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稽古日誌

稽古日誌です。

心に自由を得るためにも脱力という概念は登場します。

そもそも心と脳は同じ物というのは苫米地理論を学んでいる人には今更のことですが、

これらは同じ物を別の抽象度で表現しているものです。

つまり身体と心は地続きのもので、片方に変化があればもう片方にも何らかの変化が起こるのです。

ストレスで胃に穴が開くというのは情報が物理に影響を与えたということです。

逆に憂鬱な人も筋トレやらジョギングをして血行をよくするだけですっきりしたりもします。

何か一つのことに心を奪われて他の事がスコトーマに隠れているようなときは、

気が付くと前のめりで姿勢が悪かったりすることも多いと思います。

そんな時は姿勢を正して深呼吸したりストレッチをするだけでも見えるものが変わってくるのです。

これは脱力が出来ておらず、その場に居ついてしまっているのです。

一つの考えから動けなくなってしまったら、まずは身体を動かしてみることです。

動かせるところを動かしていたら、いつの間にか全体が動けるようになっていますよ(^^)

ひたすら脱力をしていくというのは効果的ではありますし良いこともたくさんありますが、それだけだと役に立たないとも言えます。

脱力をして何をしたいかが問題です。

すなわちゴール設定。

柔術は脱力≒上達みたいな感じもあるのですが、そうじゃない分野もたくさんあります。(そして柔術にも脱力以外の要素もないわけではありません。)

より正確に言えば、脱力’だけ’力の抜き方’だけ’ではなく、力の入れ方が必要だったり、より最適なボディメイクが必要だったりということです。

そしてトップアスリートたちが当然のようにやっていることでもあります。(誤解を招くと思いますので補足しますがアスリートたちが脱力をしていないわけではありません。トップアスリートとなれば当然のように脱力もしています。ただスポーツの分野で筋力を肥大化させるより重点的に脱力を指導しているかと言われると疑問だとは思いますが)

脱力は基礎であり奥義でもあります。

そして進むべきゴールに向けての両輪の片方ということです。

あらゆるゴールに対しての片輪となるので脱力をしていくというのは効果的ですし応用も効きます。

しかしその脱力を活かせるかはすべてゴール設定次第ということです。

先週やはり脱力こそが基礎だという適当な話をしたが、脱力をしていくとはどういうことだろうか?

個人的な感覚でいうと、余計な常駐ソフトを削っていくような感覚だ。

WindowsXPをだましだまし使っていたころのことだが、どんどん重くなっていき、最後のほうは立ち上がりだけで15分ぐらいかかってとても仕事にならないということがよくあった。

なのでよくわからない使わない常駐ソフトをやら何やらを片っ端から起動しないようにして行きながら使っていたのだが、脱力とはそんな感じだ。

それなりに何十年か生きてきたなかで、余計な常駐ソフトがたくさん動いているのでそれを片っ端から切っていくということだ。

やっかいなのはバックグラウンドで勝手に動いているので何が動いてるかわからなかったりすること。

すごい効率が悪いけど無いと困るソフトは最新版にアップデートする必要とかもある。

まぁこのアップデートはメモリに空きが出来てからでもいいので、まずは余計なソフトを消していこう。

マルウェアまがいのソフトばっかりなのでこれらを全部消したらだいぶ余裕ができるだろう。