っていることはしょっちゅうありますし、食い違っていて当たり前と考えたりする方が当たり前だと思います。



話すことなど、その場の気分でも相当変わりますし、こちらとの関係性にって、どんどん変わってきます。



そして、どうも本当に話したいことと、セッションで話していることとが大きく食い違っていたり、本来のテーマについて話していても、ドンドン枝葉末節にはまり込んで、ずれていくという事もあります。



こういう時は、話を聴くこちら側が、ちゃんと話を聴けてないんですね。



ちゃんと話を聴けてないという事は、相手に関心を持って聞いていないとうことですし、どこか、お互いが見ている願いの方向が食い違っているという事も言えます。



こういう時は、どうも関心がずれているという事をはっきりとクライアントさんに言うことが大切です。



少なくとも、クライアントさんが話していることに対して、違和感を持ち始めたならば、違和感を感じるという事をはっきりと伝える必要があると思います。



この自分の中に生まれた違和感を、特別視して、自分だけが違和感を感じているのだろうという事を考えたりすることは、やめておいた方が良いと思います。



自分が違和感を違和感としてちゃんと捉えることが出来るように、話を聴くコーチが自由に話を聴くことが大切だと思います。



話を聴く側が、コンプレックスのようなものにとらわれていたり、特定の何かに対して強い興味関心を持っていると、特殊な違和感を感じたりすることがありますが、これではちょっと相手の話を聴くことが難しいと思います。



このようなことがないように、話を聴く側である私たちは、こういったことをクリアーにしておく必要はあります。



コーチは臨床心理士のような心理学の専門家ではありませんが、実践しているという点では、比較的健全なメンタリティを持っているという点では、自分の専門家ではあるかもしれません。



毎日歩くことは身体にとてもいいのですが、歩くことと健康の関係について研究しているわけではないですが、毎日歩いて健康を保つことを実践しているというようなものです。



私たちのように相手の話をじっくり聴くことで、相手が変容することを促すという場合、健全さの上に生じる違和感を大切にしながら常に相手に対して関心を持って聴くことが大切だという事です。



セッションがうまくいくポイントは、やはり、私たちが健全で、何かしら望みや願い事を叶えている事が大切なのでしょうね。

単独で行動する。



これはとても重要なことです。



人は群れで行動する生き物、種としての意思が個人を動かすという事を言っておきながら、単独で行動するという主張は、一見すると矛盾する主張と思えます。



しかし、これは矛盾しないのです。



動物行動学、特にサル学が教えることですが、人間と同じように群れで行動しているサルは、群れの意志というものの中で動いており、一定の社会的枠の中で行動しています。



この、社会というものは、とても強い枠組みであって、環境が激変した際、食べられるものがあるとしても、従来群れとして食べ続けてきたものがなくなると、集団で餓死するという事があります。



つまり、群れの意思は、サル個々人の生き死にを左右するくらい強固なものだという事を教えてくれます。



これは、人間社会に当てはめてみればよくわかることで、定年退職をした男性が、家にいてもやることがなく、行くところといえば図書館くらいで、急速にボケていくという事はよくあることです。



ところで、離れザルというのがいます。



群れから飛び出してしまったあぶれもののサルのことです。



単独で行動しており、群れの意志の支配を受けていないサルですので、自分の意志で行動していきます。



逆にこういうサルは、環境が激変しても、いろんなものを食べて生き延びたりします。



そして、すきあらば、ほかの群れのボスと闘って、群れを乗っ取ったりもします。



つまり、群れは群れとして滅ぶことがあっても、種としての意思は離れザルを生み出して、生き延びようとしている、とも言えます。



それと、遺伝子的には、ほかの遺伝子と交わることで、近親交配を避けるという意義もあると思います。



人間でも、群れの意志の影響をほとんど受けないで、単独でいろいろ動き回って行動している人がいます。



こういう人たちを見ていると、自分の意志を持って動いており、という事は、かなり独特な価値観やら風貌やらをしているわけで、言葉も、バイリンガルだったり、マルチリンガルだったりします。



多様な価値観があることを知っており、自分の価値観も相対的なものであることを知っているような人たちですし、どういった在り方をしていれば自分は納得できるか、という事を知っている人たちです。



こういう人たちは、自分と異なる価値観を持っている人とも交流できますし、食べ物もこだわりなくいろんなものを食べたりしますね。



群れの意志に対して種としての意思は、とてもしたたかにできていると思います。



群れにとっての敵である他の群れをも視野に入れているわけですし、縄張りという狭い世界さえも考えていないどころか、もっと広い可能性を考えいます。



私たちは、離れザルの戦略を自分の中に取り込むと、とても面白いことになるのではないか。



例えば、このようにブログを書いて自分の考えを外に向かって書くこともそうだといえます。



面白いことです。


クライアントさんは、いったい何を願っているのか、これを聴くのがコーチングです。



コーチングという言葉に引っかかって、本当のところが伝わっていないのが残念ですが、相手がいったい何を願っているのか、この叶えたい願いを聴き出して、叶えやすくしたり、部分的にでもすぐに実現してしまうことが出来ます。



実際、願いはとても漠然としたものです。



皆さんが初詣に行った時のことを想いかえしてください。



家族みんなが健康でありますように…、



幸せでありますように…、



世界平和が訪れますように…、



いろいろあるでしょう。



漠然としているのには、理由があって、今の地点からとても遠いからです。



遠い将来のことを具体的に考えたりするのは、ちょっと一人では難しいですね。


それはいいとして、遠くを見るというのは、とてもいい作戦です。



自動車の教習所で習ったのですが、どうしても運転習いたての頃は、怖いから大体10~20メートルくらい先ばかり見ているというのです。


しかし、ここで教わったのは、ずっと先を見るようにという事でした。



そうすると、アクセルがどうとか、ブレーキがどうのこうの、ハンドルはどうしたこうしたが、うまく集約されていって、運転がうまくいきます。



これは意識のむけ方として一般的に有効な方法でもあります。


お試しになってみてくださいね。

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生まれてきたことには理由もないし、生きている事にも理由はない。

時間だけが勝手に過ぎていくというのは事実。そして、時間が勝手に答えを出してもくれる。

(但し、自分の側にはないという事ですが)


これを宿命という。

私たちは永遠を生きているわけではないから。

しかしながら、幸か不幸か、私たちはこういうことを知ってしまうわけだ。

知ってしまった以上、なにかを考えてしまうというのもまた宿命。

難儀なものです。

・・・

とはいえ、アドラーなどの意見を聴いていると、私たちは、個人としてはそういう孤独な存在なのですが、種として個々人に与えられている使命のようなものとして、
他者に貢献する
という機能を持たせているのだという事を盛んに言っているようなのです。
言われるとそうで、人間は直立歩行して歩く動物なのですが、他の動物と比べると恐ろしいほどの難産なのだそうです。
直立歩行と引き換えに大変な難産になってしまった。
人間に最も近いといわれるチンパンジーでさえ、一人で出産します。

しかし、人間は人の手を借りないと出産さえできないのですし、育児もままならない。
とすると、どうしても人の手を借りないといけないという事で、お互いに協働関係を築き、協力し合って生きていかなければならないという宿命を背負っています。
生物としてかなり脆弱なんですね。
自然界的には、かなりの半端者です。
これは生物として種の保存に関わることですから、かなり強力な宿命で、これを理性によって克服することは大変難しいと思いますし、いや、理性の方でも、積極的にこれに加担していると考えられます。


他の哺乳類にはほとんど見られない極めて発達したミラーニューロンの存在とかは、こういうことを意味しているのでしょう。

私たちの能力には、集団で生きるという能力があり、集団でないと生きられないという宿命もあるわけです。
意識・無意識という話をするならば、無意識の下層には、集合的無意識といわれる層があって、これは、どうも人種や民族性とも関わっているらしく、これがシンボライズされていくと、神話とか、宗教的ななにかになって現れてきます。
個人や集団が大変危機的な状況になると、どうしてもこういうものが現れてきて、顕在化して、危機を打開するための手助けをしてくれたりもします。
私は個人の考えや行動というものをあまり信用していないのですが、このように考えてみると、信頼はできるわけです。
つまり、種として共有されているものが膨大にあるからです。
そして、あなたの問題は、どこか私の問題でもあると思えるのです。
すくなくとも、目の前にいる人の問題は私の問題である、と思います。
私は人のことは信用していないし、能力には相当ばらつきもあるだろうと考えていますし、一緒にいると気分の悪くなる人も大勢いると思っています。

しかし、とはいえ、信頼しているわけです。
誰かの生きていくことを妨げようとは思いませんし、できれば、誰かの助けの一つでもしたいなぁと思っています。
ご用命があれば、如何様にでも。


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なにかしようしようと思って、行動できないという事は確かにありますし、何かすることで、大きな失敗をしてしまうという事もあります。




だとしたら、何もしないという事を徹底してみる。




そうすると、どういうわけか、何かしようと思ったりする。




天邪鬼といえばそうだが、こう思うのだから仕方がないです。




何もしないぞと決意し、何もしないという行動を起こすぞ。




先日、そういうセッションをしてきました。



デフォルトモードネットワークをフル活用して取り組んできました!!



結果、大成功でした。




ちょっとしたコツなのですが、私たちは気分がすぐれないときは、何かしなければならないと考えていることがとても多いように思います。




しかし、何もできない。




といっても、何かしているのですが、気持ちが先走っているので、要求水準に対して、どうにもうまくいっていないような気がして、イライラしているような状態です。




焦っているわけです。




特にうつの傾向がある人は、何かしたいのに、邪魔されているという気持ちになっていることがあります。




こんなときは、言うことを聴かない、何もしない、という事にしてしまいます。




自分に強制的にブレーキを掛けるんですね。




気持ちが暴走しているわけですから。




そして、車でのドライブでいえば、勢い余って道に迷っているわけですから、立ち止まって、ゆっくり地図でも見て、休憩します。




ほんの少しでもいいですし、なか~い時間をかけてゆっくり休んでもいい。




それで、一番やめたいことは何かについて、じっくり味わうのがいいと思います。




そうすると、私や今回のクライアントさんから出てきたことは、




「人の言うことを聴かない」




という事でした。




これは人の期待に応えようとしない、という事でもありますし、自分自身を取り戻して、自分らしく居たいという事でもあります。




人の期待に応えようとしないというのは、好かれようとしないという事ですし、大切な人と過ごす大切な時間を大切にしたいという事でもあります。




そして、何が一番大切かという事を問い続ける。




それは、人によっては、機嫌よく過ごす、笑って過ごすことだったり、なにかに1人で真剣に打ち込むことだったりもします。




これを一人で周りに納得させて、実行するのはとても大変ではありますが、コーチやカウンセラーが一緒なら、案外できちゃったりします。




もし、ご要望があれば、どうぞ。





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『嫌われる勇気』の読書会をしたいと思います。




先日、大阪であった岸見一郎さんの講演会に参加させていただき、面白いなぁと思ったので、やってみたいなぁと思います。




私は、アドラー心理学をベースとしたコーチングを開発しているチームフローというところで、コーチングのトレーニングを受けました。




詳細はまだ決めていませんが、概要を考えました。




1.月1回程度

2.ゆっくり読む

3.コーチングと絡めて簡単なセッションができるようにする。

4.どこかに集まってやるのと、希望者がいればSkypeもする。


場所代とかもありますから、とこかで集まる場合は、有料にしようと思います。




Skypeの場合は、無料にします。




やはり、一人で読むのと、誰かと読むのでは、読み方が違ってくるように思います。




自分の読み方とは違う読み方というものもあると思いますし、どこをどう受け取るかというのは、そもそも人それぞれですし。




それに、この手の本を読むことは、既にこの本の内容を実践することにつながります。



面白いと思います。



どんな人がそもそも来るのか、来た人たちがどう受け止めるか、そしてどのように変化していくか。




集団コーチングであったり、グループカウンセリングのようなことになると思います。



もう少し考えて、実行したいと思います。

私たちは焦っている!?

知り合いのコーチさんと話していて、気が付いたんだけど、私たちは、やはり焦っているんだと思います。

哲学の分野には現存在分析とか時間論というものがあります。

.

..

私たちは、生きてもも精々80年程度、頑張って100年くらいの寿命くらいしかありません。




この限られた時間の中で生きていかなくてはいけない。




そしていずれ死ぬ。




これが私たちの様々な感情、特に不安というものの現前だといわれています。




これが無限に生き続けられるならば、なーんにも問題はないわけです。




しかも、私たちには、年齢に応じでやらなければならないことがたくさんある(と思い込んでいる)わけです。




身体の都合もありますしね。




体力とか、知力とか、女性なら、子供が産めるかどうかとか。




これを私は自分のカレンダーと言っていますし、旬の課題と言っています。




この旬を逃してはいけない、この自分の課せられたカレンダーの中で課題を解決しなければならないと考えるようになります。




これは焦りますよね。




このように考えると、ストレスが悪いとか良いとかいう、心理学者の議論など、どうでもいいと思えてきます。




私たちは、自らの時間を如何に生きるかという事で、限られた時間の活かし方が変わってくる。




ここで生じるストレスをどう捉え、ストレスを意味づけ、意義あるものと捉えるかに掛かっていると思います。




このような視点から、自分のカレンダーを書き換え、本当の旬を捉えていくと、焦らずにすまないまでも、ゆっくりでも着実にカレンダーをめくっていくことが出来るのではないか、と思います。




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