アルフレッド・ロッシの名前を知らなくても、イタリアのアリストン・レコードは興味があれば、1度や2度はお聞きかと思います。そのアリストンの設立者で音楽業界の重鎮でした。
★アルフレッド・ロッシ Alfredo Rossi
1925年4月13日フィレンツェの東100km、アドリア海沿岸の都市、保養地リミニ生、2008年10月30日ミラノ没、イタリアの音楽出版社、レコード会社経営者。
4才上兄に作曲家、レコード・プrデューサのカルロ・アルベルト・ロッシ(Carlo Alberto Rossi)がいました。
1936年、ロッシの家族はミラノに移ります。兄C.A.ロッシと共に音楽産業に興味を持ち、その勉強を始めました。兄カルロ・アルベルトは音楽そのものに魅かれ、弟アルベルトの関心は音楽ビジネスに向きました。
兄は第二次世界大戦中から作曲を始め、終戦の頃には音楽出版社に属する作曲家になっていました。49年兄弟はハンガリー出身で野心的音楽業界起業家ラディスラオ・シュガー(Ladislao Sugar)と共に音楽出版社アリストンを設立しました。シュガーは後にCGDを買取り、シュガー・ミュージックの礎を築いた人物、女性音楽プロデューサーの元歌手カテリーナ・カセルリの舅です。
さてアリストン音楽出版社は兄カルロ・アルベルトの楽曲を管理する仕事で始まりました。兄は第1回サンレモ音楽祭にアリストン音楽出版として楽曲を出品します。
シュガーは早い時期にアリストンから手を引き、多額の投資先CGDに主力を注ぎます。アリストンはやがてジャズ・バンドで作曲もするアルマンド・トロバヨーリ(Armando Trovajoli)、ピエロ・ピッチオーニ(Piero Piccioni)、ジャンニ・フェッリオ(Gianni Ferrio)、レリオ・ルッタッツィ(Lelio Luttazzi,)など楽団のマエストロの作品も扱いました。
順調に業績を伸ばしていましたが、足元から重大事が起きます。兄が自分の楽曲だけでなく大半の版権を持って分離独立し、新たにC.A.ロッシ音楽出版を興しました。
アルフレッドは兄の余りにも酷い仕打ちに激しい怒りますが、音楽出版社間の競争は兄弟の骨肉の争いを続けることを許さず、弟は新たな活路を見つけなければ生き残れません。彼の取った方法は新たな才能を発掘し、アリストンがその出版権を得ることでした。
その頃、イタリア軽音楽界は新たな音楽、新たな才能を求める人達が現れました。ジェノヴァを中心とした若い音楽家の活動を注視し、ディスキ・リコルディを起ち上げたナンニ・リコルディ(Nanni Ricordi)やアメリカ資本でライセンス生産の盤を売るしかなかったRCAイタリアーナで自国の歌作りを目指し、ローマ楽派と呼ばれるカンタウトゥーリを育てたヴィンチェンツォ・ミコッチ(Vincenzo Micocci)がいました。
アルフレッドは彼らの曲を純粋にソングライターとして音楽出版権を得ることにしました。彼らはウンベルト・ビンディ(Umberto Bindi)(アルフレッドにが発掘した)、コッラード・ロヤコノ(CorradoLojacono)、ジャンニ・メッチア(GianniMeccia)、ブルーノ・ラウツィ(BrunoLauzi)達です。 彼らのサンレモへの初提供楽曲はアリストン音楽出版からでした。ビンディの場合は直接アリストンばかりか、その傘下のサンタ・チェチリア(SANTA CECILIA)やMECでも楽曲管理をしています。
ジジ・チケッレッロ(Gigi Cichellero)やその後有名になるジーノ・メスコリ(Gino Mescoli)、ブルーノ・サンブリーニ(Bruno Zambrini)、フィオレンツォ・カルピ(Fiorenzo Carpi)、ナポリターナ歌手としても活躍するアルマンド・ロメオ(Armando Romeo)、ウーゴ・カリーゼ(Ugo Calise)などのヒット曲も扱いました。
これらライター達の書いたヒット曲は外国でもカヴァーされ、カテリーナ・ヴァレンテ、ペリー・コモ、シラ・ブラック、トム・ジョーンズ、ディーン・マーティン、ダリダ、クリフ・リチャード、ナット・キング・コールなど世界的歌手と親交を深めました。
彼はもう一つ新たな事業を始めました。フォノスコープ(Fonoscope)という事業でした。日本でもポストカード・レコード、レコード葉書と言われたものです。葉書にソノ・シートに使うようなビニール材を張り、溝切りをし、プレイヤー用の8mmの穴を開けたたものです。
NA-L・45 (1958〜9年頃 Fonoscope) Munasterio'E Santa Chiara (サンタ・キアーラ寺院) コッラード・ロヤコノ(Corrado Lojacono)
NA-L・45
アルフレッドはミラノ北部湖水地方にオウディオマスター・イタリアーナ(Audiomaster Italiana)社の機械を持つ工場を訪れ、イタリア名所の絵葉書に絵柄にあった曲をつけるアイデアでレコード葉書を作ることを依頼し、フォノスコープの名称でヨーロッパ各国で売りました。ほんの5、6年の間でしたがレコード製造のノウハウを得て、正式ではありませんがハード盤の製造も試みました。セルジョ・エンドリゴ(Sergio Endrigo)がノタルニコラ(NOTARNICOLAの名前でビンディ作の2曲を録音しています。この経験は後にアリストン・レコード設立に役立つことになります。
NP-5001 (1959年 Ariston - Ariston) Arrivederci(アリヴェデルチ)/ Nuvola Per Due ノタルニコラ(NOTARNICOLA)
NP-5001
彼は新たなカンタウトーリの才能を発掘し、色々な売り出し方を考えたことで『才能のハンター(Cacciatore di Talenti)』という仇名を付けられました。日本でもイタリア・ジャズ・ヴォーカルのスタンダードとして知られるブルーノ・マルティーノ(Bruno Martino)の曲“夏(Estate)”も傘下のサンタ・チェチリアが管理する曲です。会社は音楽出版社として安定期に入りました。
64年アルフレッドは長年の夢であったレコード会社を設立します。社名はI.F.I. Company、
レーベル名をアリストン・レコード(以降アリストンと略します)としました。しかし実際の音作りの面は専門でないので、クァルテット・ラダール(Quartetto Radar)のジャンニ・グアルニエリ(Gianni Guarnieri)に芸術監督を委ねます。
アリストンは新興の弱小レコード会社ですが、毎年サンレモ音楽祭に楽曲を提供しているアリストン音楽出版の実績で翌65年の第15回にフランスで活躍しているドイツ人歌手オードリー(Audrey)、ジャンニ・マスコロ(Gianni Mascolo)、ドン・ミコ (Don Miko)の3歌手を出場させました。3人の歌手は設立した64年に契約した歌手たちです。またレコード会社はCGDですが、ブルーノ・ラウツィのサンレモ・デビュー曲“Il Tuo Amore(君の愛)”はアリストン音楽出版からの出品でした。
幸運は66年サンレモ音楽祭でブルーノ・ラウツィが作詞、芸術監督のジャンニ・グアルニエリが作曲した“ウィーンのバラ(Una rosa da Vienna)”がヒットしたことでした。歌ったアンナ・イデンティチ(Anna Identici)は若手スターになり、同年ブルーノ・ラウツィもCGDから移籍して来ます。またプログレ・バンドとなるイ・コルヴィ(I Corvi)がデビューし、多くのバンドが巣立ちます。
一番大きかったのは67年サンレモ音楽祭を機にオルネラ・ヴァノーニがリコルディから移籍して“音楽は終ったのに(La musica è finita)”を歌い、第4位になったことでした。デビューしたリコルディで行き詰まり、ジェノヴァ派カンタウトゥーリが関係していたアリストンに身を寄せ、『才能のハンター』アルフレッドは彼女に新しい道を切り開きます。ヴァノーニは74年ヴァニラ(VANILLA)を作り独立します。
69年には犬猿の仲だった兄C.A.ロッシのレコード会社CARジューク・ボックスのディストリビューターとなり、さらに有望新人ロザンナ・フラテッロ(RosannaFratello)をアリストンからメジャーデビューさせました。

AlfredoRossi e Rosanna Fratello
72年社名もアリストン・レコードズに変更し、コッラード・ロヤコノを副社長兼プロモーション担当として迎え入れ、会社は一段と発展して注目を浴びます。
その後ジルダ・ジュリアーニ(Gilda Giuliani)、マティア・バザール(MatiaBazar)、レットーレ(Donatella Rettore)、フィオレッラ・マンノイア(Fiorella Mannoia)等を送出しますが、深刻なイタリア経済の不況は音楽業界も巻き込み、アリストンも営業不振になりました。87年同じく不振のドゥリウムと合併しコノ(KONO)となります。しかしその努力も虚しくコノも89年会社を閉じました。
アルフレッドはイタリア最大のレコード業界団体A.F.I. (Associazione Fonografici Italiani)の役員に長年就き、また40年間著作権管理機構S.I.A.E.のコミッショナーを勤めましたが、2008年83才で亡くなりました。
アルフレッド・ロッシは以上です。