エミー・チェサローニ (vf) Emy Cesaroni
本名エミ・チェサローニ(EmiCesaroni) 1952415日ローマの北50kmにある山中の小都市テルニ(Tern) 生、歌手、女優。
 
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活動期間1968– 1979
レコード会社Style,Kansas, OSI Records
サンレモ音楽祭出場1:1975年参加
 
 
 1968年サンレモの北東20kmにあるリビエラ海岸の小さな町アラッシオ(Alassio)で開かれた新人コンテストに出場し、好成績(優勝はアダ・モーリ(AdaMori))を収めました。これがエミ・チェサローニのデビューでした。
 
 この新人コンテストの結果、チェログラフのスタイル・レーベルと契約ができ、69年“FumoNero”でレコード・デビューします。
 
STMS-691(1969 Style - Cellograf) Fumo Nero/10 Luglio, Lunedi
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STMS-705(1969 Style - Cellograf) Scendo Giù/Uragano
 
 69年ヴェネツィア国際音楽祭銀のゴンドラ(新人部門)に“Uragano”で出場し、サンレモ音楽祭の司会者もするピッポ・バウド(PippoBaudo)が司会するTVショー番組「セッテ・ヴォーチ(SetteVoci)」の番組テーマを歌う幸運もつかみました。
 
STMS-709(1969 Style - Cellograf) Sette Giorni [TV"SetteVoci"]/Ragazzo Di Pietra
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STMS-719(1970 Style - Cellograf) Gira,Gira Bambolina/Dolce
 
 70年“Gira,GiraBambolina”を出し好調に見えましたが、71年の“Amore Mio Dove Sei?”はジャケット画像が見つかりません。何があったのでしょう?スタイルでこれが最後になり、消息が途絶えます。
 
STMS-744 (1971 Style - Cellograf) Amore Mio DoveSei?/Buonumore
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DM-1168 (1974 Kansas – Dischi Ricordi) Che Cosa Siamo Noi/AdessoTocca A Me
 
 久々に74年カンサスから“CheCosa Siamo Noi”が出ました。75年サンレモ音楽祭に“1975 アモ-レ・ミオ”で出場が決まりますが、レコードは救済措置のOSIからレコードが出ます。
 
OSI-0002(19752 OSI – CBS Sugar) 1975... Amore Mio (1975アモレ・ミオ)/Momenti
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AG-20(19Army ‎–) Dondolando Fra Le Stelle/Un Ragazzo Un Po' Svogliato
 
 アーミーから不明のシングルを出しています。これが彼女の最後の盤と思われます。
 
 
エミー・チェサローニの国内盤はありません、以上です。
 
 
 
★エヴァ2000 (comp) Eva 2000
1973年にミラノとパルマの間にある中都市パルマ(Parma)で結成された男女混成5人のバンド。マルコ・ランカーティは解散後ソロ歌手として85年サンレモ音楽祭新人の部に出場しました。
                               
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活動期間1973– 75年、2011(復活祭結成)
レコード会社Cetra
サンレモ音楽祭出場1:1975年参加、85年新人の部5位 (ソロ歌手マルコ・ランカーティとして)
 
 
サンレモ音楽祭出場時のメンバー構成
・テレサ・ゴルラ(TeresaGorla) ヴォーカル
・ラウラ・マンフレディ (Laura Manfredi) ギター
・マルコ・ランカーティ(Marco Rancati) ヴォーカル 1957316日ミラノの南東20kmにある中都市ピアチェンツァ(Piacenza)
・フランカ・ベナッティ (Franca Benatti) ベース
・ジョルジョ・バッサネッティ (Giorgio Bassanetti) ドラムス 1937年生、200177日クレモナ没
 
  1973年パルマで結成された時は女性バンドでしたが、メイン・ヴォーカルとドラムスの男性を加えた混成5人のバンドになりました。56年サンレモ音楽祭で総指揮者にもなったジャンニ・ステッラーリ(GianStellari)がプロデューサーに就きました。
 
 彼らのデビューはチェトラから発売された74年夏のディスク・フェスティヴァル出場曲“HotelMiramare”のシングル盤でした。54曲が参加し、半分に絞り込まれる予選敗退でした。
 
SP-1549(1974 Cetra ‎– Fonit Cetra) Hotel Miramare/Un GiornoD'Amore Vale Una Vita
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SP-1562(1974 Cetra ‎– Fonit Cetra) Io Sono Lei/I Ricordi SonoBlu
 
 2枚目のシングル盤は“IoSono Lei”が発売されます。ヒット曲が出ていませんが、ファースト・アルバムがステッラーリのプロデュースで作られます。4,5,9、10曲目がカルディフの作、それ以外はステッラーリとジェローザ(Gerosa)、ロブスキ(Robuschi)3人の共作でした。
 
LPP- 237 (1974 Cetra ‎– Fonit Cetra) Eva2000 ‎– Noi... Per Esistere
.EriBambino
.CasaPopolare
.UnGiorno D'Amore Vale Una Vita
.UnaSera
.WhiskyAnd Love
.FioriPer Un'Amica
.ComeUna Statua
.IoSono Lei
.FioriDi Pietra
10.Un'AltraEtà
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SP-1577(1975 Cetra ‎– Fonit Cetra) In Amore Non Si Può Mentire (愛のためでも)/Casa Popolare
 
 75年サンレモ音楽祭に“愛のためでも”で出場しましたが入賞出来ませんでした。イタリアのあるブログVERSO LA STRATOSFERAでは82年に解散したとなっていますが、マルコ・ランカーティのソロ歌手活動を見ていると、サンレモ音楽祭後の75年にエヴァ2000は解散したと考える方が妥当のようです。
 
 2011年復活祭結成しているようですが、何の情報も得られませんでした。エヴァ2000解散以降で消息が分かっているのは男性2人だけです。
 ひとりはドラムスのジョルジョ・バッサネッティ (Giorgio Bassanetti)、元々ジャズ・ドラマーだったようで、元に戻りジャズの道を歩き3年間白血病と戦い2001年7月7日クレモナで亡くなりました。
 
 もうひとりが男性ヴォーカルのマルコ・ランカーティ(Marco Rancati)で、ソロ歌手となり色々芸名に替えながら、85年サンレモ音楽祭新人の部に出場し5位になりました。ここからはマルコ・ランカーティのことを書き進めましょう。
 
★マルコ・ランカーティ(vm) Marco Rancati
1957316日ミラノの南東20kmにある中都市ピアチェンツァ(Piacenza)生、歌手。
マルコ・ランカーティはエヴァ2000の解散後、ソロ歌手として芸名を替えながら85年サンレモ音楽祭新人の部に出場しました。本名の他にダニエル・ダニエリ(Daniel Danieli)、ランカーティ(Rankati)、マーク・ランカーティ(Mark Rancati)などを使いました。
 
活動期間1973– 75(エヴァ2000)79現在(ソロ歌手)
レコード会社Cetra (エヴァ2000)AtlasCGDCBSManyMemoryOutPomodoro Studio
サンレモ音楽祭出場2回:1975年参加 (エヴァ2000のメンバーとして)、85年新人の部5位(ソロ歌手マルコ・ランカーティとして)
 
 
 1975年にエヴァ2000が解散し、マルコ・ランカーティの消息は約3年間途絶えます。彼の名前は78年アトラス(Atlas)からダニエル・ダニエリ・アンサンブル(DanielDanieli Ensemble)名でシングル盤“Honey For Bears が出るまでありませんでした。
A面はアルバム・タイトル曲でジェノヴァ派カンタウトゥーリの後ろ盾、作曲家のG..レヴェルベリ、ジェノヴァ生まれのサキソフォン奏者のジャンニ・オデイ(Gianni Oddi)にイギリスのマイケル・フレイザー(Michael Fraser)が作った曲です。B面はアメリカのビーチボーイズ(TheBeach Boys)のヒット曲“グッド・バイブレーション”でした。
 
5910AT-088 (1978 Atlas - PolyGram) Honey ForBears / Good Vibrations (グッド・バイブレーション) (comeDaniel Danieli Ensemble)
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5920-778 (1978Atlas - PolyGram) Daniel Danieli ‎– Honey For Bears
.Good Vibrations (グッド・バイブレーション)
.Be Bop A Lula (ビー・バップ・ア・ルーラ)
.Jail House Rock(Jailhouse Rock) (監獄ロック)
.Monday Monday (マンデー・マンデー)
.Satisfaction (サティスファクション)
.Locomotion (The Loco-Motion)(ロコモーション)
.Hard Day's Night (A HardDay's Night) (ア・ハード・デイズ・ナイト)
.Honey For Bears
 
 78年ジャン・フランコ・レヴェルベリ(Gian FrancoReverberi)のプロデュースで英米のロック・ン・ロールとロックの名曲をカヴァーしたアルバムをアトラスから出し、シングル・カットもしました。
 
 79年のカストロカーロ新人コンテスト(Il Concorsoper Voci Nuove o Festival di Castrocaro)に出場し優勝しました(この年は4人の名前が挙がっていました)
 2枚目のシングル両面ともG..レヴェルベリ、ジェノヴァ生まれでヌオーヴァ・イデア(Nuova Idea)のギタリスト、マルコ・ゾッケッドゥ(MarcoZoccheddu)に“Honey For Bears”を書いたイギリスのマイケル・フレイザーがクレジットされています。
 
5910AT-107 (197911Atlas - PolyGram) It's Never Too Late/Heart Of Stone (come Daniel Danieli)
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5910AT-107 (1980 Atlas - PolyGram) Ciao, ComeStai?/Lei, Lei (come Daniel Danieli)
 
 80年同じレコード番号を使って別のシングル盤が発売されています。イタリアでは時々こういうことが起こっているので要注意です。
 
 “Freddo Diamante”はプログレ・バンド、カヤック(Kayak)のドラマー、オランダ人のピム・クープマン(Pim Koopman)とカルロ・ザヴァリア(CarloZavaglia)の作、レベルべりのお陰かもしれませんが多彩なライターの曲を歌っています。
 
5910AT-114 (198012Atlas - PolyGram) Freddo Diamante/Tu Violenza (come Daniel Danieli)
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5910AT-119 (1983 Atlas - WEA Italiana S.p.A.)Ok ok/Sei Tutto Quello Che Vorrei (come Daniel Danieli)
 
 83年のシングルは両面ロック・ン・ロール調の曲、B面の“SeiTutto Quello Che Vorrei”はダニエル・ダニエリ名の自作曲です。アトラスのディストリビューションはポリクラムからWAEイタリアーナに変わっています。この盤がアトラスで最後のシングルとなり、84年にCGDに移籍しています。
 
 
エヴァ 2000の国内盤はありません、
マルコ・ランカーティ 2は1985年サンレモ音楽祭の後に続きます