自分ルールと他人ルールの闘い | デザインは筋肉だ

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「この場面ではこうするべきでは」

「このルールは守るべきでは」

「その態度はおかしいのでは」

社会のルール、業界のルール、会社のルール、仕事のルール……色んな場面で軸にするルールを頭に思い浮かべ、その筋道に沿って物事を考えることで解決策へ向かう、として。

数あるルールを組み合わせて考えることは「視点が増える」ということ、として。

思考の筋道を示しても「それは知らない道だ。私はこっちの道を使っている」と、会話の筋から外れることもある。そこから平行線が始まる、として。

自分ルールを持っているということは、自分の思考回路……というより「思考経路」、「思考のよく通る道」があるということ。
タクシーに乗車して運転手に「あの道から行ってください。近道なので」と言って、「承知いたしました」と言われた、として。
時間短縮のためか、料金を安くするためか、運転スキルを疑われているのか、前の運転手が新人で遠回りになったか、発言の意図は運転手には伝わらないが、言われた方は多少モヤモヤするはず。もしかしたら運転手はその近道は当然知っていて、時間帯によっては混むから別の道を提案したいかもしれないけれど遠慮したかもしれない。

その「思考の近道」は、時間短縮のためなのか、お金のためなのか。

誰かの考えを取り入れられないということは、その近道を使い続けるということ。

もっといい道があるかもしれないのに、一度近かったからといって、他の道を探さない、試さない。

その近道、何年前から、十何年前から、何十年前から、使っている道だろうか。

誰かと平行線になってしまうのは、自分の道ばかり進んでいるからではないだろうか。

問題を解決するためには、お互いの考えが接する地点を見つける必要がある。

それは「始点」。

「終点(納得のいく着地点)」は異なっても、平行線の関係性だとしてもその始まりは、「始点(問題が起きた場所)」は、あったはず。

それは、互いがぶつかって始まった場所。
始点(原点)に立ち戻る。
どこかで平行線になった、どこかで大きく差が開いたポイントがある。
そこを特定することはきっと難しくはない。

「手を使ってはいけない」ルールは、「手以外は使ってもOK」とも取れる。ルールなんて解釈の仕方でどうとでも言える。最終的には、スポーツマンシップ。



自分と他人のルールをぶつけあっても、落とし所は見つかりにくい。
それは『思考を押し付け合う』だけで、ルールブックの改訂版を持ち出して「こっちが伝統的で正しい!」「こっちが最新アプデVer.だ!」と押し付け合う様子と同じ。

ルールを押し付け合う現代、いいじゃないか。心は傷つかないだろう?

心は、自分だけでは生まれない、他者(誰か)がいて生まれるもの。ぶつける相手がいて、ささげたい相手がいて、その人を思うことで生まれる、認識できる自分の心。拒否されて受け入れられて踏み躙られて大事にされて、感情の波にさらされて、角が取れて質感が変わって磨かれて割れて強くなって弱くなって、そうやって「自分の心」が形成される。誰も傷つかない世界では、心の形は同じになる。

心を押し付け合う現代になってもいいじゃないか。ルールは傷つかないだろう?