オスカー・プルデンテは正式にはサンレモ音楽祭に出場していませんが、イヴァノ・フォッサーティ(Ivano Fossati)と共作した“ジェザエル”がサンレモの舞台で歌われた時、デリリウムのバック・コーラス(Coro Hippy Durante il Festival di Sanremo)で歌っています。オスカーはサンレモ音楽祭に正式出場していないので、ここで取り上げます。
☆オスカー・プルデンテ (vm) Oscar Prudente
1944年1月9ジェノヴァ北西近郊の小さな町ロッシリョーネ(Rossiglione)生、自作自演歌手、作曲家、レコード・プロデューサー。ペンネームのメレンデロ(Merendero)名義で作曲する場合がある。
4221(CGD)

活動期間:1964-不明
所属レコード会社:ARC(RCAItaliana, Jolly(SAAR), MGM(Dischi Ricordi),Numero Uno, CGD
サンレモ音楽祭出場1回(非公式):1972年6位 (デリリウムのバック・コーラスとして)
サンレモ音楽祭出品2曲:1972年”Jesahel(ジェザエル)”(デリリウム)、83年“Margherita non lo sa (ひな菊は知らない)”(ドリ・ゲッツィ)第3位
フォッサーティの2nd.アルバムをコラボレーションしてもらったお礼として、イヴァノ・フォッサーティはプルデンテの2nd.アルバムを共作、編曲をしています。また先行してシングル盤“Infinite Fortune”/“Solo No”も出ています。
ZN-50332(1974年10月 Numero Uno –RCA Italiana) Infinite Fortune/Solo No



ZN-50332 ZSLN-55673 82876-54797・2
ZSLN-55673(1974年11月 Numero Uno –RCA Italiana) LP Infinite fortune
82876-54797・2(2003年 BMG – Sony Music) CD Infinite fortune
1.La Casa Vecchia
2.I Vetri Della Scuola
3.Otto Ore
4.Infinite Fortune
5.Solo No
6.Il Furgone Della Banca Del Commercio
7.Io Vado A Sud
75年二人はジャンニ・モランディのアルバム「甘い果実(IL MONDO DI FRUTTA CANDITA)」とフォッサーティの“Good-Bye Indiana”を共作します。(イヴァノ・フォッサーティの項をご参照)
オスカーは76年にCGDへ移籍、“Scarpe Da Poco”を出します。一方ロレダーナ・ベルティ(LoredanaBertè)に“Per effetto del tempo”、そしてカトリーヌ・スパーク(CatherineSpaak)のアルバム「Catherine Spaak」の“AncoraLibera”をフォッサーティと共作します。 またジェノヴァ出身の演劇演出家アルド・トリオンフォ(AldoTrionfo)の“lo spettacolo Nerone è morto”でミュージカルを作りました。
4221(CGD)(1976年4月 CGD – MessaggerieMusicali) Scarpe Da Poco/Scendo Qua ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照
CGD-82073(1977年5月 CGD –Messaggerie Musicali) LP Donna che vai
1.Donna Che Vai
2.Capelli Rossi
3.No No No
4.Ci Si Innamora
5.Mi Vuoi
6.E Magari Ritorni
7.Principessa
8.Incantesimo
9. Ancora Soli
CGD-82073

77年プルデンテはジェノヴァの先輩ブルーノ・ラウツィ(Bruno Lauzi)と共作したアルバム「Donnache vai」を出しました。これが彼の最後のアルバムになります。
そして彼の作品ではイタリアで最も親しまれている曲“Stadium”を発売しました。76年から国営放送RAI2で放送したスポーツ番組「DomenicaSprint」のテーマ・ソング“Stadium”でした。
CGD-10019(1977年 CGD – Messaggerie Musicali)Stadium/Ballata Per Gigi
CGD-10019
CGD-10702


CGD-10702(1977年 CGD – Messaggerie Musicali)Come Vorrei Un Mondo Che Cantasse Insieme A Me (It's Like To Teach The World ToSing愛するハーモニー) / Stadium (Coro Coro/Oscar Prudente)
“Come Vorrei Un Mondo Che Cantasse Insieme A Me”は70年代のご存知コカ・コーラのCMソング“愛するハーモニー”、日本では72年発売のオリジナル曲ニュー・シーカーズ(TheNew Seekers)盤がナンバー1ヒットにもなり、その他ではヒルサイド・シンガーズ(The HillsideSingers)、ジョーダネイアーズ(The Jordanaies)、レイ・コニフ・シンガーズ(RayConniff And The Singers)、日本語ではハニー・パイ、本田路津子のカヴァーもあります。81年にノーランズ(TheNolans)がリヴァイバル・カヴァーをしていました。
イタリアではオスカー・プルデンテが77年にシングル盤を出し、ピクチャー・スリーブはこれぞコカ・コーラというデザインでした。プルデンテの最後の新譜シングル盤となりました。CMのジングルを作曲するのはこういう曲が由来からかもしれません
この頃からソング・ライターの仕事が中心となり歌手としての活動はしなくなりました。78年サンレモ音楽祭でイヴァノ・フォッサーティと共作したアンナ・オクサ(AnnaOxa)の”青春 (Un’Emozione Da Poco)”は第2位、年間ヒット・ランク14位のメガヒットとなり、彼は着実に実績を上げます。フォニット・チェトラのダブル・ミュージック(2枚組ベスト盤)・シリーズとしてフォッサーティとコラボした2枚の.アルバムが復刻されました。
DPU-90(1978年Double Music Cetra - Fonit Cetra) 30cm 2LP IvanoAlberto Fossati - Oscar Prudente
※[LPX- 24 (1973年 Cetra/Numero - Fonit Cetra) Poco Prima Dell'Aurora (+) LPX- 38 (1975年 Cetra - FonitCetra) Good-Bye Indiana]
1-1.È L'Aurora
1-2.Prendi Fiato Poi Vai
1-3.Ehi Amico
1-4.10 Km Dalla Città
1-5.L'Africa
1-6.Tema Del Lupo (Voglia Di Non Aspettare)
1-7.Lo Stregone (Voglia Di Sapere)
1-8.Apri Le Braccia (Voglia Di Amare)
1-9.Gil (Voglia Di Terra)
2-1.Il Grano E La Luna
2-2.Where Is Paradise?
2-3.Azteca
2-4.I Treni Fantasma
2-5.Storie Per Farmi Amare
2-6.Harvest Moon
2-7.Good-Bye Indiana
DPU-90

78年レオポルド・マステッローニ(LeopoldoMastelloni)に“Il Mio Slip Fa Pam Pam!”(B面はクァルテット・チェトラの古いヒット曲“Donna”)を提供し、シングル盤のプロデュースもしました。
79年ヌメロ・ウーノの女性歌手ティツィアナ・ピーニ(Tiziana Pini)のために“In Paradiso ETorno”と“Dormi”をブルーノ・ラウツィと共作しました。
80年ヌメロ・ウーノの男性歌手ドンノ(Donno)にA面の曲はフォッサーティとプルデンテのアルバム「Poco PrimaDell'Aurora」に収録された“È L'Aurora”と、二人が共作した“No Stella No”を提供しし、プルデンテがプロデュースしました。
同年ファブリツィオ・デ・アンドレ(Fabrizio De Andrè)と結婚したドリ・ゲッツィ(Dori Ghezzi)が設立したファド(Fado)の第一号でドリ・ゲッツィのアルバム「MamaDodor」のテーマ曲“MamaDodori”をプロディーサーでもあるクリスティアーノ・ミネッローノ(CristianoMinellono)が作詞、プルデンテが作曲しました。
81年ジェノヴァの先輩カンタウトゥーリ、ブルーノ・ラウツィのシングル盤B面の曲“Ci S'Innamora”をラウツィと共作しています。デ・アンドレの会社ファドから9月発売されたマッシーモ・ブッボラ(Massimo Bubola)のアルバム「Tre Rose」のプロデュースをし、闘病から復帰後初のファブリツィオ・デ・アンドレのアルバム「FABRIZIO DE ANDRÉ」のアレンジをマーク・ハリス(Mark Harris)と共にし、リコルディから出しました。
83年ドリ・ゲッツィのサンレモ音楽祭出場曲“ひな菊は知らない(Margherita NonLo Sa)”とB面“Luna Park”をオスカー・アヴォガドロ(Oscar Avogadro) と共作しました。ドリ・ゲッツィは第3位、年間ヒット・ランク59位のヒットとなりました。さらに結成にも関わったバンド、グルッポ・イタリアーノ(Gruppo Italiano)のシングル盤“Tropicana“/”Noi Cannibali”のプロデュースをしています。
84年グルッポ・イタリアーノのシングル盤“Anni Ruggenti”/“Dammi Un SabatoNite”のプロデュースします。
87年ラフ(Raf)の“London Town”をラフ自身とジャンナルロ・ビガッツィ(GiancarloBigazzi,)、スティーヴ・ピッコロ(Steve Piccolo)と共に共作し、アドリアーノ・チェレンターノ(AdrianoCelentano)のアルバム「La PubblicaOttusità」にビガッツィとジャンナ・アルビーニ(Gianna Albini)と共作した“Dolce Rompi”を提供しました。この頃プルデンテは多くの映画音楽にも関わり、この年に作ったCMキャンペン・ソング“Pasta Barilla.”は有名で、その他にも多くのCMジングル作曲してます。
80年代、90年代は音楽著作管理と芸術コンサルタントをする契約をCGDと交わし、カテリーナ・カセルリ(Caterina Caselli)と共にイタリアの楽曲を精査し、新たな才能の発掘に努めました。そして主要な民間放送ラジオとコラボしてリガブエ(Ligabue)、マルコ・マジーニ(Marco Masini)、ヤリッセ(duo Jalisse)のメンバーとなるアレッサンドラ・ドゥジアン(AlessandraDrusian)、フランチェスコ・バッチーニ(Francesco Baccini)などを発掘しました。
またモゴールが設立した音楽学校C.E.T- CentroEuropeo di Toscolano 別名La Scuola di Mogolで音楽教育講座を持つ客員教授を務め、ほかの音楽施設、文化施設の講演会講師にも招かれています。
2004年10月テルニ(Terni)で行われた第10回イネディート・ペル・マリア音楽祭(“Inedito perMaria” (festival nazionale della canzone ispirata all’universo femminile))の芸術監督を務めています。
オスカー・プルデンテの国内盤
SR- 233 (1968年11月10日 SEVEN SEAS - キング)30cmLP カンタジ-ロ1968 (CANTAGIORO 1968)
12.しあわせという名まえ (BENVENUTOFORTUNATO) [オスカー]
SR- 233

デリリウム(オスカー・プルデンテ)は以上です。