★マウリツィオとファブリツィオ (duo) Maurizio & Fabrizio
1970年代初頭に活動していた兄弟デュオ・チーム。
5205(CBS)

・ファブリツィオ (Fabrizio)
本名サルヴァトーレ・ファブリツィオ(SalvatoreFabrizio)1948年8月30日にミラノ生、歌手、作詞・作曲家、音楽プロデューサー。芸名ポピ(Popi)としても知られています。
所属レコード会社:CBS, Fonit Cetra
サンレモ音楽祭出場1回:1971年参加
サンレモ音楽祭出品1曲:1985年新人部門8位海の歌(Sul mare)
・マウリツィオ (Maurizio)
本名マウリツィオ・ファブリツィオ (Maurizio Fabrizio) 1952年3月16 日ミラノ生、歌手、ギタリスト、作曲家、指揮・編曲者、音楽プロデューサー。仇名ムーシ (Mushi)は余り使われず。
所属レコード会社:CBS
サンレモ音楽祭出場1回:1971年参加
サンレモ音楽祭出品33曲(内優勝3曲):1971年参加“飛行船(Il dirigibile)”、80年入賞“あなたへのうた(I sing for you)”、82年優勝“過ぎ行く日々の物語(Storie di tutti i giorni)”、同入賞“愛はめぐりあい(Romantici)”、83年優勝“いつか愛の日が(Sarà quel che sarà)”、同24位“Arriva arriva”、85年4位“いつまでも君を(Sullabuona strada)”、86年13位“愛の星(Amore stella)”、同20位“愛の花びら(Brividi)”、同新人部門優勝“大きな愛(Grande grande amore)”、同新人部門6位“Ma non finisce mica qui”、87年12位“恋のパピオン(Destino)”、同15位“海の芳り(L'odoredel mare)”、89年9位“宇宙の中であなただけ(Almeno tu nell'universo)”、同19位“きのうにサヨナラ(A cheservono gli dei)”、90年入賞“Bisognerebbe non pensare che a te (Give me a reason)”、同新人部門入賞“L'età dell'oro”、91年入賞“Io ti prego di ascoltare (Listen to me)”、同入賞“大地(Terra)( You're on my mind)”、92年10位“In una notte così”、93年新人部門参加“Ci vuole molto coraggio”、96年第3位“不思議な私の運命(Stranoil mio destino)”、同7位“これが私の人生(E' lamia vita)”、同19位“Romanzo”、98年第3位(新人部門第2位)“いつでも(Sempre)”、2002年13位“Del perduto amore”、05年4位“Che mistero è l'amore”、同入賞“Da grande”、06年入賞“Lei ha la notte”、07年第3位“Schiavo d'amore”、07年新人部門入賞“Il Senso della vita”、09年入賞“L'AMORE E' SEMPRE AMORE”
弟マウリツィオは、幼い11才からミラノのジュゼッペ・ヴェルディ音楽院に入り、ピアノ、作曲法、打楽器、ファゴットとコントラバス等クラシックの教育を受け、やがて弟はドラムとギターに興味を持つようになります。
弟はミラノの音楽院に在籍し、兄サルヴァトーレは建築を勉強していました。二人は長い時間音楽に情熱をかたむけ、最初の曲“Come Il Vento (風のように)”を作曲していました。そして色々なレコード会社のオーディションを受けます。
1969年9月29日午後、オーディションを受けるため、サール(SAAR)・レコードのミケーレ・デル・ヴェッキオ(MicheleDel Vecchio)のオフィスに訪れ、最初の曲を歌った時から『コメ・イル・ヴェント』の構想は始りました。
ミケーレこそが後にファブリツィオ兄弟と意気投合し、彼らの仲間を巻き込み『コメ・イル・ヴェント』というユニークな名前のレコード会社を興し、ヌメロ・ウーノに対抗する会社となっていきます。
オーディションの1ヶ月後、即感かつ本能的な感覚でミケーレは、ドゥオーモの東、ピアッツェッタ・パッタリに『コメ・イル・ヴェント』という小さな音楽出版社のオフィスを構えました。
ファブリツィオ兄弟は学校を止め、音楽活動に専念します。二人は夢見心地で近所で同世代の音楽仲間と祝賀会を開き、ビートルズの曲を演奏します。サルヴァトーレがベース、マルリツィオがドラム、二人の仲間がギターを弾きます。
ギターの二人はミケランジェロ(Michelangelo)とカルメロ・ラ・ビオンダ(CarmeloLa Bionda)の兄弟でした。後にラ・ビオンダ、D.D.サウンドとしてイタリアン・ディスコの代表的存在となります。
数週間後、二人のキーボード奏者が加わります。フリオ・ボッゼッティ(Furio Bozzetti)とダリオ・バルダンベンボ(DarioBaldan Bembo)です。70年代の『コメ・イル・ヴェント』支えた人たちです。
弟マウリツィオが俄然、曲作りに励みました。ミケーレは二人をレコード会社と契約できるよう取り計らいます。狙ったのはイタリアで本格展開をしたいCBSでした。
リコルディからナンニ・リコルディと共に追放されたフランコ・クレパックス(Franco Crepax)はCGDに移り芸術監督に成りました。CBSがCGDに出資しCBSシュガーとなる前年の69年にはクレパックスはCBSレーベルの芸術監督をしていました。彼はファブリツィオ兄弟をイタリアのサイモン&ガーファンクルにしようと考えました(日本なら差詰め狩人か)。
兄ポピ(PopiまたはPopy)と言う名前で歌手をし、コーラスのノーラ・オルランディの妹パオラ・オルランディが作ったミラノ4+4という合唱団のメンバーでもありました。
二人はその頃ミラノ4+4から発展、結成された音楽集団パルティチェッレ(Le Particelle)にも参加します。そこには71年サンレモ音楽祭で同じ初出場をするセルジョ・メネガーレ (Sergio Menegale)も参加しています。
5205(CBS) (1970年CBS – CBS Sugar)Come Il Vento (風のように)/Neve ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照
兄弟デュオ、マウリツィオとファブリツィオは自分たちそのものといえる曲“Come Il Vento (風のように)”でデビューしました。
1970年のヴェネチア国際音楽祭銀のゴンドラでデビューしたマウリツィオとファブリツィオは、もう1曲弟がルイス・アルベルテッリの詞に作曲した“恋のとりこ(Malattia D'Amore)”をドナテッロ(Donatello)が歌い優勝しました。
SRL-10・609 (1970年10月 Ricordi - Dischi Ricordi) Malattia D'Amore (恋のとりこ)/Storia di Un Fiore (花のものがたり)
DW-1029(1971年1月15日 RICORDI – 日本グラモフォン) 恋のとりこ (MALATTIA D'AMORE)/花のものがたり(STORIA DI UN FIORE)
俄然ライターとしての実力が認められ、早くも翌71年のサンレモ音楽祭に“恋するふたり(Andata e ritorno)”でプロタゴニスティ(Protagonisti)がパートナーで出場しました。
サンレモ本によるこのデュオは「フロントマン」でバックの音楽仲間ラ・ビオンダ兄弟も71年サンレモの舞台に上がっていたとのことです。
また71年のサンレモにはライターとしてアンナ・イデンティチとアントワーヌが歌った参加曲“飛行船(Il dirigibile)”を作詞アルベルテッリ、作曲マルリツィオ・ファブリツィオとして出品しています。
7045(CBS) (1971年2月CBS – CBS Sugar) Andata e ritorno (恋するふたり)/Marzo
7045(CBS)
7418(CBS)


7418(CBS) (1971年CBS – CBSSugar) Acqua Fresca , Viole e Sentimento /La Prima Volta
“Acqua Fresca , Viole e Sentimento”はYou-Tubeの動画で存在確認がとれました。
7427(CBS) (1971年CBS – CBSSugar) Campagna Senza Fiori/Attenzione Occasione
“Campagna SenzaFiori”はピクチャー・スリーブの画像が探し出せていません。レコードは売れなかったようです。彼らの所属していたパルティチェッレも72年頃には活動停止をし、彼らはライター、プロデューサー能力が勝る事を自覚し、二人はデュオ・チームも解散したもようです。
※パルティチェッレのメンバーしての資料はこの項最後にある『ご参考』
70年9月当時の人気バンド、ディク・ディクがマウリツィオの曲“Vivo per te”をシングル盤(SRL-10・610)で出してくれました。
SRL-10・610 (1970年9月Ricordi - Ricordi) Vivo per te/Quattro bicchieridi vino
SRL-10・610 SRL-10・613
SRL-10・613 (1970年10月Ricordi - Ricordi) Vivo perte/Dove vai
72年共作の中に兄弟も加わったノマーディの夏のディスク出場曲“ぼくはバガボンド(Io Vagabondo)”が入賞、弟は作詞家アルベルテッリと作ったピエロとコットン・フィールズ(Piero e Cotton Fields)が歌った“海のふたり(Due DelfiniBianchi)”も出品しました。
同年ミア・マルティーニのセカンド・アルバム「Nel Mondo, Una Cosa (カンツォーネのプリマドンナ)」に初めて曲の提供“恋人たち (Amanti)”を、仲間のバルダン・ベンボは“私ひとりで(Donnasola)”、“船(La nave)”をラ・ビオンダ兄弟と一緒に“もうひとりの男(Unuomo in più)”、“いとしいあなた(Piccolo uomo)”、ラ・ビオンダ兄弟単独で“白い雪(Nevebianca)”の作曲を担当し、72年年間ヒット・ランクに“いとしいあなた”が15位、が“私ひとりで”同23位、年間ベスト・アルバムで33位になるなど『コメ・イル・ヴェント』は大いに貢献しました。