100歳のおばあちゃん、おじいちゃんがいるとして、この人たちが未来について考えるかどうかを考えてみた。



私たちは、少なくともあと数十年は生きる。




そして、少し先の未来として、いずれ自分が死ぬことを考えている。



自分は充分に生きて来ただろうか、満足できる人生を歩んできただろうか、もし満足できる・満足できないとしたならは、ではどうすればもっと充実した人生を歩むことが出来るかを、残された人生という、ある程度のボリュームのある時間の過ごし方として考える。



これは検討するに値する課題だ。



では、もう充分に生きた人たちはどのように考えるのだろう。



この年代の人たちのことを考えてみると、家屋敷があったり、土地を持っていたり、多少の財産があり、自分の子供、孫、ひ孫、などがいるだろう。



例えば100年という時間は、とても長いもののように思えるが、世代によってスケーリングしてみると、大体3世代。



自分が生まれて来て、子供が30代で出来たとして、孫の世代がひ孫を作るタイミングが大体100年くらい。



うまくいけば、ひ孫の頭をなでるくらいのことはできる。



自分の子供ができたとして、この時には、健康で丈夫に育ってほしい、自分の好きなことに一生懸命になってほしい、そして、幸せになってほしいと願うと思う。



そして、孫が出来れば、そういう心配は生みの親に任せて、ただひたすらにかわいがったりすることもできる。



そして、ひ孫の頭をなでることが出来るころには、生きたご先祖様のようになることだってできるかもしれない。



もし、ひ孫の頭を撫でた後、静かにこの世を去る時、きっとこのひ孫の行く末を案じるだろうし、幸せに育ってほしいと願うことだろうと考える。



もし、100歳のおじいちゃんおばあちゃんにコーチングができるとしたら、こんなことをテーマにしてセッションできそうな感覚を最近もつことが出来るようになった。



しかし、ここで気づいたものがある。



単純なことだが、家族というのは増えるのだ。



自分に二人の子供がいたとして、それぞれが結婚して配偶者も家族として数えたら、2人増えて4人。



この夫婦に子供が二人ずつできたとして、さらに4人増えて8人、結婚して配偶者が…、子供が、と数えていったら、結構な数になる。



これを大家族と言ってしまえばそれまでだが、一つの社会が出来上がるという事になる。



ある地域の家庭の名字がみんなおんなじなんて地域があるが、これはこういう仕組みで出来上がっているともいえる。



考えてみると、子供がせいぜい二人だとしたら、この子たちの行く末を案じるという事になるだろうが、孫やひ孫という題になると、誰れが何て名前だったがもうわからなくなるくらいだろう。



そうすると、この子の幸せというより、この子たちの幸せというように考えるだろうし、一族ということを強く実感しながら考えるだろうし、集団の、地域の幸せという事を考えるようになるかもしれない。



自分の一族が未来に渡って反映することを願うという事は、どこから嫁や婿を取るかという事で、一族とともにこの地域で生活していく人たちのことも考えなければならなないだろうし、自分のことを考えるという事は、親戚縁者を含めて地域のことを考える事だろうし、これを延長していけば、社会全体のことを考えることになるだろう。



そうすると、とても100年という時間のスケールでは収まりきれない、例えば、1000年という時間のスケールくらいは考えないといけない。



実際このようなことは既に考えられてきた。



大きな寺や神社に行くと、樹齢1000年くらいの神木があったりする。



多分人の手で植えられたこの木は、この地域に住む人たちによって大切にされてきたのだろう。そして、この木がいずれ神が宿り、神木となって私たちを守ってほしいと願った結果なのだと思う。



1000年先を見越して植えたのだ。



この神木の幹はとても太く、触れると何か感激するようなとても強い生命力を感じる。



これは、1000年先を見越して植えた子孫を想う私たちの祖先の願いの太さ・たくましさなのではないだろうか。



このようなスケールで今の自分の在り方を捉え直した場合、自分の一生というたかだか100年程度のこと以上の豊かな想いを抱くことが出来るだろうし、私たちがどこから来てどこへ向かおうとしているのかが明確になるように思う。



私はいずれ霊となって、1000年後のこの世界に自分の痕跡の1つでも見出すことが出来れば、本望だと思っている。

この本、対談形式になっているわけで、という事は、何となくだけど、哲人が青年に対してカウンセリングをしているのではないか、と想像しちゃうわけだ。

だって、悩める青年に対して、悩みぬいた末に何かを悟った哲人が、対話しているわけだから、いろいろ解釈はあるだろうし、問答という解釈もできるだろうけど、やっぱり何かしらのカウンセリングをしているのではないかと…。

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..

で、やっぱり読み物だし、啓蒙啓発の書だし、そこには演出があるにしても、やっぱりしつこいくらいカウンセリングのプロセスなんじゃないかと思うわけで。



どうなんだろう、もしこの本が、本当にカウンセリングだとしたら、カウンセラーは、相当な分量、話してるなぁ、と思うわけだ。



こういう風に書くと、批判がましいと取られるかもしれないけど、本当は、批判しているわけじゃなくて、正直、すごいなぁと思う。



というのは、カウンセラーというのは、まず、とても、とっても人の話を聴くという事に徹するわけで、ある技法の人たちは、1時間のセッションで最初の挨拶と最後の挨拶をしただけで、あとはひたすらうんうんと聴いているだけだというし、しゃべらなければしゃべらないほどいいという感じだという。



例えば、ある高名なカウンセラーの人が対談しているのを読んだりすると、もう対談相手が一方的に話していて、こっちとしてはカウンセラーの人の意見を読みたくて買ったにも関わらず、もうその人は、うんうん、はいはい、へーとしか言っていなくて、なんだか狐につままれるというのは、こういうことなんじゃないかと…。



ところが、この『嫌われる勇気』では、哲人がいっぱいしゃべってるw

これ考えたんだけど、こういうセラピーもあるのかもしれない。



第一夜なんか読んでいると、人は怒りを捏造しているとか。
ねつぞう? ネツゾウ!?!? こんなこと言うセラピストがいたら、一遍で嫌いになっちゃうと思うんですね。



でも、こういう挑発的とも思える過激なことを言うというのは、すっごいことで、こういうことを平然と言う人を試金石として、自分を見つめ直したら、今までの自分の行動や言動はなんだったのかと反省するようになると思う。 



そしたら、猛烈にいろんなことを考え始めて、本当の自分に気づき始めるような気になった。



最初、冷静に読めなくて、気持ちをいろいろに振り回されるような感じになって、イライラしたりするわな、確かに。



ひょっとしたら、『嫌われる勇気』というのは、カウンセラーとかセラピストの態度のことなんじゃないだろうか。



もっと言うと、自分自身に対する態度のことなんじゃないだろうか。



兎に角、安心したいとか、完全な場所に居たいとかひきこもりたいと

か、そういう欲求というのは、まぁ強くあるけれども、独立した個人として完成されているとしたら、寝てばかりいないで、起きろと。



人の中にある本当のその人らしさを揺り動かしてたたき起こすという事も大切なんではないかと。



相手の青年の挑発に乗らずに、とつとつと話す哲人は、これよっぽど精神力強くないと語れないなぁ。



友達のセラピストとこの前話したけど、クライアントに対して、あなたに嫌われようがどう思われようが、こっちは全然構いませんというくらい強い気持ちで関わらないとクライアントは変われないといっていたのを強烈に思い出した。



本当に悩んでいるクライアントは人の顔色を見るプロだから、少しでも相手に対して弱い気持ちを抱いたら、すぐわかるんだというのね。

ものすごく強い気持ちを持っているから、心の闇からその人のことを引っ張り上げられるんだ、とも言っていたなぁ。



自我の強さと言ってしまえばそれまでだけど、これは自分が誰に対しても自由でいられるという事と関わっているのだと思う。



このセラピスト、自分のこと大好きだって言ってた。



どれだけ何を話すべきかという技術的なスタイルの問題はこちら側の課題でもあるので、いろいろ考えないといけないとしても、やっぱりもう少しじっくり読んでいかないと、おいそれと結論を語ることは出来そうにないな。



それにしても、『嫌われる勇気』ねぇ…。



嫌われたくないんだよなぁ、あんまり…。

コーチングやカウンセリングのトレーニングを受けていた時、相当細かく指示があったような記憶があって、しゃべりすぎるなとか、相手の言葉を使って適切なタイミングで要約しろとか、身体を動かしたり歩かせたりというのがいろいろあって、型にはめてもらっていたように思う。



学ぶという事は真似するという事だし、基本があって応用ができるわけだし…。



流派によって相当違うし、どれが正しいんだろうという問いを立ててみたりしたけど、どうもこういう考え方というか、この問いが間違っているらしい。



それら流派の考え方を正しいと思って学びに行くわけだけど、その流派は学びに来る人の中身は知らないわけで、当然といえば当然だけど、例えば、僕のことを来談者中心療法のロジャースは知らないわけだし、ゲシュタルトセラピーのパールズとは面識も何もないわけだ。



実際、人にセラピーを教えるという事は、その人に合った教え方をしないと、本当のところは伝わらないんだと思うし、その人に合った伝え方とかしてたら、セラピーそのものも変わってくるのではないだろうか。



とすると、本家本元の人が変えてもいいところ、変えてはいけないところを判断しながら、伝えなくてはいけないのではないか。



どうしても、こういうところが、フォロワーの人にはできなくなることで、伝え続けなくちゃいけないわけだし、この限りにおいて、替える事は出来にくいのだと思う。



そうすると、たくさんのいろんな人に伝えられるように、形式化していかなくちゃいけないわけで、本家本元の人のように作り続けていくということが出来なくなる。



だから、彼らがどれだけすごいセラピーができるとしても、それが僕にあっているかどうかは判らないわけで、なんか一流デザイナーの採寸なしの既製服を店員に薦めれて、ずんぐりむっくりのダボダボでも馬子にも衣装というか、ちょっといい気になって着せられるような感じはあるな。



出会のものではあるんだけどもね。



やっぱり彼らだって、充分以上に自分に対してセラピーを適用してきただろうし、まずは自分にぴったりにあつらえつづけたはずなんだよな。



それに、全ての流派について、いわゆるセラピーというものをすべて学んだうえで、検討し、どれが一番すぐれているかなんて結論を出すことは、物理的に不可能だし、原理的にも不可能なのだと思う。



そもそもロジャースとパールズとセラピストとしてどっちが優れているかなんてクライアント目線でいえば比較できないのだから。



だって、ある意味、出逢いのものだし、出会ったその時の気持ちの盛り上がりとか、信じるという気持ちが大切なわけだし、比較するってこと自身がもうなんか違うんだよな。



これは結婚相手を探すときも同じで、全ての女性のプロフィールを検討し、条件を絞り込んでいって、最適な条件の相手をピックアップしたうえで、幾人かの候補とお付き合いし…、なんてことは、相当時間とお金があれば、出来るだろうけど、そんなだったら、そもそも結婚しなくてもいいんじゃないだろうか!?



科学は、これをやるんだよな…。
スーパーコンピューターでデータベース作ってパラメーター設定して、猛烈な速度で計算して…。



ものすごくばかばかしいように思える。



もう、こういう考え方や問い自身が対人支援的ではない。



本当の理想を言えば、自分のスキルやリソースを洗い出していって、これを使って、自分のお気に入りのコーチと一緒にオリジナルのセラピーを作っていくようなセッションを繰り返していけば、一見遠回りなようでも、一番の近道なのではないだろうか。



多分、こういうのが、普通に言う継続コーチングの意義だわな。



そうすると、行列のできる超一流レストランの料理のようなものはできないかもしれないし、ほんとごく少数の誰かのためだけかもしれないけど、食べ飽きない、それによって人が生き続けられるような、家庭料理のようなセラピーが出来上がるかもしれない。



多少見てくれは悪くても、味に問題はあるとしても、一生懸命作ってくれれば、それはやっぱりうまいのよ。



あー、腹減った。


私たちは、目前にあるものを見たいように見ており、捉えたいようにとらえています。

私たちがまだ赤ちゃんだったころ、母親の皮膚の感触や表情やしぐさや話しかけてくれる声の音など、様々な刺激を手掛かりとしながら旺盛な想像力を発揮して、目前にあるものに対して意味づけを行い、生きていくための自分の世界を創造してきました。

遊ぶことは想像することであり、想像することは創造することであり、創造することは学ぶことであって、学ぶことは自分の世界が広がることであり、世界が広がることは母親とより親密な関係を作り出すことであり、この親密さはより大きな世界へと広がっていく…。

私たちは生まれた途端から、このような創造的想像力(Creative Imagination)にあふれており、この力を発揮してここまで生きてきたといっても過言ではありません。

しかし、どこかで、自分が創造してきた世界が限界に突き当たり、何がどうなっているのか、今までのようにはうまくいかないという場面が出てきます。

もしくは、思うようなペースで事が運ばない、何かじれったいようなもやもやした気持ちになることがあります。

このとき、私たちが世界との幸福な関わりを作り出していたころにまで遡って、改めて創造的に想像し直そうとする人を見守るのが、私たちのコーチングです。

少なくとも、私たちが本来持っている創造的想像力の力を信じ、これがいかんなく発揮されるよう支援すること、このことが私たちの役割であり、様々な手掛かりとなる問い掛けはしつつも、決して邪魔せず、温かく見守り、必ずうまくいくと確信をもって信じることが私たちの本来の姿です。

いわゆる「ぼーっとする」デフォルトモードネットワークDMNに関する研究は最近活発なようで、テレビやネットでも情報を見る機会が増えている。



DMNは情報の消化器官のようなもので、口から入った情報をじっくり消化して身体の栄養になる様消化する脳の仕組みだと考えられている。



例えば、睡眠時に活発に活動するとか、何も考えずに歩いているときなどに活発に働いているといわれ、脳の消費するエネルギーの9割程度を使っているといわれている。



考えてみればそりゃそうで、私たちが食べ物を食べるのはほんの数分でだとしても、これを消化吸収するためには十数時間を擁し、多くのエネルギーを使っているのと相似を成している。



物を食べた後すぐには動かないほうが良いといわれているが、情報の消化吸収という事を考えると、すぐにはハードなタスクをしない方が理解が進むのではないかという仮説も成り立つ。



これが私たちにとって重要なのは、例えばカウンセリングなどで1時間程度のセッションを行った後、それが機能し出すのは、一日以上経過してからではないかとか、セッション中に劇的な変化が起こらなくても、後からじわじわと機能し出すのではないかなどという疑問に答えてくれる可能性があるためである。



今回の研究は、情報を受け取る際、私たちが前頭葉で情報を受け取りつつ、最低30秒という間隔でDMNとリンクさせながら対処しているという点。



私たちにとって、比喩的にに解釈していくと、
情報を取り込む(食べ物を口に入れる)
情報を咀嚼する(口をもぐもぐさせる)
理解する(ごっくんする)
情報を取り込む(また食べ物を口に入れる)
このくりかえし、という感じか。



そうすると、対話の時、相手の状況を観察しながら話していくという事は、こういう前頭葉(口に入れる)とDMN(ごっくんする)とのくりかえしの間隔を見ながら、次の食べ物を口に入れてもらうタイミングをうかがっているという事になるかもしれない。



このようなことがさらに明らかになっていくと、対話支援の進め方についても、私たちにとって大いに得るものがあるかもしれない。




http://sankei.jp.msn.com/wired/news/140822/wir14082212210001-n1.htm


コーチングとは、目の前にいる人を勇気づけたり、励ましたり、元気にすることによって、人の願いを叶え、この世の中を少しでも生きやすいものにしようという努力のことです。




私たちは、どこか遠くの国で起きている悲劇には手も足も出なかったりしますが、目の前に困っている人がいれば、黙って手を差し伸べるでしょうし、ほかに、もし自分にできることがあれば喜んで力になろうとするでしょう。このことによって、少しでも世の中を住みやすくし、生きやすくすることが出来ます。




皆さんがコーチングを学ぶと、あなたの身の回りの人に対して、今より、より多く励ますことが出来るようになるでしょうし、その人の力になることが出来るでしょう。何よりあなたがそこにいるだけで周囲に対して勇気づけになることでしょう。



確かに、人より少しでもお金がほしいとか、仕事で有利な立場に立ちたいとか、そういうものに対してもコーチングは有効ですが、それだけではもったいないと思います。




ところで、私たちは、自分でこの世に望んで生まれてきたわけではありません。


少なくとも、なぜこの世に自分が生まれてきたのかという理由は自分の中には見つかりません。


しかし、私たちは、両親や誰かの願いによって生まれてきたということは、容易に確認できる事実でしょうし、その願いを遡っていくと、この願いが綿々と受け継がれてきたという事実にも突き当たります。




私たちは一人で生きていくことはできないとしても、私たちが生きていくこととは、それだけで誰かの願いを叶えることであり、受け継いで次に引き渡していくことなのだと思います。



このように考えていくと、おのずと今何をするべきか、自分はどうすべきか、どうあるべきかがお分かり頂けると思います。



ほんの少しでもよいのです。無理をせずとも、可能な範囲で、この世の中が少しでも生きやすく、少しでも明るくなりますように。















相手の話を聴くというのは、伴奏すること以外のなにものでもないように思うなぁ。




カウンセリングにおける対話を英語でセッションといいますが、音楽で演奏することもセッションとか言いますし、カウンセラーとしては伴奏しているというイメージで聴いていたりする。




人にはそれぞれ固有のリズムがある。...




もちろん気分にもよるが、大体決まったテンポでリズムを刻んでいるし、一定のリズムとテンポを好むような傾向があるように見える。




悲しい曲はゆっくりだし、うれしい曲はやや速めで、何か爆発的な感情の曲は、むちゃくちゃ速いものもある。




これは年齢とともにゆっくりになってくるという事が知られているし、なぜか若いころは、正確なリズムを好んだりするし、歳をとると微妙なグルーブが妙に心地よくなったりする。




当たり前だが、歌の歌詞をよく聴いていると、やはり言いたいところは繰り返しているし、間奏のところでは、主旋律にバリエーションをつけたソロがあって、主張をメロディでリフレインしていたりする。




話しも歌も、表現なのだから、何かを伝えるという事は、どこか類似性があるのだろうし、特に感情表現の構造としては、歌の構造を分析しておくことは、すごく参考になると思う。


役に立てばいいんだという人には関係ない議論だが、役に立たない議論のの代表である哲学には、数学同様なかなか解くことの出来ない難問というのがいくつもあって、この中にはカウンセラーとかコーチとか私たちに関連するものもある。


「なぜ今、ここなのか?」問題...
または
「今・ここの問い(いま・ここの-)」


概要としては以下の通り。

世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてき、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)


とりあえず出されている仮説は、

1.私しかいない
2.ただそうなっている、としか言えない
3.私は生けとし生けるもの全てである
4.私は全世界である


ちょっと気分によってはわらっちゃいそうな仮説がならんでいる。


仮説や傍証はいくらでもあるにせよ、これは臨床では当たり前のように言われる「今、ここ」は、なぜ、今ここなのかという学的な証明や根拠がほとんど明らかになっていないに等しい難問だといわれている。

幽霊の目撃証言はいくらでもあるけど、学問的に幽霊の存在が証明されたわけではないというのに等しい。


心理学の統計上、思春期にこういう課題を抱える人たちが常に一定数いるらしい。


このため、人の道を外れて哲学なんかやったりする人が出てきたりするのには、こういう理由があるというわけだ。


そして、いまだかつて明確に答えを出した人はいないらしい。


しかし、根拠も理由もないけれど、この前提に立たない限り、カウンセリングもコーチングも機能しない。


そもそも、根拠を求めるなんてのが無駄なことだとという人には関係ないが、なぜ私たちは根拠を求めずにはいられないのかという問いでもある。


私たちはとても厄介な生き物であり、この厄介さについての感受性がないのは、人らしさがないという事でもあるのだろう。逆に言うと、こういう問題に浸れるというのは、何か秘密めいた特権的な感じもする。


この感受性でもって鋭くこの問題を語っているシュレディンガーのネコでおなじみのエルヴィン・シュレディンガーの随筆の一節は大変美しい。
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「アルプスの山岳地帯における、とある道端のベンチに君が座っていると仮定しよう。…

君が見ているものはすべて‐われわれの通常のものの見方によれば─君が存在する以前から、少しの変化はあったものの、幾千年もの間ずっと変わることなくそこにあった。

しばらくのちに─それはそう長い間ではない─君はもはや存在しなくなるであろう。

それでもその林や岩や青空は、君がいなくなったのちも、幾千年も変わることなくそこに存在し続けるであろう。

かくも突然に無から君を呼び覚まし、君にはなんの関係もないこの光景を、ほんのしばらくの間君に楽しむようにさせたものは、いったいなんなのであろうか。

考えてみれば、君の存在にかかわる状況はすべて、およそ岩の存在ほどにも古いものである。

幾千年もの間 男たちは奮闘し、傷つき、子をもうけ、はぐくんできた。

そして女たちは苦痛に耐えて子を産んできた。

おそらく百年まえにも誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔な、そしてもの悲しい気持ちを心に秘めて、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。

君と同様に彼もまた父から生まれ、母から産まれた。

彼もまた君と同じ苦痛と束の間の喜びとを感じた。

はたして彼は、君とは違う誰か他の者であったのだろうか。

彼は君自身、すなわち君の自我ではなかったのか。…

はたしてこの「誰か他の者」とは、明瞭な科学的意味をもったものなのであろうか。…

なぜ君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。

もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い─君と誰か他の者との違い─をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか」。


今年は私が生まれて来て半世紀の年。


とてもいいことだと思う。


こう書いていても、なぜかうれしい気持ちになる。


いろんなものを見てきたし、いろんなことをやってきた。


お金持ちにはなれなかったけど、住むところもあるし、借金もない。


家内には申し訳ないが、誰に特に迷惑をかけているわけでもないだろうし、これはこれでいい。



人と比べたら、貧しい人生かもしれないが、比べることにさして意義を感じないので、どうでもいい。


人より優越しているところもないが、人の優越感を阻害することもないし、優越コンプレックスに振り回されることもないので、楽。



いろいろあるが、若いころに戻りたいとも思わない。


コーチングが万能だという世間の評判で、なにかと試してみたが、若返りの方法ではないということが判った。


人それぞれ良いところもあるし、悪いところもあるだろう。だとしたら、過去の自分にも良いところはあるし、悪いところもあるのだから、今の自分にも良いところもあるし、悪いところもある。取り立てて騒ぐほどのことではない。



コーチングがかなり強烈なメソッドだとしても、若かったころの自分を取り戻すような、時間を遡ってやり直せるなんてことはない。



とはいえ、まだ悟るには早すぎるという気持ちは常にある。多分死ぬまでこう思っていると思う。



まだやれることはあるし、だからといって無理してまでやろうとも思わない。大きな夢があるというわけでもないし、まったくないわけでもない。



ただ、願いはある。


すべての人に共通するような願いを少しでもいい、叶える手伝いの一つでもできれば、本望。



なにか濁ったものを濁ったものとして捕らえられる感受性と、それを見る目と、聞き分けられる耳とがあれば、とりあえずはいい。



もし叶えられるならば、それを少しでも澄んだものにするような呼び声の一つでも掛けられれば、いい。



すべては、今、にある。

私たちは世界を見たいように見ている。



アドラー関係の本を読んでいると、どうも学生のころやっていた現象学と発想が同じだという事に気が付いた。



現象学というと、やや難しいのだが、私たちは、世界と密接に関わっており、余りに密着しているがために当たり前のように世界と関わっているのだが、世界との共犯関係を停止するとか何とか、いろんな表現がされるけれども、一旦立ち止まって何がどうなっているのか洗い出してみるというような内容。



そうしたとき見えてくるのが、私たちは意味の体系として世界を捉えているという事であり、世界は一つ一つの意味付けされたものどうしを関連させて連なりとして捉えられているということだったりする。



しかし、普遍的な意味というものがあるというわけではなく、また普遍的な捉え方というものがあるわけでもなくて、私を中心として世界を意味あるものとしているのであって、私が世界を作っているという事だし、この私が作り出した世界の秩序が後に私を束縛するという事はあったとしても、私が創造したものであるという事には変わりない、という事になっている。



もっとも、これにはさまざまな抵抗を感じたりするが、だとしても誰かと共同で作り上げたという事だし、好むと好まざるとに関わらず、誰かからの無理強いはあったとしても、まぁ、そんな気持ちもいっしょくたにしながら何となくな納得していることには変わりなかったりする。



確かに、事の始まりとして、私たちは生物だし動物だというわけで、生まれながらに直立歩行するような身体の構造を持って生まれてくるが、どうもこの身体の使い方まではプログラミングされていないようで、生まれたばかりの赤ん坊はかなり無秩序に、次第に秩序立った行動を置こうというように、身体の使い方を自分で編み出している、という観察結果がある。



言葉の習得もそうで、最初は無秩序に泣くか叫んでいるかしていて、次第に秩序立ってくるという観察結果がある、というより、大方のお母さん方は子供を観察していればごく自然にわかることではある。



という事は、赤ん坊も、自分の身体という世界を使いこなすべく、創造的にいろんなことをやっているのだし、それこそぐにょぐにょだったり、バーバー言いながらも、創造的に日々を送っているという事だ。

こんなことをつらつら考えていくと、ハイデガーが言うような実存とか現存在という、いまここでなにかを選び取っているという私たちの本質的在り方だったり、サルトルが言うようなアンガージュマンというような、積極的に行為していく私たちの姿を、アドラーの思想の中に見出すことが出来るような気がする。



しかし、そういう実存思想とアドラーの思想が違うところは、共同体感覚という、他者を通じた人間への信頼感を根底においている所であったり、この感覚を前提としている他者への貢献への視座が全体を貫いているところだと思う。



案外ハイデガーは、ナチスに加担したりして脇が甘かったりするし、サルトルは案外簡単に社会主義に走ったりして、メルロー=ポンティにひどく批判されたりして、まさかの逆切れをして悪口を言ったりしてして大変見苦しかったりもする。



今、世の中で求められているのは、健全な社会像だったり、社会変革の方向性だったりするのだと思う。



マルクスはどっかで人間を軽く見ていたんだと思うし、いまだに社会主義やってる人は、どこか惰性でやってたりするし、誰かがやってる限りは何か正しいのだろうという気分だとか、やり続けるとお金もからんじゃってるしね、という事情でやってたりするという事がもうバレバレなので、そういうことから少し自由な人には見向きもされないし、目新しさもない。



社会を変えるには、まずは政治参加から、といって、デモをやるというのは大変だし、火炎瓶を投げたり、投げられたりでは、とても迷惑だ。

社会を変えるには、まずは自分から、というのは大変手頃で迷惑がかからない。



健全で穏健な革命家を目指そう! と思う今日この頃であります。