7月6日にはラファエラ・カッラの訃報が入ってきていましたが、ファブリッツィオ・デ・アンドレの終りも見えてきていましたし、どう考えてもデ・アンドレの事を書いているブログにイタリアを代表するショウ・カールの訃報は似つかわしくないと思い、正式にラファエラの事を書くまで待とうと思っていました。

 

 訃報はもう1件7月27日に日本では70年サンレモ音楽祭で”恋は鳩のように(L'Amore è Una Colomba)”で初入賞、大阪万博で来日し日本語曲”傷あと”がひっとしたジャンニ・ナザーロ(Gianni Nazzaro)もローマでないくなりました。まだ誕生日が来ていないので72才でした。月の差こそあれ同年の方が無くなるとは寂しいことです。

 

お二人に心からお悔やみを申し上げます。

 

 さて前置きが長くなりましたがイタリア最高のショウ・ガール、ラファエラ・カッラを紹介していきます。彼女の名前の表記は色々ありますが、ラファエラ・カッラに統一いたします。

 

★ラファエラ・カッラ (vf) Raffaella Carrà

本名ラファエラ・マリア・ロベルタ・ペローニ(Raffaella Maria Roberta Pelloni) 1943年6月18日ボローニャ(Bologna)生、2021年7月5日ローマ没、歌手、ダンサー、女優、テレビ司会者、ラジオ、テレビ作家。

             

               PM-3546

 

活動期間:1969年– 2021年

所属レコード会社:RCA Italiana, CGD, CBS, Hispavox, Fonit Cetra Ricordi, X-Energy,DIY-Do It Yourself

サンレモ音楽祭出場0回

サンレモ音楽祭出品0曲

 

 

 農場を持つ裕福なエミリアーナ出身の父親と、シチリア起源のロマーニャ出身で祖母とカフェ・イントラレをと共に管理する母親ベラリアの間にラファエラ・マリア・ロベルタ・ペローニとして1943年6月18日ボローニャで生まれました。

 

 しかし両親は2年で離婚したためラファエラはは母のベラニアとボローニャで暮すこととなりました。

 

 8才の時当初は映画女優シルヴァーナ・マンガーノ(Silvana Mangano)も通ったロシアのダンサー、ジア・ルースカヤ(JiaRuskaja)が設立した国立ダンスアカデミーで踊りを習うためローマに引越しました。14才まで国立ダンスアカデミーで踊りを習い、その後撮影実験センターに移り映画の勉強をしました。

 

 ラファエラの映画出演は50年代初頭ローマに来てすぐに始まります。52年のマリオ・ボンナルド(Mario Bonnard)監督のメロ・ドラマ映画「Tormento Del Passato (過去の苦悩 :未公開)」に子役として初出演しました。

 

 撮影実験センターに通うようになった58~59年には更に3本の映画に本名のラファエラ・ペローニ(Raffaella Pelloni)で出演しました。58年グイド・マラテスタ(Guido Malatesta)監督のコメディ映画「Valeria Ragazza Poco Seria」、59年にはジョルジョ・ワルテル・キリ(Giorgio Walter Chili)監督の「Caterina Sforza, La Leonessa Di Romagna」、60年日本でも公開されたアレッサンドロ・ブラゼッティ(Alessandro Blasetti)監督の「ヨーロッパの夜 (Europa di notte)」に出演しています。

 

 60年代に入って毎年3本前後の映画に出演する女優になりました。

 

 60年にはフロレスターノ・ヴァンチーニ(Florestano Vancini)監督の「La Lunga Notte Del '43」、レオポルド・トリエステ(Leopoldo Trieste)監督作品「Il Peccato Degli Anni Verdi」、62年本邦公開されたグイド・マラテスタ(Guido Malatesta)監督の「復讐の血戦 (La Furia Dei Barbari)」に出演しました。また劇場にはフランコ・シルヴァ主演の(Franco Silva)「Un giallo Romano」に出演することが出来ました。

 

 61年以降の映画出演は日本で公開されたものだけを紹介します。

 

 61年アントニオ・レオンヴィオラ (Antonio Leonviola)監督の「片目の巨人 (Maciste Nella Terra Dei Ciclopi)」(本邦公開62年9月)、マリオ・マットリ(Mario Mattoli)監督の「100人のスカート作戦 (5 Marines Per 100 Ragazze)」(同63年)は英国帰りのロック・ン・ロール歌手リトル・トニー(Little Tony)が本格的に映画出演した作品でもあります。

 

JET-1328 (1964年1月 GLOBE - 日本ビクター) すてきなグラチア (GRAZIA)/スカート作戦の歌 (NON CE LA FARO) [リトル・トニー (LITTLE TONY)]

               JET-1328

 

 62年の映画出演する数は5本と一番多いですが、日本未公開です。その代わり放送の仕事が入ります。ラジオの街頭インタビュー番組をルチアーノ・リスポリ(Luciano Rispoli)に代わり“デン助”を肩に取材もしました。またTV番組の監督ステファノ・デ・ステファニ(Stefano De Stefani)はレリオ・ルッタッツィ(Lelio Luttazzi)の番組「Il Paroliere Questo Sconosciuto」のアシスタントとして彼女を抜擢します。

 

 ラファエラ・カッラの芸名に変えたのはダンテ・グアルダマーニャ(Dante Guardamagna)監督の助言でしたが、いつからかはよく判りません。

 

 63年2本の映画出演、本邦公開はマリオ・モニチェリ(Mario Monicelli)監督の「明日に生きる(I Compagni)」でした。ルッタッツィのTV番組を終え、新たに「Musica Hote」の出演が決まります。

 

 64年の映画出演は日本未公開2本、あらゆるジャンルの多くの監督の映画に出演しましたが、決定的な成功はありません。TV出演はドラマ・シリーズ「Vivere Insieme」の3月25日放送分”La Figlia Dell'Oca Bianca”に主演女優で、ナポレオン時代のドラマ「I Grandi Camaleonti」にも出演しました。 

 

 65年フランク・シナトラ主演のハリウッド映画「脱走特急(Von Ryan's Express)」に出演することが出来ました。またドメニコ・モドゥーニョ (Domenico Modugno)のTV番組「スカラムーシュ(Scaramouche)」にも出演します。

 

 66年3本の出演映画はいずれも日本未公開。日本でも放送されていたTV映画「アイ・スパイ」でイタリアを舞台とした”Sophia”編にソフィア役を演じました。またマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni)のミュージカル喜劇「Ciao, Rudy」に出演し、そのサントラ・レコードにラファエラの歌声が初めて残されます。

 

APML-10411 (1966年 RCA Italiana - RCA Italiana) Ciao, Rudy [Artisti Vari]

3.Gente Matta [Cantori Moderni di Alessandroni, Raffaella Carrà, Marcello Mastroianni]

6.Piaceva Alle Donne [Cantori Moderni di Alessandroni, Raffaella Carrà, Marcello Mastroianni, Virginia Minoprio, Angela Pagano, Paola Pitagora, Giusi Raspani Dandolo, Simona Sorlisi]

 

                      APML-10411

 

 この頃、プライベートでは8年間続いたユベントスのサッカー選手ジーノ・スタッキーニ(Gino Stacchini)との関係がしばしば週刊誌のゴシップ・ネタとして賑わしていました。

 

 67年映画出演はなく、専らTV映画やドラマに出演をしています。3月3日放送の小説家ルイジ・ピランデルロ(Luigi Pirandello)作「すべて前よりよし(Tutto Per Bene)」の2時間TVドラマに出演、9月2日放送のフランスの作家ルネ・ド・オバルディア(ルネ・ド・オバルディア)原作「Del Vento Fra I Rami Del Sassofrasso」をTVドラマ化、パメラ(Pamela)役で出演しました。音楽番組「Incontro con la New Vaudeville Band」にも出演。

 

 翌68年1月音楽特別番組「Tempo Di Samba」を任されました。RAIが6月29日に放送したディエゴ・ファブリ(Diego Fabbri)脚本「家族の裁判(Processo Di Famiglia)」に、更に特番「Vedettes d'America(アメリカのスターたちの意)」に出演しています。スイスのイタリア語放送のコメディ「Idillio Villereccio」にも出ています。

 

 69年ラジオにも進出します。RAIラジオ2の冠番組「Raffaella col Microfono a tracolla」を持ちます。前年同様スイスのイタリア語放送でチェコの劇作家ヨゼフ・トポル(Josef Topol)の「一時間の恋(Un'ora D'Amore)」に、12月16日年末2時間ドラマ「Il Sorriso Della Gioconda」にドリス・ミード役で出演しました。映画には3年ぶりにスペインのホセ・ルイス・メリノ(José Luis Merino)が監督した「第三帝国の陰謀を砕け!ヘル・コマンドー7 (7 Eroiche Carogne (Comando Al infierno)」に出ています。

 

 70年3月14日(土)~4月11日(土)の4回、TVのゴールデン・タイムで全国ネット・ヴァラエディ「Io, Agata e Tu” にラファエラが出演しました。“アガタ”はイタリア系フランス人歌手ニーノ・フェレール(Nino Ferrer)のヒット曲から取られています。勿論彼がホストで、その番組で歌って踊れてお喋り上手の才能が開花したラファエラの実力が認められました。

 

 大役に恵まれなかったラファエラでしたが、当時「イタリアの紅白歌合戦」と言われたカンツォニッシマの総合司会に抜擢されました。前年はジョニー・ドレルリ(Johnny Dorelli)前々年がミーナ(Mina)という超大物歌手が起用されています。しかも年間活躍した歌手が30~40人の人気歌手が歌の真剣勝負をするトーナメントは10月から始まり年明けのグランド・フィナーレまで毎週続く過酷なスケジュールで、彼女が出来るか心配されました。

 

 彼女のデビュー曲はなんとオープニング・テーマ”なんていうマエストロ”でした。この曲は71年年間ヒット・ランク22位の超大ヒットとなりました。

 

PM-3546 (1970 年10月 RCA Italiana - RCA Italiana) Ma Che Musica Maestro (なんていうマエストロ)/Non Ti Mettere Con Bill  ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照

 

 

 

ラファエラ・カッラ2は次回に続きます