人には一つだけ義務があるのではないかと思っています。




周りが納得できる死に方をする義務です。




死に方にはいろいろあると思います。




病死・事故死・自殺・老衰・他殺・尊厳死とか、いろいろあると思います。




どれでもいいのですが、周囲の人がどこか納得できて、仕方ないと思える死に方をしなければならないと思います。




自分が死ぬことで、どこか他人を巻き添えにして、周囲の人が生きていくことを妨げてしまうような死は、やはりいけない。




それは、私たちが集団で生きていくことを種として選択しているためです。




私たちの身体は、生物としてとても脆弱で、野生のまま生きていくことが大変困難であり、種として生きながらえるためには、集団で協力し合わなければならない身体です。




だとすると、私たちが生まれる際にも、集団の力によって生まれてくるのだし、日々生活していく際にも集団の力を借りて生きていくわけだし、やはりこれを否定してしまってはいけないと思うからです。




そもそも、私たちが生まれてきたという理由もここにあると思います。




種としての人間が私たちが生まれてくることを望んだ、という事だと思います。




これを人類の意志といってもいい。




私たち人類が生きながらえるため、私たちが生まれてくることを望んだ、という事です。




このように考えると、私というものの中には、生まれてきた理由などないという事だって言えます。




私は哲学が専門なのであえて言うのですが、西洋哲学は、どうもここのあたりのことをしっかり言ってこなかったように思います。




何処か、個人という、私というものを前提として考えている。




はっきり言いますが、私というものを前提として考えた場合、生まれてきた理由など見つからないと思います。




問題の立て方がそもそも間違っている。




あえて言えば、誰かのために望まれて生まれてきた。




こう考えた方が、すっきりする。




だとしたら、私たちは、少なくとも、周囲との関わりの中で自分の死を捉える必要があると思います。




少なくとも、集団の意志を否定するような死に方はしてはいけない。




なにかに抗議するために死んでもいいし、事故に巻き込まれたり、病気になって死んでもいいと思うんです。




しかし、誰かが生きることを妨げるような死に方はいけない。




うらみがましかったり、無意味に死んではいけないのです。




私自身、どういう死に方がいいか、あまり考えたことがないですが、自分が死ぬときは、死を受け入れる時間はほしいなぁと思っています。




少なくとも、自分が受け入れられることは、人類として正当性があるように思うからです。




真っ当に死にたいものです。




                         ペタしてね

祈るという行為は、とてもダイナミックな行為です。




私たちが日常、寺や神社にいって、ナムナムとお祈りしてきたりするのは、ほんの一瞬で、時間にして30秒程度でしょうか。




これは、とても静的な行為です。




お坊さんの座禅の修業などを見ても、ただひたすらに座るという、とても静的な行為です。




しかし、四国八十八箇所めぐりといえば、1100キロ以上を歩く行為です。




これを歩くわけですから、かなりダイナミックな行為です。




この間に、八十八箇所のお寺を巡って、それぞれでひたすらお経を唱えたり、祈ったりするわけです。




確かに祈るという行為は、静的な行為であるといえますが、この間にトータルで1100キロ以上歩くという行為が含まれており、この上での祈りなのだという事です。




先日、ぼぉーっとすることの意義について考えてみましたが、この時働いている脳の中のネットワークは、歩いているときに活発に活動します。




これは、自分の中に取り込んだ多くの情報を消化し、つなぎ合わせて、自分の中に吸収していく行為です。




その上で、改めて願いを明らかに描き出し、叶えようと祈るわけです。




ところで、NLPというセラピーのような、コーチングのスキルの大部分はここからもらってきているものがあります。




このスキルの重要なものにタイムラインというものがあります。



自分が生まれて、死ぬまでを例えば10メートルくらいのラインに見立てて、この線の上を前後に歩きながら、自分の実現したい夢のイメージや、達成した時のことをイメージしながら、現在と過去のイメージを書き換えていくという行為です。




私は、祈るという行為の中には、このような行為が含まれているのではないか、と考えています。




実際にタイムラインというスキルを行ってみると、過去・現在・未来と設定された線の上で、身体を前や後ろに動かすだけですが、自分の中のイメージがどんどん変化していきます。




変化していくと、今何をしたら良いか、どんな未来が待っているかがとても明確になり、行動しやすくなります。




自分の中で願い事がイメージされて、これ不思議なんですが、具体的なものになっていくんです。




自分のカレンダーが書き換わるようです。




これをもっとダイナミックにしたものが、四国八十八箇所のようなお遍路なのではないかと思います。




このように考えていくと、お寺には参道であったり、長い階段などがありますが、これはやはり祈るという行為にとって、どうしても必要なものなのではないかと思うのです。




祈るという行為はとてもダイナミックなものであり、ダイナミックに祈ることで、現実化していくのではないか、このうに考えています。




ペタしてね

脳科学の話を少し…。




意識的に課題に取り組んでいる際に、消費しているエネルギーは、脳が消費している総エネルギー量の数%にすぎません。




ではどう脳はエネルギーを消費しているかといえば、ぽぉーっとしているときに大変な量のエネルギーを消費しているとのことです。




これ、大変面白いですね。




脳の働きは、頻繁にコンピューターに例えられますが、office等のアプリケーションを動かしているときにCPUが最も活動しているとすれば、脳も同様であろうと考えられていたわけです。





しかしそうではなくて、ほぉーっとしている際に最も活動しているというわけです。




これは考えてみればそうかなぁという理由によるものです。




人の心の仕組みとして、フロイト以来、意識と無意識に別れるといいますが、心の総量として、無意識が9割以上占めていて、意識は1割に満たないといいます。




私たちは、意識的にできることは、精神活動として1割に満たないという事ですから、このように文章を書くという課題に使っている脳のエネルギー消費量も、どんなに頑張ったとしても1割に満たないだろうという事は想像できます。




では、残りの9割はどんなことをしているのかといえば、ぽぉーっとしているというのは、自分を作っているとでもいうことになると思います。




食事に例えると、私たちは食卓でものを食べるという行為をしていることは、文章を読むとか、書くとか、そういう課題に取り組んでいるのと同じことなんですね。




何をどれだけ食べるか、おいしいとかまずいとか言って食べているわけです。




そして、動かしているのは、ほとんど口でもぐもぐと食べているというわけですね。




ところが、この呑みこんだものを消化して、吸収して、細胞1つ1つに必要な栄養を届けて、細胞が活動できるようになるまでは、長い時間とエネルギーを要しますね。




この食事という行為と、一連の消化吸収というものの時間やエネルギー量は比べもにならないくらいのものです。




脳も、課題をこなしたり、情報をインプットしたりするのは、食事と似ています。




外の世界から情報を取り込んで、食べる。




この後、これを消化吸収するという作業が待っているわけです。




この消化吸収することで私の身体ができるわけですから、情報をぼぉーっと消化吸収することで、自分が形成されていくという事ですね。




そうするとですね、瞑想するという事の意義も出てくるわけです。




瞑想は、インドのヨガがルーツのようですし、古代ギリシャでも、歩きながら議論したり、考え事をすると生産的だといわれているところを見ると、瞑想というモノの意義はかなり古くから知られていたようです。




このぼぉーっとしているときに活発に活動している個所は、デフォルト・モード・ネットワークといわれる個所ですが、寝ているときはもちろん、歩いているときでも活発に活動を始めます。





坪内逍遥という人がいましたが、逍遥という言葉には散歩するという意味がありますし、アリストテレスの学派のことを古い言葉で逍遥学派ともいったりします。




多分ぼぉーっとしていたんでしょうねw




瞑想といえば、禅宗の修業である座禅は、かなり体系化された瞑想法ですし、精神修養として大切にされてきました。




日本人の根幹にどこか禅宗的なものがありますし、戦後経済復興するために、主だった若手リーダーが京都の禅寺で修業し、自分の考えを十分に形成してから、全国に散って、これだけの復興を成し遂げたといわれています。




やはりこれから、情報があふれかえり、取捨選択していく必要がありますから、吸収した情報を大切に消化し、栄養とするために、もっとぼぉーっとする時間を大切にしなければならないと考えます。





コーチング心理学の第一人者、群馬大学名誉教授のほりじぃをお招きしてのセミナー、無事終了しました。


いろんな方からの感想をいただいて、気が付いたことがあります。

...

自分は人間関係でつまづくことがある。
→自分はコミュニケーション力が足りない。
→世の中にはコーチングという良いスキルがあるらしい。
→自分は足りないものは補わなければならない。
→だから、コーチングを学ばなければならない。


どうもこういう筋道を辿って、コーチングを学ばなければならないと思っているという感想をいただきました。


ところで、ほりじぃのセミナーでは、私たちの文化には、良いものがいっぱいある、歴史を見れば、周囲の人々を励まし、勇気づけ、共に働いてきた人々がたくさんいることを見直したいという提言から始まり、普通の人間関係から本質的なことを学び、大切に引き継いでいくことが重要ではないかと締めくくられました。


このご指摘は大変貴重で、コーチングの前提はクライアントは現状100%と全肯定して丸ごと受け入れることが大切といっており、これを徹底させるならば、どこまでもクライアントの次元に降りていかなければならないのではないか。


こう考えると、やはり日常の生活の中で受けてきたしつけや教育やおばあちゃんの慰めやおじいちゃんの諭しというものを大切にし、これに感謝することで引き継いでいくことが大切なのではないかと思います。


どうしても、外来語である「コーチング」という言葉では、私たちの日常使っている言葉の文脈が否定されるような、そういう感覚があります。

どうしても自分たちの外にある新しい科学的なもので自分を変えなければならないと考えてしまう。


科学は「私」というものを徹底的に排除しますが、そういうもので私というものを考えても良いのか。


このように考えていくと、私たちが生活している在り方を大切にし、この中で、日々のささやかな願いを叶えていくことが大切で、これを応援していくことが私たちのありうべき生き方なのではないかと思います。


ほりじぃと私の友人たちとで、香川県のお寺を回りました。


お遍路さんも泊まる善通寺の宿坊に泊まっていただき、朝のお勤めにも参加していただき、参拝者の方々がひたすらに神仏に祈る姿をまじかに見てきました。


「願い」は「祈ぐ(ねぐ)」が転じて祈りとなり、「ねがい」は「ねぎらい」であり感謝に通じます。


これは願いを叶えるためにくりかえされる対話です。


対話とは引き継ぐという事に繫がっていくのではないでしょうか。



コーチが言ってはいけないクライアントが傷つくことがあります。


1.あなたは他の人と比べて変わってる、おかしい。
2.あなたには~がない。
3.私はあなたとは違う。
4.もういい加減成果出さないとね。成果出させてあげるからさ。
5.あなたには残念ながら、見るべきものがない。
6.あなたが関心のあることは、机上の空論だから、私には関心ない。.

..

信じられないようなことだが、高額なセッション料を取るコーチから、このようなことを言われ続けたクライアントがいたらしいです


このクライアントさんは相当傷ついていたようで、人間不信のようになっていたのです。

コーチングセッションを受けて、困っているからお願いしているのに、泣きっ面に蜂のようになってしまった人というのは、多いと思います。


クライアントはコーチに対して、何も文句は言えないまま、セッションで成果が出ないのは自分が悪いんじゃないかと、高額なお金も失って自分を責めだすんです。

それで思い余ってセッションで成果が出ないという事で、クライアントが文句を言ったとしても、コーチはだったら手を引きますと、いえばいいだけなんです。

現行、こういうコーチからの被害からクライアントを救済する機関や相談先というものは存在しないです。

いずれ、そういう相談先が出来て、、データベースに照会したら、このコーチはどれだけクレームが来ているか検索できるようになるんだろうなぁ。


絶対必要だし。

上杉鷹山は、江戸時代3000人いた大名の中で、もっとも優れた名君といわれた大名です。



現在の金額に直して、150億円の借金を抱えた藩の財政を立て直し、飢饉に際して1人の餓死者も出さず、家族が病気の際には仕事を休み介護が行えるような制度を作り、自らもこれを実践した大名であり、領民の栄養状態が改善するように健康食のレシピを考案し、コイの養殖のノウハウまでマニュアル化して、配布したという名君中の名君といわれる大名です。



この上杉鷹山、今風にいうと、コーチを雇っていました。



細井平洲という儒学者です。



少なくとも、国内の歴史上、最も優れたコーチと呼んで差支えないと思いますが、この細井平洲を雇います。



もともと、鷹山の幼少期にご養育係として、師弟関係を結ぶのですが、細井平洲は路上でストリートライブをしていたような人らしいのです。



町で、武士や町民農民の区別なく、辻説法のような形でなぜ倫理や道徳、親孝行というものが必要なのか、大切なのかを孔子の教えを前提として、誰にでもわかりやすく、丁寧に教えていたといいます。



そして、話を聴き終わった聴衆はみな涙しながら帰っていったといいます。



評判が評判を呼び、やがて鷹山のところでご養育係として家庭教師のようなことをするのですが、これが後の鷹山の名君たる素養に決定的だったといえます。



やがて名君として実力を発揮し出した鷹山は、自らの藩の財政改革のために力を貸してほしいと平洲を迎えるのですが、まず藩校を立て、同時に、領民に対してあまねく辻説法のような形で教育をすることになります。



藩が武士に対して教育を行うという事はありますが、大名が直々に雇った儒学者が、村々に直接出向いて、すべての領民に対して改革の精神を直接語ったり、仕事や家庭の問題に対して、直接知恵を授けるというようなことは歴史上ほぼないといわれています。



直接家に上がって、ひざをつきあわせて語りあったこともあるでしょうし、ここで話し合われたことは、平洲を通じて大名である鷹山の耳にも届いたと思います。



鷹山自身も、よく領民と接触していたといいます。


ある時、雨が降りそうなので早く刈り取りをしなければならないと1人の老婆が困っていると、お武家さんが通りかかり、一緒に手伝ってくれたといいます。


お礼にモチを33個丸めて予め聴いてた場所にお届けしたところ、大名のお城だったので、腰を抜かさんばかりに驚いたという手紙が残っています。



これが一度や二度ではなかったという記録も残っているようです。



下級武士が無料で壊れた橋を修理したとの知らせを聞いた鷹山は、馬に乗って現場に行くのですが、橋を渡る際に馬を下りて渡り、どうして馬を下りたのですかという問いかけに対して、皆の汗の浸み込んでいる橋を馬に乗っては渡れぬといったといいます。



細井平洲が鷹山に行った教育は、



領民の気持ちが判らないようでは藩主になってはいけない。



というものだったとのことです。



領民がいてこその領主であり、領民がいなければ領主は存在しえない、領民の暮らし向きやその辛さというものをありありと想像できてこそ、領主というものであるといいます。



民の気持ちを想像することが出来てはじめて藩主たる者の務めがわかる、勤めが判ったならば、それは勇気をもって実行せねばならぬという事です。



幼少期に細井平洲から受けたこの教育を終生変わらずに持ち続けたという鷹山もすごいですが、細井平洲は、藩の改革のプランを鷹山と一緒になって考え、励まし、勇気づけていたのです。



そして、生涯この協力関係は変わらなかったといいます。



私は思うのですが、どんなに優れた名君であっても、いや、優れているからこそ、身分を超えて勇気を与え、励ましてくれる人が必要なのだと思います。



そして、コーチというのは、それだけにとどまっていてはいけない、やはり倫理や道徳というものを語らねばならないのではないかと思います。



また、やはり経済的な現実と呼応していなければならないというのは確かだと思います。



幾らいいことを言ったり、教育に励んだとしても、経済的に藩が崩壊してしまっては、何も残らない。



これは大前提として実践しなければならない。



これからも、いろいろ検討しなければならないなぁと思います。

毎週木曜日は、コーチ仲間と集まって朝の5時からいろんなことをしゃべっています。



この中で出た話なのですが、目標と目的は違うよね、という話をしてきました。



オリンピックで100メートル競技は、陸上の華ですね。



これ、100メートルを完走することだけに目標を設定してしまうと、記録は伸びないんだそうです。



そうではなくて、人類最速を目指すとか、走る伝説を目指すとかすると、実力以上の力を発揮して大記録を出したりするのだそうです。



これ、冷静に考えると、当たり前のことだと思うんですね。



100メートルを全力で走るということなど、本当は私たちにとってはどうでもいいことです。



100メートル競走など、オリンピックとはいえ、人生の中にとっては、ほんの一瞬のことにすぎません。



しかし、100メートルを走ることで、自分の可能性を十二分に発揮し、これからの自分の残りの人生をどう生きるか、どういう風に生きていきたいか、つまり、未知の自分と出会う切っ掛けとして、全力以上の力で走り抜ける。


まるで、神話の中の英雄物語の様ではないですか!!



いま、日本人でも、10秒の壁を超えそうな有望な選手がいますね。



しかし、本当に世界の中で通用する選手になるためには、日本一になるという目標設定を超えて、人類最速というような目標に設定する必要があると思います。



そうじゃないにしても、マスコミが望んているような成果ではなく、自分のこれからの長い人生で本当に何を望んでいるのかという、願いに気が付くと、飛躍的に記録が伸びると思います。



このためには、メンタルコーチングを受けるのがいいかなと、思います。



なにか望みを叶えるという事は、私たちの本当の願いを感じることが必要なんです。



それは私の願いではなく、私たちの願いなんです。



あなたの願いは、私たちの願いなんです。



あなたの願いが叶いますように。



大目的論は「願い」のことだと思います。



生きているうちでも、死んで背後霊になってでも、叶えたい願いというのがあるというのは事実だと思います。



とってもいやな誰かに頭下げてでさえ、神仏を呼び出してでも叶えたいことがある。



これを祈りというのだと思います。そして、これは私にとっても同じなのです。





私の師匠が大目的という形で語っています。



とすると私のは、超目的かもしれません。





願い事には、旬があるようです。



旬というのは、魚や野菜などで一番おいしい時期のことを言いますが、漢字の意味としては、10日という意味があります。



1か月を10日間に分けて、上旬中旬下旬というように、よく使われます。



これを人に当てはめると、10代のころなら10代なりに、20代30代40代なら、それぞれの旬の願いがあります。




人は魚や野菜とは違って、それぞれの年代で旬を迎えると思いますので、一回限りのものではありません。



どちらかといえば、年代という区切りという意味での旬というものがあり、それぞれで願いの表れ方が変わってくると思います。



学生のころなら、進学や就職などの学生のころの旬の願いというものがあると思います。




社会人になったらなったで、仕事についての願いが出てくると思います。



10代の願いとかを40代50代の人が聴くと、ちょっとクスクスッて感じですが、いやいやどうして、切実であることは大人以上だったりします。




逆に40代50代の人の願いについて、10代の人はなかなか理解できないでしょう。





その人にとっての旬が違うからです。




私たちはとても長い時間を生きていくわけですが、限られた有限の時間を生きています。



もし、無限に生き続けることが出来れば、悩みや願い事はあり得ないと思っています。



どんな感情も起きないと思います。



知り合いの女性が、猫を飼いだして、とてもかわいい、余りにも可愛くて悲しくもなるという事を前に書きました。



猫の寿命は人間よりも短い。いずれ死に別れてしまう。それを思うと悲しくなるというものです。



これは私たちが有限の時間を生きているからこそ、そう思うのです。



人も猫も永遠に生きていくとすれば、こんな悲しいことは起きませんね。



という事は、逆に考えて、かわいいという感情も起きないだろうことが考えられます。



私たちの願いには、このようなその時々の感情が伴っています。



この感情のフィルターを通すと、その時々に現れてくる願いの表れ方が変わってくると考えています。





感情が起きるのには具体的な対象があるからです。





具体的な対象があるから感情が起きる。





感情とはきわめて合理的にできていますしね。



このように考えていくと、私たちには変わらない願いというものがあるのではないかと思えてきます。


だとしたら、この感情のフィルターの背後には、なにかがあるはず。




私はあると思います。




ここからはかなり想像的な話ですが、多分、時間的制約を超えて、生き続けたいという願望です。





こういうとスピリチュアルな感じですが、自分の中にある連続性とか一貫性というものを求める意識というのはどこかであると思います。





私たちが先祖のことを考えたり、子孫のことを考えたりするのは、DNAという事で考えやすくなりましたが、なにか一貫したものとの連続性を求めたり意識したりするのは、やはり自分の中の永続性を求める意識があるのだと思います。





それで、こういう願望があることを前提として、クライアントさんの話を聴いていくと、細かいことも聴いていきますが、割とクライアントさんの主訴に引きずられることも少なくなるように思います。





クライアントさんには、善意があり、夢や願いは善意が反映されているものと信じるという、コーチの鉄則のようなものがありますが、これではクライアントさんの願いというものと鉄則が分離しているように思えてきます。





そうではなくて、旬の願いも、旬を伴って現れてくる、その人の変わらぬ願いがあると思います。これを大切にする。





クライアントさんを勇気づけたり励ましたりするのも、その変わらぬ願いを大切にするからこそそうする。





そうすると、細かい鉄則に気を取られることなく、クライアントさんと接することが出来るようになりました。





あなたの願いが叶いますように。



古語辞典で、気になっていた「夢」について調べ
てみました。

結果、夢という古語や漢字には、希望的なものが、一切含まれていないということがわかりました。

1.眠っているときの一種の幻覚。
2.幻想・空想・幻。
3.はっきりしないさま。
4.はかない出来事。
...

どうもよろしくないです。

もともと漢字の成り立ちとしては、真っ暗の中ではっきりと目が見えないことを表しているとのこと。
夢夢とは、乱れた様のことで、「ボウボウ」とよむ。草ぼうぼうというわけです。

また夢というと、決して、とか絶対にという意味に使われたりして、「私が総理大臣になるなんて夢にも思いません」というのは、この意味です。

もともとはものすごく否定的な言葉なんですね。

これに対して、「望」という言葉には、現代語でいうところの「夢」に大変近い意味が含まれていることが判りました。

1.遠くを眺める。
2.こうありたいと願う、希望する、望む。
3.むきあう。相対する。

なかなかよろしいです。
もともと象形文字としても、背伸びした人が遠くを眺めている様が描かれているとのこと。

面白いのは、この望という字を重ねた望望もボウボウと読むこと。
そしてはじいる様とか、かっかりする様というけっこうネガティブな意味もあるが、半面、想い慕う様、切実に待ち望む様という意味もある。

これからは夢という言葉より、望という言葉をアレンジして使うようにしたいものです。

あなたの願いが叶いますように。