この名前は何度もブログに出ていますので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。
 
フランコ・クレパックス Franco Crepax
 1928年ミラノ生、レコード・プロデューサー、CGDの代表取締役、作家、歯科医師。
父ジルベルト(Gilbert) はミラノ・スカラ座やヴェネツィアのフェニーチェ座の首席チェロ奏者で彼はその血を受継いでいます。
 
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 弟グイド・クレパックス(Guido Crepax)は著名漫画家、イラストレーター(リコルディのロゴ・マークの原作者)。クレパックスだけ言われる時は有名な漫画家グイドを指す人の方が多い。
 妻ルチアーナ(Luciana)は英文小説、歴史書等の翻訳家、息子ニコラ(Nicola)は経済学者、娘ヴァレンティナ(Valentina)はジャーナリストでジジ・ザッゼリ(Gigi Zazzeri)と結婚しています。                 
 
 
 1952年フランコはV...(67年以降はEMIイタリアーナとなる)に入社、広告・グラフィック部門を担当します。53年リコルディの総本社G.リコルディ&C.音楽出版(Edizioni G. Ricordi& C.)に移りました。そこでリコルディの御曹司ナンニ・リコルディ(NanniRicordi)と出会います。
                      
 ナンニ・リコルディは新規事業の調査研究とアメリカ市場進出のために、55年ニューヨークに渡米、米RCAビクターでプロデューサーとしても働き、イタリア系大歌手のペリー・コモとも親交が出来ました。この時点で想像もしなかったでしょうが、RCAとの因縁は始まったようです。ディスキ・リコルディは94年RCAを吸収したBMGと合併する事になります。
 
 ナンニが58年に帰国後しアメリカで得た知識から新しい音楽の創造を目指し、ミラノでフランコ・クレパックスを共同経営者として10月1日にリコルディ出版が100%出資のディスキ・リコルディ株式会社(Dischi Ricordi S.p.A)を設立しました。
 
 最初の盤はマリア・カラスのアルバムでした。彼女は50年にミラノ・スカラ座デビュー、プリマ・ドンナとして活躍しており、リコルディ家へのお礼とお祝儀だったのでしょう。このカラスとナンニの写真を撮ったのがクレパックスでした。ナンニは『スタジオの人』、フランコは『オフィスの人』であったようです。            
 
   Nanni Ricordi e Maria Callasイメージ 2    
 
 リコルディの目指したカンタウトゥーリのカンツォーネ」は当時インテリ層の評判になりましたが、彼らのレコードは月何十枚程度しか売れず、しかも悪いことに新たなレコード工場を作り会社は「火の車」状態になってしまいます。
 
 ナンニとクレパックスは責任を問われ、リコルディを追われます。ナンニはRCAイタリアーナの総帥エンニオ・メリスの計らいで芸術監督に彼を迎える代わりに、RCAイタリアーナの芸術監督ヴィンチェンツォ・ミコッチをリコルディの芸術監督とし、再建に携わることとしました。 クレパックスはナンニと行動を共にすると思われていましたが61年CGDのディレクターになります。
 
 彼らが育てた多くのカンタウトゥーリ、ジーノ・パオーリ、ウンベルト・ビンディ、セルジョ・エンドリゴ達はナンニを追ってRCAイタリアーナに移籍します。まだデビュー前のブルーノ・ラウツィは62年クレパックスが転出したCGDに入りレコード・デビューをしました。ラウツィが65年サンレモ音楽祭に出場できたのはクレパックスの尽力があったのだと思われます。
 
 クレパックスは名前の通りフランス系イタリア人です。フランスからミラノに進出しエル&クリス(El ` & Chris)音楽出版を作ったクリスチーヌ・ルルー(Christine Leroux)の共同経営者として彼は、65年2月カンピオーニ(I Campioni)でまだ無名のギタリスだったルチオ・バッティスティがオーディションを受けに来た時に会っています。
 
 彼らの育てたカンタウトゥーリ、ルイジ・テンコは63年にSAARに、65年にジーノ・パオーリと入替わりにRCAイタリアーナへ移り、パオーリはスキャンダルまみれになってクレパックスを慕うかのようにCGDに移籍をしています。
 
 ダリダの後追うかのような移籍をしたテンコは遂にダリダをパートナーに67年サンレモ音楽祭の出場を果たします。二人は恋愛関係にあり、サンレモの打合せを口実に逢っていたようでした。しかしテンコは大事件を起こします。サンレモの落選が原因と言われますが、本選第1夜終了後ホテルでピストル自殺をしました。逢う約束をしていたダリダが第一発見者で、彼女は自分が悪いのだと半狂乱に、駆付けたルチオ・ダルラなどRCAイタリアーナの歌手、関係者は大パニックになります。
 
 テンコは自分達が育てた歌手でもありクレパックスもすぐ現場に行き、その大混乱ぶりを目の当たりにしました。他社CGDの人間でしたが、このままではRCAの歌手の出場ばかりでなく、サンレモ音楽祭の続行も危ういと感じたクレパックスは、持ち前の冷静沈着さで現場を取仕切り音楽祭も続行、無事最終日まで終えることが出来ました。この一件で彼の実力は知れ渡り、『業界のゼネラル・マネージャー』としても扱われるようになります。
 
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 表現があいまいなのでいつ頃という時期が判らないのですが、CGDで芸術監督を務めています。歌手の発掘、売出しや宣伝のマネージメントなどは得意でしたし、チェロ奏者の父から受継いだ音楽の才能を発揮していました。
 
 「サンレモの歌手たち 326 マウリツィオとファブリツィオ」の項で、『CBSがCGDに出資しCBSシュガーとなる前年の69年にはクレパックスはCBSレーベルの芸術監督をしていて、マウリツィオとファブリツィオ(Maurizio &Fabrizio)をイタリアのサイモンとガーファンクルにしようとした』と書きましたが、CBSのイタリア販売権をリコルディから取ってくることにも関わったと思われます。
 
 しかしこのCBSのイタリアでの販売権を取ったことが、後々CGDに大きな災いをもたらすことになります。
 
 70年CGDのスター歌手ナテリーナ・カセルリはCGDの所有会社シュガー・ミュージックの御曹司ピエロ・シュガーと結婚しました。この時後に彼女がシュガーを再興する女将に成るとは、誰も考えてなかったでしょう。
 
 77年シュガー・グループは大変な状況になりました。米CBSと資本提携したCBSシュガーは、CBSがプーやマルチェラ、ウンベルト・トッツィ等看板スターを連れてCBSディスキとして独立。CGDは状況が一変し経営危機となります。
 
 78年ジリオラ・チンクェッティ、カテリーナ・カセルリ、イ・プー、マルチェラなどをスター歌手に育てた手腕を買われ、CGDの難局に対処すべく代表取締役に選任されました。
 
 残った経営資源で廉価盤の販売します。またカテリーナ・カゼッリが若者向けロックのアスコルト(Ascolto)を起ち上げ、日本でもプログレで知られるアレア(Area)、ペペ・マイナ(Pepe Maina)、マウロ・パガーニ(Mauro Pagani)などを輩出しました。そういう状況下で81年シュガーの総帥ラディスラオ・シュガー(Ladislao Sugar)が85才で亡くなり、CGDには大きな痛手となります。
 
 ナンニ・リコルディはRCAイタリアーナに転籍して3〜4年しかいませんでしたが、クレパックスは彼とは違い86年までの25年間CGDで勤め、一時代を築きました。その年パナレコーズの代表取締役に就任しています。
 
 CGDは録音スタジオなど資産売却等リストラを進めますが、遂に88年世界資本WEAに身売りをします。シュガー一族はCGDから撤退を余儀なくされます。同年ナンニとクレパックス二人の功績をたたえ、所縁の歌手たちの歌うコンピレーションが出ました。
 
TALP-2024 (1988 Fonit Cetra ‎– Fonit Cetra) 2LP NanniRicordi E Franco Crepax Presentano: Nel 30° AnniversarioDella Leggera Rivoluzione
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 90年大手レコード会社が作るイタリア・レコード会社協会AFI(AssociazioneFonografici Italiani)の会長に就任しました。
 
 その後音楽プロデューサーのほかに評論や小説の著作活動を行っており、2004年自叙伝「Grazie Mac, Pontealle Grazie」を出版し、08年には最後の仕事として歯科医も始めました。
 
  Grazie Mac, Ponte alle Grazieイメージ 5 
 
 
インテルメッツォ~フランコ・クレパックスは以上です。