★マウリツィオとファブリツィオ(duo) Maurizio & Fabrizio
1970年代初頭に活動していた兄弟デュオ・チーム。
CDE-10274
SP-1777
SP-1777
・マウリツィオ (Maurizio)
本名マウリツィオ・ファブリツィオ (Maurizio Fabrizio) 1952年3月16 日ミラノ生、歌手、作曲家、指揮・編曲者、音楽プロデューサー。仇名ムーシ (Mushi)は余り使われず。
所属レコード会社:CBS
サンレモ音楽祭出場1回:1971年参加
・ファブリツィオ (Fabrizio)
本名サルヴァトーレ・ファブリツィオ(Salvatore Fabrizio)1948年8月30日にミラノ生、歌手、作詞・作曲家、音楽プロデューサー。芸名ポピ(Popi)としても知られています。
所属レコード会社:CBS, FonitCetra
サンレモ音楽祭出場1回:1971年参加
1978年コメ・イル・ヴェントがポリドールの傘下に入ったことから、ミア・マルティーニは出来て3年しかたっていないWEAイタリアーナに移籍、翌79年にバルダン・ベンボのアルバムとシングル盤はポリドールから発売されました。
79年にプーのプロデューサーだったジャンカルロ・ルカリエッロ(GiancarloLucariello) が興したパラディーゾ(Paradiso)はリカルド・フォッリ(RiccardoFogli)、ヴィオラ・ヴァレンティーノ(Viola Valentino)、ジャンニ・トーニ(GianniTogni)を擁し、ディストリビューションをCGDに委託しました。ファブリツィオ兄弟は彼らのアレンジ、楽団指揮の仕事を始めます。
この頃兄サルヴァトーレは日本のTVアニメ「みつばちマーヤの冒険(L'ape Maia)」のイタリア版テーマなど多くのTV番組主題歌の作曲をしています。
ポリドールとは方向性が違ったか、独立性が失われたのか、80年には独立レーベルとしてCGDにディストリビューションを任し、マルリツィオ・ファブリツィオはアルバムとシングル盤を発売しました。コメ・イル・ヴェントがレコード会社として出した最後の盤となりました。
CDE-10274 (1980年 Come Il Vento - CGD Messaggerie Musicali) Segui me/Quandoparlo di me ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照
CDE-20221 (1980年 Come Il Vento - CGD MessaggerieMusicali) Personaggi
1.San Paolo
2.Quando Parlo DiMe
3.Il Violinista
4.Segui Me
5.L'Amore Non E UnaCanzone
6."Ai DueCialtroni"
7.L' Irlanda
8.Lalla
CDE-20221
ダリオ・バルダンベンボが81年に出したアルバムは、ディストリビューションを負っていたCGDからでした。音楽出版社としてコメ・イル・ヴェントは残りましたが、90年代の半ばにフォノグラム・グループに買取られています。
兄サルヴァトーレは別の道を歩みだしたようで、82年フォニット・チェトラからポピ・ファブリツィオとして久々にシングル盤を出しています。
SP-1777 (1982年 Fonit Cetra - Fonit Cetra) Valentina/Nel Cielo(come Popi Fabrizio) ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照
兄は86年ポリグラムの芸術監督に就任し、ズッケロ (Zucchero)、ファビオ・コンカート(Fabio Concato)、ロサーナ・カザーレ(RossanaCasale)、ビアジョ・アントナッチ (Biagio Antonacci) 等、90年からBMGイタリアーナの芸術監督に就任、ピトゥーラ・フレスカ(IPitura Freska)、ジョルジァ(Giorgia)他の新たな才能の発掘、育成をしました。
95年自分のレコード会社PPMを設立し、レアンドロ・バルソッティ (Leandro Barsotti)、リサ (Lisa)などサンレモ音楽祭に出場させています。21世紀に入り、アフリカの諸問題に係るNGOに従事し、社会貢献活動に携わっています。
弟マウリツィオはプロデューサー、アレンジャーとして続けマティア・バザール(Matia Bazar)の「レッド・コーナー(Red Corner)」はじめ、ミエッタ (Mietta)、カテリーナ・カセルリ(Caterina Caselli)、レナート・ゼロ(RenatoZero)、アル・バーノ(Al Bano)、スパーニャ(Spagna)ほか名だたる歌手と仕事をしています。
21世紀に入りマッシーモ・ラニエリ (Massimo Ranieri)、アントネッロ・ヴェンディッチ(Antonello Venditti)、エロス・ラマッゾッティ(ErosRamazzotti)等ともコラボレーションをしています。
久々2011年女優カティア・アスタリタ (Katia Astarita)とコラボレーションしたCDを発売し、歌手としての存在をしめしました。
4029759071679 (2011年 Ottododici - Edel Music) Bella la vita - MAURIZIO FABRIZIO /KATIA ASTARITA
1.Bella la vita
2.Che sa di sale
3.I migliori annidella nostra vita
4.Acquarello
5.Almeno tunell'universo
6.Profuma l'aria edolce e tenero e' il vento
7.Rosa (colonna sonoradel film "Repuestos")
4029759071679
マウリツィオとファブリツィオは以上です。
1971年サンレモ音楽祭に非公式ながらマウリツィオとファブリツィオともにラ・ビオンダ兄弟は舞台に上がっています。ラ・ビオンダとしてはサンレモ音楽祭に出場したことがないので、この場で彼らを紹介いたします。
☆ ラ・ビオンダ兄弟 (duo, compl) La Bionda
ラ・ビオンダは、1970年代初頭に結成された音楽デュオ。
SRL-10・698
所属レコード会社:Ricordi, Baby Records(La BiondaおよびD.D.Soundとして), Durium (The Oceansとして), CGD (On Airとして), Blond Records, LetIt Beat Records [La Bionda Music] (La BiondaおよびMad Boxとして)
サンレモ音楽祭出場1回:1971年マルリツィオ&ファブリツィオのバックとして(非公式)
サンレモ音楽祭出品1曲:1986年15位“君が愛しすぎて(Innamoratissimo (tu che fai battere forte il miocuore))”
・カルメロ・ラ・ビオンダ(Carmelo La Bionda)、1949 年2 月 2 日、シチリアの州都カターニアの郊外ラマッカ(a Ramacca)生、歌手、作詞家、ギタリスト、作・編曲家、映画音楽作曲家、音楽プロデューサー。
・アンジェロ・ビオンダ(Angelo La Bionda)、本名ミケランジェロ・ラ・ビオンダ(Michelangelo LaBionda) 1952 年 8 月 25 日シチリアの州都カターニアの郊外ラマッカ(aRamacca)生、歌手、ギタリスト、作詞家、作・編曲家、映画音楽作曲家、音楽プロデューサー。
シチリア出身と言うこと以外、生い立ちについては不明です。二人とも十代の後半にはミラノに住んでいます。明確なことはサルヴァトーレとマウリツィオ・ファブリツィオ兄弟がマルリツィオとファブリツィオとして兄弟デュオでデビューする1969年後半頃、彼らの近所に住んでいる音楽仲間だったと言うことです。
ファブリツィオ兄弟にバンドに誘われてラ・ビオンダ兄弟はギタリストとして参加、やがてダリオ・バルダンベンボ(Dario Baldan Bembo) がキーボード、ドラムのフリオ・ボッゼッティ(FurioBozzetti)が加わります。
マウリツィオとファブリツィオとして70年デビューし、翌71年彼らはサンレモ音楽祭に“恋するふたり(Andata e ritorno)”でプロタゴニスティ(Protagonisti)がパートナーで出場しました。ラ・ビオンダ兄弟もバック・バンドとして出演しました。(Panini出版EddyAnselmi編 Festival di Sanremo p.752)
71年はバンドの出場が多いのを嫌ったのか、マルクとマルタ (Mark & Martha)も実際はスフラッシュ (The Splash)というバンドでしたが、デュエット扱いにされています。
ラ・ビオンダも影の存在としてサンレモ音楽祭の舞台に上った彼らですが、表舞台に出るにはもう少し時間がかかります。ライターとしての仕事が先で、71年4月に出たカマレオンティのシングル盤B面の曲“Il Primo Del Mese”を兄弟と作詞家ルイジ・アルベルテッリ(LuigiAlbertelli)が作っています。
アルベルテッリを中心にファブリツィオ兄弟、ダリオ・バルダンベンボ、ブルーノ・ラウツィらとライターの仕事を広げていきます。
ウィキペディアではスタジオ・ミュージシャンをしながら、現代音楽と新しいトレンド音楽祭(I Festival di musica d'avanguardia e di nuove tendenze)に出場したことになっています。音楽祭のウィキペディアでは、71〜74年までローマのタイタン・クラブで開催されたようで、日本で知られているプログレ、イタリア・ロックの面々が名を連ねていますが、ラ・ビオンダの名前は見つかりませんでした。
ラ・ビオンダ兄弟は72年リコルディと契約し、レコードを出しています。プロデュースと作詞をブルーノ・ラウツィ、ラ・ビオンダ兄弟が作曲したアコースティックなフォークのアルバムでした。7、9が演奏のみで、バルダン・ベンボがキーボードを担当、6にエウジェニオ・フィナルディ(Eugenio Finardi) がハーモニカで参加しています。79年再発売のジャケットは写真を使ったものでした。
SMRL-6099 (1972年12月 Ricordi - Dischi Ricordi) FratelliLa Bionda s.r.l.
1.Il Primo GiornoDell'Anno
2.La Diligenza
3.Che DispiacereQuesta Città
4.Il Coniglio Rosa
5.Al Nord
6.Io E Zaffaroni
7.Stills [strumentali]
8.Devo Andare
9.Rag. [strumentali]
10.Al Mercato DeiFiori
11.Il Primo GiornoDell'Anno (Ripresa)
SMRL-6099
SRL-10・698(1973年Ricordi - Dischi Ricordi) Chi (È Più Solo DiCosì)/Fragole e Nostalgia ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照
アルバムと同じメンバー、A面がブルーノ・ラウツィ作詞、ラ・ビオンダ兄弟の作曲、B面は二人の自作です。