とっさに出る「すごいね!」
という言葉。
基本的に言われて
イヤな人はいないであろう
というテイで、
使いやすい言葉だ
とされている、気がする![]()
今はもはや化石なのかも
しれないけど、笑
いわく、相手(主に男性?)を
喜ばせるサシスセソなる、
サ さすが〜
シ 知らなかった〜
ス すごーい
セ センス良いね
ソ そうなんですね
というメンバーにいる
ところからも
「そういう位置づけ」なんだと思う。
だけど、ともすると、
嬉しくない(望まない)
コミュニケーション
につながる可能性がある
と思っていて
自分の口から
「すごいね!」が
発せられたとき、
もしくは思わず
「すごいね!」と
言いたくなったとき、
「なんで、わたしは
すごいという言葉に
分類したの?」
話しを続けながら
チェックするようにしている。
●相手の労をねぎらいたい。
●功績をたたえたい。
↑ これは順当な気がする。
旗が立つのは、
●自分には到底できないから。
これが背後にあるとき、
言葉選びを間違えたなぁと
自分に思う。
何かを下にみて、
その差異(開きの大きさ)を
もってして褒め称える
というのは
わたしが望む世界じゃない
からだ。
この表現じゃ
分かりづらいかもしれないけど
相対評価で
人を褒めるんじゃなくて
絶対評価で
その人やものを称賛したい
と思う。
子どもで考えてみてほしい。
「相対評価」で
いつも褒められて、
それを
安全・所属欲求から
強化させ続けてきた
心理パターンをもつ子は、
いつも
誰かに勝たなければ
誰かより優れなければ
存在価値がないと
思い込んでしまう。
わたしは別に、
相手の親でも子でもない
のだけど、笑
人と会話することは
必ず、おたがいを変形させる
ものだから
与える変形に
責任を持って言葉を
選んで放ちたいと思っている。
そのとき無責任に
考えなしに投げつける
のではなく、
引いてみたとき、
数年後の自分でも、
一致している言葉をいつも
選ぶようにしたい。
と、ずっと思って生きている。
そもそも、
●自分には到底できないから。
が「すごいね!」
だとしたら、
法律をおかす人たちや
社会で超えてはいけないと
されている一線を超える人たちも
●自分には到底できないから。
褒め称えることになってしまう。
だから、
●自分には到底できないから。
これが背後にあるときに
思わず「すごいね!」と出たら
ああ、頭が怠けて、テイのいい
言葉選びに逃げたなぁと
自分で感じるのだと思う。
書いていると、
なんだか息苦しいような
マインドセットだけど
嘘をつかない、
いつも本心を選りすぐろう
とする会話を心がけると
誰かと話すことは
どんどん楽になるのだ。
怖いものがなくなり、
いつも面白さや発見がある。
なにかを学ぶにつけ、
言葉がいかに重要なものか
を感じさせられる。
はじめに言葉があった。
というフレーズが
あるけれど、
子どものときは
「そんなに大したもんか?」
と弾いていたけれど、
人間を知るほど、本当だなと思う。
わたしは
“日本人である”
という自己認識を持っているが、
それは国籍があるから
日本に住んでいるから
ではなくて
日本語を使って
日本語で頭のなかを構成し
やることを仕分けして
行動に移していて
日本語をあやつる人たちと
会話しているから
わたしの世界は
「日本語」で出来ているから
じゃないのかなと思う。
まぁ、言語はなんでも
いいんだけど
(でも日本語は大好き。この素晴らしい小説、歌詞、漫画を母国語で味わえる喜び、感謝しかない
ありがとう日本語
)
いつも自分と、あるいは他者と
会話するために用いる「言葉」
それがちょっと
あまりにも無防備で、ぼーっと
無思考になっている人がいると
大丈夫なのか、、、
と(勝手に)ハラハラしてしまう。
世界をつくっている言葉選び、
自分の好みに
クリアーにしていきたいよね。![]()
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