★ヴァン・ウッド (g,vm) Van Wood

本名ピーター・ヴァン・ホーテン(Peter van Houten) 1927年9月19日オランダのハーグ(Hague)生、2010年3月10日ローマ没、オランダ系イタリア人ギタリスト、作曲家、歌手、俳優。

 

              VI・MQ-14009

 

活動期間:1946年 – 2010年

所属レコード会社:Pathé (V.C.M.), Vis Radio, Fonit, Philips, Durium, Edibi, Andromeda Records

サンレモ音楽祭出場0回

サンレモ音楽祭出品0曲

 

 ピーターはオランダのハーグに生まれ14才からギターを弾き始めました。公立音楽学校で学び、次第にジャズ・ギターに興味を持つようになります。

 

 その後、オランダ国内外で演奏するようになり、小さな楽団にに参加し1946年にはロンドンのパラジウム(Palladium)でも演奏をしています。

 

 欧州のエレキ・ギター奏者ではエコー(反響)やリバーブ(残響)などの音響効果をいち早く取り入れたギタリストの一人でした。

 47年から48年にかけてにパリのオリンピア劇場とニューヨークのカーネギーホールでもコンサートを開き世界中で演奏しました。

 

 49年にイタリアに定住しナポリでの一連の公演の後、レナート・カロゾーネ(Renato Carosone)、ドラムスのジェジェ・ディ・ジャコモ(Gegè Di Giacomo)とトリオ・カロゾーネ(Renato Carosone e Il Suo Trio) を結成し、フォニット(Fonit)のオーディションを受けましたが採用されず、セルジョ・ブルーニ(Sergio Bruni)の紹介もあり50年V.C.M.のパテ・レーベルと契約が出来、“スカリナテッラ”と“おおスザンナ”でデビュー、様々なレコードを出しました。

 

 レナート・カロゾーネは20年ナポリ生まれでピアニスト、歌手、バンド・マスターです。また4才下で北部出身のマリノ・マリーニ(Marino Marini)もピアニスト、歌手、バンド・マスターで二人とも戦後イタリアの世界的ヒット曲を出し、北のマリーニ、南のカロゾーネと言われていました。レナート・カロゾーネは89年に69才でサンレモ音楽祭初出場を果たしていますので、その時に紹介いたしましょう。

 

 ジェジェ・ディ・ジャコモ(Gegè Di Giacomo)は初期のレナート・カロゾーネの国内盤でソロ歌手としてもクレジットされていますので、次回の最後に紹介いたします。ヴァン・ウッドの方は国内盤ではクレジットされていません。

 

 デビュー曲“スカリナテッラ”と“おおスザンナ”はヒットし、ローマの有名なナイト・クラブにも出演できるようになります。

 

MG- 13 (1951年1月 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Scalinatella (スカリナテッラ)/ Oh! Susanna (おおスザンナ)

MG- 13  MG- 14

MG- 14 (1951年1月 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Quizas, Quizas, Quizas (キサス・キサス・キサス)/L'Horloge De Grand' Mere

 

MG- 17 (1951年1月 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Anema E Core (アネマ・エ・コーレ)/

MG- 17 MG- 24

MG- 24 (1951年 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Your Eyes/Music, Music, Music

 

MG- 25 (1951年 Pathé – V.C.M.) 25cm SP J'Attendrai (待ちましょう)/Tabù (タブー)

MG- 25 MG- 26

MG- 26 (1951年 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Harry Lime Theme (第三の男)/La Samba Del Pensamento

 

MG- 27 (1951年11月 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Sir, That's My Baby (Lola) (イエス・サー・ザッツ・マイ・ベビー)/Oh! What A Night

MG- 27 MG- 72 

MG- 72 (1951年 Pathé – V.C.M.) 25cm SP 'O Ciucciariello (お聞きよ、ロバ公)/Luna Rossa (ルナ・ロッサ)

 

MG- 85 (1952年 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Vecchia America (なつかしのアメリカ)/Quante Lune!

MG- 85 MG- 86

MG- 86 (1952年 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Abbasso Il Contrabbasso/Tumba La Samba

 

MG- 99 (1952年 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Sulla Slitta/'Nu Quarto 'e Luna (三日月)

MG- 99 MG-102

MG-102 (1952年3月 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Oh! Susanna (おおスザンナ)/ Scalinatella (スカリナテッラ)

 

MG-103 (1952年3月 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Malaguena (マラゲーニャ)/Noche De Ronda (ノーチェ・デ・ロンダ)

MG-103  MG-113

MG-113 (1952年 Pathé – V.C.M.) 25cm SP T'Aamo, T'Aamo T'Aamo /Le Piconero

                 

MG-156 (1952年3月 Pathé – V.C.M.) 25cm SP Yes Sir, That's My Baby (Lola) (イエス・サー・ザッツ・マイ・ベビー)/Music, Music, Music ! [Lead Vocals – Van Wood]

MG-156  MG-157 

MG-157 (1952年Pathé – V.C.M.) 25cm SP Tre Numeri Al Lotto (I Pappagalli) (三本の富籤)/Oh! Susanna (おおスザンナ)

 

 52年ヴァン・ウッドはニューヨークに行ってソロ活動をするためトリオ・カトゾーネを脱退しました。多分最後のレコードの曲“三本の富籤”をフォニット移籍後、55年にヴァン・ウッド・クァルテットで出したところ、55年年間ヒット・ランク69位の大ヒットになります。

 

 翌53年イタリアに戻り、48年に設立されたばかりでナポリの本社があるヴィス・ラディオ(Vis Radio)と契約しました。このレコード会社には49年に移籍したばかりのクラウディオ・ビルラ(Claudio Villa)が所属しており、ビルラは55年サンレモ音楽祭にヴィス・ラディオから出場し“悲しみよ今日は (Buongiorno tristezza)”が優勝、“急流 (Il torrente)”が2位になり、当時新興レーベルながら非常に重要なレコード会社の一つでした。

 

 この53年から54年に所属していたヴィス・ラディオの時代の事はディスコグスのディスコグラフィーぐらいしか見つかりませんでしたが、レーベルのクレジットはヴァン・ウッド・クァルテット(Van Wood Quartet)となっているので、ウィキペッディアに書かれているようにフォニットと契約するためにバンドを組んだわけではなさそうです。しかしバンドのメンバーの名前は判っておりません。