★リオネッロ (vm)Lionello
本名フランコ・リオネッロ(Franco Lionello)1946年1月2日ミラノ生、1988年没 、歌手。

活動期間:1966-1976
所属レコード会社:SaintMartin, Style, Arcobaleno, Ariston
サンレモ音楽祭出場1回:1973年入賞
1966年フランコ・リオネッロは前年に出来たのサン・マルタン・レコードから、芸名をリオネッロとして“Amore Pensami”デビューしました。
まもなく2月から始まったサンレモ音楽祭司会者でもあるピッポ・バウド(Pippo Baudo)のTVヴァレエティ番組「セッテ・ヴォーチェ(Settevoci)」の新人歌手勝抜きコンテストで一躍有名になります。
67年スイスのイタリア語圏で行われるチューリッヒ音楽祭に“Non HaiPieta/Se Ognuno Di Noi”で出場しました。その時の優勝者がロリータでした。
CAT-1011(1966年 Saint Martin Record) Amore Pensami/Vai Se Lo CrediVai
CAT-1011
CAT-1022
CAT-1022
CAT-1022(1967年 Saint Martin Record) Non Hai Pieta/Se Ognuno Di Noi
リオネッロは68年“FinchéIl Ricordo Vivrà”を出した後デビューしたサン・マルタンを去りました。
CAT-1027(1968年 Saint Martin Record) Finché Il Ricordo Vivrà/Il TuoCarattere
CAT-1027
STMS-699
STMS-699
STMS-699(1969年 Style - Cellograf) Gelosia (ジェラシー)/LaNotte Finirà
移籍したのは、チェログラフのスタイル・レーベルでした。ここは中小レコード会社の中でもサン・マルタより歴史は古く、ジョン・フォスター(JohnFoster)が世界的ヒットの“アモーレ・スクーザミ(AMORE SCUSAMI)”を出した規模も大きな会社です。 移籍第1弾はコンチネンタル・タンゴのスタンダード曲“ジェラシー”のカヴァーでした。
70年次に出した“IlTà Tà Tà”は年間ヒット・ランクには入りませんでしたが、彼のファンの間では好評な曲だったようです。当時沢山の歌手がそうであったように、所謂「第二、第三のジャンニ・モランディ」で、曲も歌い方も同系でした。しかし本物を勝る歌手とはな成れませんでした。
STMS-712(1970年 Style - Cellograf) Il Tà Tà Tà/ Fino A Quando?
STMS-712
STMS-718
STMS-718
STMS-718(1970年 Style - Cellograf) La Notte Finirà /Fino A Quando?
スロー・バラードの移籍第1弾B面曲“La Notte Finirà”は好評で、第2弾の2面“Fino AQuando?”とB面同士のカップリングで再発売されます。
リオネッロは一生一度の映画出演、しかも準主役級でした。マリアーノ・ラウレンティ監督、フランコ・フランキ、チッチョ・イングラッシア主演喜の劇映画「二人のボールの魔術師」(仮Idue maghi del pallone 本邦未公開)」。役どころはサッカー・チームのエース・ストライカー、トニーノです。




映画音楽はブルーノ・ニコライですが、リオネッロの歌った挿入歌“PrimiGiorni Di Settembre”はブルーノ・ラウツィ作詞、ジーノ・メスコリ作曲でした。しかもこの歌で年末のカンツォニッシマに出場出来ることになりました。
70年のカンツォニッシマはグループ戦でしたリオネッロは第1回戦3組に入り、メンバーはマッシーモ・ラニエリ、ダリダ、ミケーレ、クラウディオ・ビルラ、ウィルマ・ゴイクでした。その内2名が脱落、第2回戦には4人が進みます。ここで彼とウィルが・ゴイクが敗退しました。
STMS-720(1970年 Style - Cellograf) Primi Giorni Di Settembre/AQuesto Mondo Esisto Anch'Io
STMS-720
STMS-743
STMS-743
STMS-743(1971年 Style - Cellograf) Quinta Stagione/Ti Mando UnFiore Ti Mando Il Cuore
翌71年には夏のディスクに“QuintaStagione”で出場しましたが決選には進めません。プーも“五番目の季節(Quinta Stagione)”と言う曲がありますが、同名異曲。彼の曲はヴィト・パラヴィッチーニ作詞、ジーノ・メスコリ作曲です。
不幸なことにスタイルが業績不振で閉鎖となり、リオネッロは本当にマイナーのアルコバレーノに移籍します。移籍後の曲はロベルト・ヴェッキオーニ(RobertoVecchioni)の書いた“Ajace”でした。
ARC・NP-2072 (1972年10月Arcobaleno – Dischi Ricordi) Ajace/La Nostra Età
ARC・NP-2072
ARC・NP-2076
ARC・NP-2076
ARC・NP-2076 (1973年Arcobaleno– Dischi Ricordi) Straniera Straniera (異国の女)/La NostraEtà
リオネッロの最後の幸運は73年サンレモ音楽祭に出場し、歌った“異国の女”が15位入賞したことでした。
75年アリストンに移籍、本名フランコ・リオネッロで最後のレコードを出します。確認できませんが、“君だけの世界”と“ダイアナ”のカヴァーかもしれません。
AR-00711(1975年 Ariston - Ariston Records,) Nessuno Al Mondo/Diana
AR-00711
88年に重大な病気で亡くなりました。76年から88年までの消息不明だったことが謎として残されました。
★カルメン・アマ-ト (vf) Carmen Amato
1956年8月29日チュニジアのチュニス(Tunisi)生、歌手。

活動期間:1973-1989
所属レコード会社:Rare
サンレモ音楽祭出場1回:1973年参加
プロのセッション音楽家の娘、彼女は新人コンテストに出場し、デット・マリーノ(DettoMariano)見出されました。1973年サンレモ音楽祭に出場しましたが、参加曲に終わります。
その後はバック・コーラスの一員として歌を続け、歌手でバンドリーダーだったリッカルド・ザラ(RiccardoZara)がアニメ・ソング・ライターとなって作った数多くのアニメ主題歌のレコーディングにも関わりました。
RAR・NP-77587(1973年 Rare – SIF) Dove andrai (消え去った青い空)/Alzagli occhi, sono qui
RAR・NP-77587
★ロリ-タ (vf)Lolita
本名グラッツィエラ・フランキーニ(GraziellaFranchini) 1950年1月5日ヴェローナとフェラーラの間のベテト平野にある小さな町カスタニャーロ(Castagnaro)生、1986年4月27日長靴の甲に当る部分にある小都市ラメーツィア・テルメ(Lamezia Terme) 没、歌手。

活動期間:1966-86年
所属レコード会社:Magic, Escalation, CAR Juke Box, Shoking, Philips、Idea
サンレモ音楽祭出場1回:1973年参加
1965年、僅かで15才でミラノ北部郊外ボッラーテ(Bollate)のショーに出ていたグラッツィエラは、ナポリの巨匠フランコ・キャラヴァッレ(FrancoChiaravalle)によって発見されます。
そしてナポリ音楽祭出場歌手でもあるプルデューサーのマラ・デル・リオ(Mara Del Rio)に紹介され、彼女と歌手パオロ・モスカ(PaoloMosca)が興した小さなレコード会社ロード(Lord)にマジック・レーベルを作り、彼女と契約をしました。
彼女の若くて奔放な美しさから芸名をロリータとし、第二、第三のリタ・パヴォーネとして売出します。デビュー曲は声も唱法もパヴォーネそっくりでした。
MC-004(1966年 Magic - Lord) Matusalemme/La Prima Barba
MC-004
MC-006
MC-006
MC-006(1967年 Magic – Lord) La Mia Vita Non Ha Domani /Notte Giovane
67年チューリッヒ音楽祭で“LaMia Vita Non Ha Domani”を歌い優勝します。
68年エスカレーションに移籍、ルガーノ音楽祭で懐メロ“コメ・レ・ローゼ”をリメイクしヒットさせます。
EN-001(1968年 Escalation – Clan Celentano) Come Le Rose (コメ・レ・ローゼ)/W L'Estate
EN-001
CRJ・NP-1048
CRJ・NP-1048
CRJ・NP-1048 (1969年 CAR Juke Box - Ariston)L'Ultimo Ballo D'Estate/Pensiero
翌69年CARジューク・ボックスに移籍、夏にディスクに出場、続いてナポリ音楽祭に出場“トウ”を歌い4位入賞の好成績です。
CRJ・NP-1051 (1969年 CAR Juke Box - Ariston) Tu(トウ)/Songo 'e nato
CRJ・NP-1051
CRJ・NP-1059
CRJ・NP-1059
CRJ・NP-1059 (1969年 CAR Juke Box - Ariston)L'Onda Verde/Giovedì, Venerdì
絶唱型をやめ、ウィンナ・ワルツを使った“L'OndaVerde”は好評でしたが停滞期に入りました。
70年フォノグラムに移籍、ナポリの名曲“君に告げて”をカヴァーします。
6025-016(1970年 Philips - Phonogram) Dicitencello vuje (君に告げて) [festival di Pesaro 1971]/Notte Chiara Notte Blu (F. De Paolis & F.Chiaravalle)
6025-016
SKLR-10・001
SKLR-10・001
SKLR-10・001 (1970年 Shoking - Phonogram) CircoloChiuso/Malinconia Malinconia
ショッキングから夏のディスクに70、71年と連続出場しました。
SKLR-10・002 (1971年 Shoking - Phonogram) Io StoSoffrendo /Il Primo Amore
SKLR-10・002
CRJ・NP-1087
CRJ・NP-1087
CRJ・NP-1087 (1973年 CAR Juke Box – DischiRicordi) Innamorata io? (恋してるって私が?)/Situazione
73年CARジューク・ボックスに戻り、サンレモ音楽祭に出場、大舞台で歌ったのはこれが最後でした。表舞台から去り、地方のクラブ歌手となります。
84年久々にディスコ調の“SeiLa Felicità”でレコードを出します。後が期待されました。
LR-76001(1984年Idea - ?) Sei La Felicità/AmicoMio
LR-76001
故郷に似た南部のラメーツィア・テルメに移り住み、そこで地元の医者と不倫に陥ります。86年4月27日ナイフで殺傷されました。容疑者は証拠不十分で無罪、事件は迷宮入りとなります。
10年経て2枚のCDが発売されました。2枚目は未発表7曲が入ります。
8014406606768(1996年11月 DVMore - DV More) Lolita – Il Meglio [8014406606768]
1.ComeLe Rose (コメ・レ・ローゼ)
2.L'OndaVerde
3.LaMia Vita Non Ha Domani
4.NotteGiovane
5.Giovedi'Venerdi'
6.InnamoratoIo (恋してるって私が?)
7.Situazione
8.L'UltimoBallo D'Estate
8014406606768
52・OSM-030
52・OSM-030
52・OSM-030(1998年2月 OnSale Music - On Sale Music) Lolita
1.PensieroMio
2..ComeLe Rose (コメ・レ・ローゼ)
3.L'UltimoBallo D'Estate
4.LaMia Vita Non Ha Domani
5.WL'Estate
6.ImpariamL'Americano *
7.HoAperto Gli Occhi *
8.Matusalemme
9.NotteGiovane
10.Innamorata...Io!(恋してるって私が?)
11.LaPrima Barba
12.CosaMe Ne Faccio Delle Rose *
13.IlMio Domani Nelle Tue Mani *
14.Calamita*
15.Mannaggia*
16Zucchero (恋のズッケロ) *
*未発表曲
リオネッロ、カルメン・アマート、ロリータ、 の国内盤
MW-2068 (1973年6月 RICORDI- ポリドール) 30cmLPサンレモ1973 (SAN REMO 1973)
3.異国の女 (STRANIERA STRANIERA) リオネッロ
4.消え去った青い空 (DOVEANDRAI) カルメン・アマート
11.恋してるって私が? (INNAMORATA IO) ロリータ
MW-2068
リオネッロ、カルメン・アマート、ロリータは以上です。