★ジョ-・キアレッロ (vf) Jo Chiarello
本名マリア・コンセッタ・キアレッロ (Maria Concetta Chiarello)、1963年5月14日シチリア最大の都市であり州都のパレルモ (Palermo)生、1980年代、90年代の歌手。芸名ジョ・キアレッロ(Giò Chiarello)、キアレッロを使った時期もある。
元ストラーナ・ソチェタ (La Strana Società)、ヌオヴィ・アンジェリ(I Nuovi Angeli)のドラムス、ヴァレリオ・リボーニ (Valerio Liboni)は夫。
91年サンレモ音楽祭でサブリナ (Sabrina Salerno)と〝ふたりは女 (Siamo Donne)”をデュエットしたジョ-・スクィッロ (Jo Squillo)は別人。
活動期間:1981 – 1998年
所属レコード会社:Lupus, F1 Team, Disc Organization/ Babalú Records, Pipol , Yep, PKM, D.V. More
サンレモ音楽祭出品5回:1981参加、89年新人部門第2位
サンレモ音楽祭出品0曲:
アルバム:2 (スタジオ2);編集ベスト盤1
公式ホームページ:
1980年二十才以下を対象としたイタリアのミス・コン「ミス・ティーンエイジャー(Miss Teenager」に出場し17才で優勝しました。この時作詞家でプロデューサーのフランコ・カリファーノ(Franco Califano)が見出します。
フランコ・カリファーノは早速彼女を男に満足しない時「鞭打つような女」のアンナ・オクサ(Anna Oxa)を超えるパンクのイメージに仕立て上げ、翌81年のサンレモ音楽祭に出場させました。結果は参加曲止まりでした。
LUN-4916 (1981年 Lupus - Dischi Ricordi) Che Brutto Affare!/Io Ti Farò Impazzire
同時期に、彼女はトニーノ・プルチ(Tonino Pulci)監督、フランコ・カリファーノとアントネッラ・ステニ(Antonella Steni)主演の劇場コメディー「Non toccate Frankie & Tony」に出演しました。
82年(おそらくテレビの歌番組と思われる)「エスターテ・ディスコ(Estate Disco)」で発表された”In Bianco”がシングル盤として発売されました。
LUN-4929 (1982年 Lupus - Dischi Ricordi) In Bianco/Signorin
LUN-4949 (1983年 Lupus - Dischi Ricordi) Che Ora Sarà/E Intanto Stasera...
83年もう一枚シングル盤” Che Ora Sarà”を出しますが、カリファーノがプロデュースしようとする音楽性と意見が合わず望む成功を得られませんでした。余りにもミス・ティーンエイジャー優勝者のイメージにとらわれ、若者に受入れられる曲を目指し過ぎたのか敗因だったと思われます。
彼女は複数のレコード会社、複数のルックス、1つの音楽スタイルの変更を強いられることになります。
84年に移った新レコード会社はパナレコードのF1チーム・レーベルでした。会社自体は若者向けのディスコ音楽から出発しています。移籍第一弾の”Lei No”はテクノ・ポップ調といってよいのかもしれません。将来結婚するヴァレリオ・リボーニが曲を作っています。
P-7348 (1984年 F1 Team – Panarecord) Lei No/L'Ultimo Metro
P-7355 (1985年 F1 Team – Panarecord) Ma Io Vi Mollo E Vado Al Mare/Stai Con Me
移籍第二弾と言うか最後のシングル盤” Ma Io Vi Mollo E Vado Al Mare”は夏のヒット・シーズン向けのポップな曲調でした。プロデュースはリボーニがいています。
86年今度はイタロ・ディスコ・ミュージック専門レーベルに移籍して” Over Me”を出しました。
MD-31059 (1986年 Mr. Disc Organization – CGD Messaggerie Musicali) Over Me/Over Me (Instrumental Version) (pubblicato come Chiarello)
BBL-010 (1986年 Babalú Records – CGD Messaggerie Musicali) 12”Maxi Over Me/Over Me (Short Version)/Over Me (Instrumental Version)
87年ピポル(Pipol) という小さなレーベルと契約します。調べてみると82年から88年まで活動し、フルヴィア・フォルトゥナート(Flavia Fortunato)も一時所属していました。どうも作詞・作曲家のエリオプ(Eliop)のレーベルのようです。
彼は74年に設立されたばかりのイェップ(Yep)・レコードのプロデューサーで共同経営者でもあるエリオ・パスカーレ・パルンボ(Elio Pasquale Palumbo)その人です。
ジョ-・キアレッロは歌唱を変えます。声を張り上げるとデビュー当時からの甲高い高音ですが、落ち着いたバラード系の曲を歌う歌手に変身します。87年夏のディスク・フェスティヴァル新人の部に出場しました。
PNP-00668 (1987年 Pipol – Dischi Ricordi) Ma Che Bella Storia D'Amore/ l Futuro
YNP-00996 (1988年 Yep – Dischi Ricordi) Come Nasce Un Nuovo Amore/Poesie Di Un Attimo
88年ピポルが活動停止した事が原因を思いますが、親元の会社イェップに移籍し“Come Nasce Un Nuovo Amore”を出しました。
翌89年二度目のサンレモ音楽祭に出場を” Io E Il Cielo”というバラード曲を歌い新人部門第2位となる好成績を残しました。(9年目の再出場で新人部門というのも少々辛い気もしますが)
YNP-00997 (1989年 Yep – Dischi Ricordi) Io E Il Cielo/Come Nasce Un Nuovo Amore
YLP- 12 (1989年 Yep – Dischi Ricordi) Jo Chiarello – Io E Il Cielo
1.Fammi Toccare
2.Io E Il Cielo
3.In Viaggio Verso Te
4.Ma Che Bella Storia D'Amore
5.Come Nasce Un Nuovo Amore
6.Poesie Di Un Attimo
7.Il Futuro
8.Mezze Stagioni
サンレモ音楽祭二度目の出場で初めてのアルバム「Io E Il Cielo」が制作され、ピポルで出した2曲も収録されます。
このサンレモ音楽祭に出場以降4年間の空白期間があります。きっとヴァレリオ・リボーニとの結婚で休業期間に入ったのではないでしょうか。
93年シチリアのロックバンドをバックにCDアルバム「Prima Le Donne E I Bambini」を出しました。前年92年に同名のアフリカ医療支援チャリティーコンサートが催されたようで、その一環で制作されたのかもしれません。
復帰に当たっては芸名のジョー(Jo)をジョ(Giò)に変えています。
CDPKM-1 (1993年 PKM – Dischi Ricordi) CD Giò Chiarello – Prima Le Donne E I Bambini
1.Maria
2.Granelli Di Sabbia
3.Prima Le Donne E I Bambini
4.Il Frutto
5.Piangi
6.Maledetta
7.Mille Uomini
8.La Fonte Intelligente Delle Nostre Idee
9.Sono Ancora Io
10.Lo Scialle. Nuove Condizioni
CDDV-6204 (1998年年 D.V. More – D.V. More/Disco Più) CD Jo Chiarello
1.In Viaggio Verso di Te*
2.Ma Che Bella Storia D'amore
3.Il Futuro
4.Mezze Stagioni
5.Fammi Toccare
6.Io E Il Cielo
7.Ma Io Vi Mollo E Vado Al Mare
8.L'Ultima Metro
9.Lei è Stanca*
10.Non Mio Soltanto Tuo*
11.Nonostante Tutto*
12.Andiamo Via*
13.Stai Con Me
[*]未発表曲
5年後の98年、アーティスト復活ベスト盤業者DVモアからCDアルバム「Jo Chiarello」を出しました。未発表曲(新曲?)も含まれているので、過去の曲をもセルフ・カヴァーした新録音ではないかと思っています。
ジョ-・キアレッロの国内盤は有りません、ジョ-・キアレッロは以上です。
★ボビー・ソロ (vm) Bobby Solo
本名ロベルト サッティ、1945年3月18日ローマ生、自作自演歌手。
1980年代後半から90年代初めに、ロザンナ・フラテルロ(ROSANNA FRATELLO)、ボビー・ソロ(BOBY SOLO)とリトル・トニー(LITTLE TONY)の三人でロボット(RO.BO.T.)というユニットを組み、活動する。
所属レコード会社:Dischi Ricordi, CGD, EMI Italiana, Five Record, Pull, Sifare Edizioni Musicali
サンレモ音楽祭出場12回:1964年選考対象外、65年優勝、66年参加、67年参加、69年優勝、70年6位、72年参加、80年10位、81年入賞、82年入賞、84年12位、2003年16位(リトル・トニーとデュエット)
前年1980年、8年ぶりのサンレモ音楽祭に出場を果たしたボビー・ソロの歌った“ジェロシア”は入賞20曲中真ん中の実質10位、ジャンニ・モランディの“マリウ(Mariù)”は表彰の第三位に入りませんでしたが、入賞実質4位で大成功でした。
しかしサンレモ音楽祭の怖いところは、終わった後のレコード・セールス状況です。ボビー・ソロは80年年間ヒット・ランク43位となり、大ヒットと言える成績でしたが、モランディは年間ヒット・ランク100どころか週間ランキングにもランク・インもしない大惨敗に終わりました。
この余勢で81年サンレモ音楽祭に” Non Posso Perderti”で2年連続出場を果たします。日本でサンレモ音楽祭の年次コンピレーションが出なくなると、優勝するかレコードが発売されないと邦題が公表されなくなりました。
結果は入賞でも10位以下で実質順位も公表されませんでしたが、前年と同様いやそれ以上のレコード・セールスの結果となります。優勝曲アリーチェ(Alice)の”エリーザのために (Per Elisa)”が年間ヒット・ランク22位ですが、ボビー・ソロの入賞曲は39位になりました。
3C・006-18535 (1981年EMI - EMI Italiana) Non Posso Perderti/Attenti Al Cuore, Attenti A Lei ※ジャケット写真は顔写真画像をご参照
3C・064-18565 (1981年 EMI - EMI Italiana) Solo...Elvis
※このLPについて、現時点で存在確認ができません。イタリア版ウィキペディアのボビー・ソロ、EMIイタリアーナの項目にも掲載されていすが、ジャケット画像、トラックリストを確認できる資料がりません。ネット検索もこのレコード番号で的中しますが、何れもウィキペディアの引用と推定できるものばかりです。
アルバム・タイトル「Solo...Elvis」で存在するのは86年ファイヴレコード(Five Record)が出したFM-13565、同社が91年に出した再発盤FM・LP-20012のみです。
勢いに乗ったボビー・ソロは翌年82年のサンレモ音楽祭に3連続出場を果たします。
ボビー・ソロの国内盤(1981年)
K18P- 9114~5 (1981年10月21日 SEVEN SEAS - キング) 2LP 豪華決定盤カンツォーネ (CANZONE/DOUBLE GOLD SUPERDISC)
1-4.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)
1-8.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)
ボビー・ソロ11は1982年サンレモ音楽祭の後に続きます