第23回の出場候補曲は225曲の応募がありました。1曲1歌手制になったため、予め歌手たちが歌いたい曲を決め応募しております。内訳は男性歌手111人、女性歌手76人、バンド38グループでした。
 
 応募曲を職業の違う25人(ジャーナリスト5、俳優4、労働者3、会社員3、音楽家3にRAI、省庁、市町村の関係者)の選考委員が検討をします。その過程は透明性を確保するため、ジャーナリストや出版関係者の傍聴を認めました。30曲を選出し、サンレモ音楽祭出場資格与えたコンテストの勝者2人(ジルダ・ジュリアーニとアルベルト・フェーリ)の曲を加えた32曲を出場曲とします。
 
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     ロベルト・ヴェッキオ- (DUCALE)          ロリータ (CAR JUKEBOX)
 
 
 
第23回 1973年3月8日()~10日() サンレモ市カジノ付属劇場

司会:マイク・ボンジョルノ (Mike Bongiorno)、ガブリエッラ・フェリノン (GabriellaFarinon)
楽団指揮: 16名の指揮者で演奏された。

オーガナイザー:サンレモ観光協会(Comune diSanremo)とヴィトリオ・サルヴェッティ(Vittorio Salvetti)、芸術助監督ブルーノ・パルレージ(BrunoPallesi
形式:出場曲数30曲を第1夜、第2夜に15曲を歌い、各夜の中から7曲の入賞曲を選出し最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から16位までの入賞曲を発表する。

 
 
[]は外人歌手数
RICORDI [] (RICORDI []); ARCOBALENO [], SIF [] CAR JUKE BOX[])
FONIT CETRA 7[]FONIT CETRA 4[]CAROSELLO 1[] KING UNIVERSAL[] DUCALE[]
PHONOGRAM [] (POLYDOR [] PHILIPS[] SIDET[])
CBS SUGAR [] CGD []CBS [] SPLASH[]
ARISTON []
DURIUM []
SAINT MARTIN 1[]
 
 
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         モセダデス (NUVOLA/ZAFIRO)         トニ・サンタガータ (CETRA)
 
 新人コンテストの勝者アルベルト・フェーリ以外のRCAイタリアーナの歌手たちが不参加になった理由は、レコード会社側が出場を辞退したのではなく、主催者側が参加を認めませんでした。
 
 出場予定歌手は “Un’Auto targata TO”のルーチョ・ダッラ(LucioDalla)、“Ventocaldo”のイヴァノ・フォッサーティ(IvanoFossati)、それにアントネッロ・ヴェンディッティ(Antonello Venditti)の名前が挙がっていました。RCAイタリアーナの親会社アメリカRCAは軍事用電子製品を生産し、ヴェトナム戦争加担企業であることを理由に出場を認めませんでした。
 
 この年から視聴者の投票はユニバック(Univac)の投票システムが採用され、審査員の投票は今までの、1票の投票方式や持ち点投票様式でなく、全ての曲を聞いた後に予め用意された10パターンの内、自分が一番良いと思う1パターンを選ぶ方式に変わりました。
 
 
              
  <参加曲>
◆エリーザ・エリーザ Elisa Elisa S.Bardotti- S.Endrigo) 出版社 USIGNOLO セルジョ・エンドリゴ (vm) Sergio Endrigo CETRA – FONIT CETRASP-1506 [45]
 
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恋してるって私が Innamorata io? Al.Celentano - Chiaravalle出版社 TELCAR – LUISIANA ロリ (vf) Lolita CAR JUKE BOX – DISCHI RICORDICRJNP-1087 [45]
 
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ふしぎな気持 Mistero C.Mattone出版社 APRIL Mus. RCAジリオラ・チンクェッティ (vf) Gigliola Cinquetti CGD – CBS Sugar1306(CGD) [45]
 
 
僕の世界 Mondo mio G.Conte - M.Conte出版社 R.R.R. クリスチャン・デ・シ (vm) ChristianDe Sica RICORDI – DISCHI RICORDISRL-10689 [45]
 
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毎回思われる Ogni volta che mi pare F.Evangelisti - M.Politano' - P.Pintucci出版社 RCA - ITアルベルト・フェ- (vm) AlbertoFeri RCA ITALIANA – RCAITALIANAPM-3699 [45]
 
 
◆哀れな男 (明日に生きる) Povero L.Medini - M.Mellier出版社 SIDETジュニア・マッリ (vm) JuniorMagli Las VegasSIDET– PHONOGRAMLVS-1063 [45]
 
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◆スリ・スリ・バーネ・バーネ Sugli sugli bane bane A.M.Piccioli - P.Tomellieri出版社 TELCAR - LUISIANA 風の娘達 (coro) Figliedel Vento CAR JUKE BOX – DISCHI RICORDICRJNP-1088 [45]
 
 
◆去り行く君 Vado via L.Albertelli -E.Riccardi出版社 RITMI E CANZONI ドゥルピ (vm) Drupi RICORDI – DISCHI RICORDISRL-10688 [45]
 
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◆灰色の街 Via Garibaldi T.Santagata出版社 FONIT CETRA トニ・サンタガ (vm) ToniSantagata CETRA – FONIT CETRASP-1508 [45]
 
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<棄権曲>
・ただ一つのチャンス L'UNICA CHANCE D.B.BESQUET- Ad.CELENTANO) 出版社 CLAN アドリアーノ・チェレンターノ(vm) Adriano Celentano CLAN CELENTANO CBSSugarCLN- 1319 [45]
 
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<失格曲>
・愛なきふるさと TERRA CHE NON SENTI A.PIAZZA) 出版社 FONIT CETRA ローザ・バリストレリ (vf) Rosa Balistreri (CETRA– FONIT CETRASP-1505 [45]
 
 
1973年サンレモ音楽祭出場は以上です。
 
 
 サンレモ音楽祭は新曲コンテストで厳しい規則がありますが、出場曲の失格があります。審査員や聴衆が先入観を持たずに厳正な審査する建前で、全てがサンレモの舞台で初披露する以前に歌唱・演奏してはならない、とされています。
 
 初めての失格は57年の“美しきもの (La cosa piu'bella)”で、他社が他の歌手で事前にレコードを出したためでした、2度目のローザ・バリストレリの“愛なきふるさと”です。本人が事前の放送番組「StaseraRosa」で歌ってしまたようです。ただこの事前歌唱のチェックが厳密に行われていたかというと、前72年の優勝曲“虹の日々(Igiorni dell'arcobaleno)”や“ジェザエル(Jesahel)”も事前に放送したと言われています。
 
 バリストレリ自身、何度も投獄され、歌も反体制的であり、“愛なきふるさと”の内容も音楽祭向きでないと思われていたので、相当の政治的判断が影響していると考えられています。彼女はサンレモ市内の劇場で「貧者のための音楽会」としてワンマン・コンサートを開きました。
 
 この後92年にジョー・スクィッロ(Jo Squillo)、96年にオルネラ・ヴァノーニ(Ornella Vanoni)が失格、2014年にリッカルド・シニガッリア(RiccardoSinigallia)が順位除外(失格か?)になっています。
 
 
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                バッサーノ (vm)             ローザ・バリストレリ (CETRA)    
 
 3番目に紹介するレコード会社はサン・マルタン(Saint Martin Record)です。英語読みすればセイント・マーティンですが、当時も河合秀朋さんはサン・マルタンと言っていたので、イタリアではわざわざフランス語読みにしたものとして扱います。 前72年にはシデット(SIDET)のディストリビューターとしてサンレモ音楽祭に参加したのですが、自社歌手を出場でなかったので73年に廻しました。
 
 65年サン・マルタン音楽出版が、当時イタリアの音楽業界で盛んに行われていた、音楽出版会社がレコード会社を作る流れの中、他社と同じように音楽出版社オーナーのジーノ・カゼッリ(GinoCaselli)がミラノにレコード会社を設立しました。活動期には中堅独立会社としての位置を占めていました。
 
 最初の成功は65年、女性歌手バルバラ・ローリー(Barbara Lory)が第1回ロンバルディア音楽祭で“Sei tuMilano”を歌い優勝した事でした。次の成功はバルバラが66年カンタジーロ・ジローネB(新人部門)に“悪い月(Male diluna)”を歌い12位、バンドのフナムボリは翌年のジローネC(グループ部門)には (iFunamboli)が“反対の仮定(Ipotesi egativa,)”で、68年夏のディスク・フェスティヴァルに“Come un'ombra”で出場するなど実績を残しました。
 
     
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 他にサンレモ経験のあるジャンニ・マスコロアキレ・トリアーニエッダ・オルラーリ、そして73年サンレモ音楽祭に出場しているリオネッロが在籍していました。また80年代に“ワーズ(Words(Don't Come Easy))”で世界的なヒットを出したフランス人歌手F.R.デイビッド(F.R. David)もイタリア在住時代に所属していました。
 
 73年サンレモ音楽祭にバッサーノを“カラ・アミーカ”で出場させることが出来ました。レコードのリリースは70年代末まで確認できますが、それ以降の消息は不明です。
 
 そしてもう1社、ミーナのデビュー会社イタルディスクの継承会社ドゥカーレ(Ducale)です。イタルディスクは56年にダビデ・マタロン(DavideMatalon)が興し、その音楽出版社として59年12月にドゥカーレを作ります。63年ミーナが移籍でイタルディスクを離れた以降、カー・ステレオ、カセット・テープのサプライ供給が主力となります。70年代に入りレコード制作を再開しますが、音楽出版会社のドゥカーレを社名としました。同社は現在もドゥカーレ・ミュージックとして活動を続けています。

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・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。
・順位をつけない入賞曲の頭には""を、参加曲の頭には""を付けます。
・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。
・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。