100歳のおばあちゃん、おじいちゃんがいるとして、この人たちが未来について考えるかどうかを考えてみた。
私たちは、少なくともあと数十年は生きる。
そして、少し先の未来として、いずれ自分が死ぬことを考えている。
自分は充分に生きて来ただろうか、満足できる人生を歩んできただろうか、もし満足できる・満足できないとしたならは、ではどうすればもっと充実した人生を歩むことが出来るかを、残された人生という、ある程度のボリュームのある時間の過ごし方として考える。
これは検討するに値する課題だ。
では、もう充分に生きた人たちはどのように考えるのだろう。
この年代の人たちのことを考えてみると、家屋敷があったり、土地を持っていたり、多少の財産があり、自分の子供、孫、ひ孫、などがいるだろう。
例えば100年という時間は、とても長いもののように思えるが、世代によってスケーリングしてみると、大体3世代。
自分が生まれて来て、子供が30代で出来たとして、孫の世代がひ孫を作るタイミングが大体100年くらい。
うまくいけば、ひ孫の頭をなでるくらいのことはできる。
自分の子供ができたとして、この時には、健康で丈夫に育ってほしい、自分の好きなことに一生懸命になってほしい、そして、幸せになってほしいと願うと思う。
そして、孫が出来れば、そういう心配は生みの親に任せて、ただひたすらにかわいがったりすることもできる。
そして、ひ孫の頭をなでることが出来るころには、生きたご先祖様のようになることだってできるかもしれない。
もし、ひ孫の頭を撫でた後、静かにこの世を去る時、きっとこのひ孫の行く末を案じるだろうし、幸せに育ってほしいと願うことだろうと考える。
もし、100歳のおじいちゃんおばあちゃんにコーチングができるとしたら、こんなことをテーマにしてセッションできそうな感覚を最近もつことが出来るようになった。
しかし、ここで気づいたものがある。
単純なことだが、家族というのは増えるのだ。
自分に二人の子供がいたとして、それぞれが結婚して配偶者も家族として数えたら、2人増えて4人。
この夫婦に子供が二人ずつできたとして、さらに4人増えて8人、結婚して配偶者が…、子供が、と数えていったら、結構な数になる。
これを大家族と言ってしまえばそれまでだが、一つの社会が出来上がるという事になる。
ある地域の家庭の名字がみんなおんなじなんて地域があるが、これはこういう仕組みで出来上がっているともいえる。
考えてみると、子供がせいぜい二人だとしたら、この子たちの行く末を案じるという事になるだろうが、孫やひ孫という題になると、誰れが何て名前だったがもうわからなくなるくらいだろう。
そうすると、この子の幸せというより、この子たちの幸せというように考えるだろうし、一族ということを強く実感しながら考えるだろうし、集団の、地域の幸せという事を考えるようになるかもしれない。
自分の一族が未来に渡って反映することを願うという事は、どこから嫁や婿を取るかという事で、一族とともにこの地域で生活していく人たちのことも考えなければならなないだろうし、自分のことを考えるという事は、親戚縁者を含めて地域のことを考える事だろうし、これを延長していけば、社会全体のことを考えることになるだろう。
そうすると、とても100年という時間のスケールでは収まりきれない、例えば、1000年という時間のスケールくらいは考えないといけない。
実際このようなことは既に考えられてきた。
大きな寺や神社に行くと、樹齢1000年くらいの神木があったりする。
多分人の手で植えられたこの木は、この地域に住む人たちによって大切にされてきたのだろう。そして、この木がいずれ神が宿り、神木となって私たちを守ってほしいと願った結果なのだと思う。
1000年先を見越して植えたのだ。
この神木の幹はとても太く、触れると何か感激するようなとても強い生命力を感じる。
これは、1000年先を見越して植えた子孫を想う私たちの祖先の願いの太さ・たくましさなのではないだろうか。
このようなスケールで今の自分の在り方を捉え直した場合、自分の一生というたかだか100年程度のこと以上の豊かな想いを抱くことが出来るだろうし、私たちがどこから来てどこへ向かおうとしているのかが明確になるように思う。
私はいずれ霊となって、1000年後のこの世界に自分の痕跡の1つでも見出すことが出来れば、本望だと思っている。