久々のインテルメッツォです。時に応じて入れようかと思うのですが、途中の息抜きの暇もなく1969年のサンレモ音楽祭を書き終えた感じです。今日紹介するイタリアの女流プロデューサー、マラ・マイオンキの名前は以前に出したのですが、覚えていらっしゃるでしょうか?
★マラ・マイオンキ Mara Maionchi
1941 年 4 月 22 日ボローニャ生、レコード・プロデューサー、テレビ・パーソナリティ。

1959年マラは学校を卒業し18才、独立心が旺盛な彼女は進学することなくタバコの葉の殺虫剤を製造している会社に就職しました。その後、国際的な運輸会社に転職をしています。66年火災保護製品の会社に勤めるためミラノに引越してきました。
67年新聞にアリストン・レコードの求人広告が載っていたので応募し、社主のアルフレド・ ロッシ(Alfredo Rossi)の面接を受け、彼の秘書として雇われることになりました。この時から彼女は幸運の波に乗ることになります。
仕事は社長秘書で、アリストンの広報担当の仕事をします。ちょうどその頃、フランスのソルボンヌ大学出身のインテリ歌手、ジェノヴァ派カンタウトゥーリのデーヴァ的存在、オルネラ・ヴァノーニがリコルディからアリストンに移籍したところで、マラの仕事とはこのヴァノーニとマリオ・ガルネラのプロモーション活動をすることでした。
ヴァノーニもアリストンに移籍後、歌手としてステップアップし、一般的人気のある歌手に成長したのは、マラ・マイオンキの影響があり、マラ自身もプロモーターとして成長した時代でした。この頃の彼女の仕事を、プロデューサーとつい書いてしまうのですが、音楽プロデューサーというよりは、アーティスト・プロモーターというべき仕事をしたと思われます。
AR-0244 (1968年2月 Ariston - Ariston) カーザ・ビアンカ(Casa bianca)/Serafino(セラフィ-ノ)
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AR-0244 (1968年2月 Ariston - Ariston) Quandom'innamoro(愛の花咲くとき)/Cielo mio(私の空)
彼女はもう一つ大きな仕事をしています。68年サンレモ音楽祭に出場を予定していたアリストンの若手人気歌手アンナ・イデンティチに強力な楽曲を獲得してきます。ジリオラ・チンクェッティのサンレモ出場のために書かれた“愛の花咲くとき(Quando m'innamoro)”と“夕べのしあわせ(Sera)”の2曲を選択の結果、チンクェッティは“夕べのしあわせ”をサンレモ音楽祭出場曲に決めました。
マラは“愛の花咲くとき”をイデンティチにもたらしました。“愛の花咲くとき”は年間ヒット・ランク49位の大ヒット、一方“夕べのしあわせ”は同100位以内に入りませんでした。マラは音楽産業の経験はなかったものの天性の素質を持っているのが認められ、レコード会社を変わりながら大プロデューサーになっていきます。
69年人気カンタウトゥーリ、ルチオ・バッティスティ(Lucio Battisti)と作詞家、プロデューサーのモゴール(Mogol)が新会社ヌメロ・ウーノ(NumeroUno)を起ち上げた時にアリストンから転職をしました。仕事はプロモーション担当の責任者でした。74年ヌメロ・ウーノの経営権がRCAイタリアーナに移った後、75年に作曲家と仕事をした経験を踏まえリコルディに移りました。
翌76年マラは多くアリストンの仕事に係り、アルバトロスが歌った77年サンレモ音楽祭優勝曲“涙の日曜日(BELLA DA MORIRE)”の作詞家アルベルト・サレルノ(Alberto Salerno)と結婚、二人の娘ジュリア(Giulia)とカミッラ(Camilla)を授かります。彼女にとってこの結婚も将来大きな影響を及ぼします。
彼女はリコルディでも広報担当支配人の仕事に就き、ヌメロ・ウーノ在籍中の74年頃に知り合ったジャンナ・ナンニーニ(Gianna Nannini)をリコルディと独占契約をさせ、またウンベルト・トッツィ(Umberto Tozzi)も歌手として世に送り出しました。
ORL-8741 (1976年 RICORDI - RICORDI) 30cmLP GIANNA NANNINI (ジャンナ・ナンニーニ)
ORL-8741
MWF-1002


MWF-1002 (1976年8年RICORDI -ポリドール) 30cmLP追想 (UN ALTRO GIORNO CON ME)
既存の歌手ではミア・マルティーニ(Umberto Tozzi)やファブリツィオ・デ・アンドレ(Fabrizio De André)のディレクターの仕事をしました。ミア・マルティーニはアルバム「追想」の制作で、会社側と意見が合わずリコルディを去ったという話もあるので、マラとそりが合わなかったのかもしれません。
一方エドゥアルド・デ・クレシェンツォ(Eduardo De Crescenzo)も担当し81年サンレモ音楽祭に“アンコーラ(Ancora)”を歌わせ、入賞、年間ヒット・ランク42位となる大ヒットにしています。この曲“アンコーラ”は日本でもオルネラ・ヴァノーニの歌で良く知られているのは、何か因縁があるのでしょうか。
SRL-10・933 (1981年2月 Ricordi - Ricordi) Ancora (アンコーラ)/Il treno
SRL-10・933

RAI子会社であったフォニット・チェトラはヒットを出す歌手が減り、経営が苦しくなっており、80年代に入りリコルディの支援を受けていました。その一環かどうかわかりませんが、83年フォニット・チェトラに芸術ディレクターとして招かれました。ここで“ナポリ音楽の世界大使”と言われたレンツォ・アルボーレ(Renzo Arbore)などを担当しました。
しかしマラは83年独立し、夫アルベルト・サレルノと自分たちの会社を起上げることにしました。名前はジリオラ・チンクェッティの歌った64年サンレモ音楽祭の優勝曲と同じ「夢みる想い(Non Ho L'età)」、またなぜ?と思われるかもしれません。
アルベルト・サレルノの父はニコラ・サレルノ(Nicola Salerno)すなわち有名作詞家ニーサ(NISA)。当時新進作曲家ジーン・コロネッロ(GeneColonello)が2曲目の“夢みる想い(Non Ho L'età)”を出品したいために名義借りした作詞家ニーサなのです。シニカルにもその曲名をアルベルトとマラは父へのオマージュとして会社名につけたそうです。
2007年新人発掘レーベルとして「夢みる想い(Non Ho L'età)」を使いCD制作も始めました。最大の功績は不遇であった通称TZN、ティツィアーノ・フェッロ(TizianoFerro)をスペイン語、英語、フランス語、ポルトガル語で歌える才能を生かし、特に中南米に圧倒的な人気を誇る歌手として育てたことだと言われています。
そして近年マラ・マイオンキの有名になります。新たな彼女の顔、それはテレビ・パーソナリティとしての存在です。
イタリアのRAI2の人気新人発掘番組「Xファクター(XFactor)」の審査員として出演してからです。イギリスで大人気の番組を国営放送局RAI2やスカイ1等が放送したイタリア版ですが、今までの音楽プロデューサー、プロモーターとしての経験を生かした辛口のコメントが大人気となったようです。日本では沖縄テレビが沖縄版を制作しています。
また2013年の優勝者マルコ・メンゴーニ(Marco Mengoni)も2009年第3回「Xファクター」の優勝者でした。
しかも彼女は2010年Xファクターを種にしたラップ曲も出しています。
