★ジュシー・ロメオ (vf) Giusy Romeo; ジュニ・ルッソ (Giuni Russo)
本名ジュゼッパ・ロミオ (Giuseppa Romeo) 1951年9月7日シチリアのパレルモ生、2004年9月14日ミラノ没。自作自演歌手、作曲家。後にジュニー・ルッソ (Junie Russo)、ジュニ・ルッソ(Giuni Russo)と言う芸名を使います。
SCMQ-7082
父ピエトロ・ロミオはバリトンの声楽家、母はソプラノ・ナトゥラーレの声楽家で歌劇で評価を受ける家庭に9人兄弟の末っ子として生まれました。彼女は幼い時から歌うことや作曲することが自然の環境でした。わずか13才でパレルモにあるポリテアーマ劇場(Teatro Politeama)野外音楽堂の舞台に立ち、音楽の道に足を踏入れます。
1967年カストロカーロ祭に、彼女はファウスト・レアーリのその年大ヒット曲した“涙の想い(A chi - Hurt)”を歌い、エリオ・ガンドルフィ(Elio Gandolfi)と共に優勝しました。
翌68年第18回サンレモ音楽祭の出場権を得て、“ノー・アモーレ (No amore)”をフランスのサッシャ・ディステル (Sacha Distel)をパートナーで歌いましたが、入賞することはできませんでした。
その後68年に2枚のシングル盤が発売されましたが、いずれもヒットすることは有りませんでした。2枚目のA面はパラヴィッチーニの詞にアル・バーノが作曲し、フェスティバル・バール新人部門とカンタジーロ・ジローネBに出場した“波”は入賞しませんでした。
SCMQ-7095 (1968年 Columbia – V.C.M.) L'onda (波)/Lui e lei
SCMQ-7095
SCMQ-7118


SCMQ-7118 (1968年 Columbia – V.C.M.) I primi minuti (I Say A Little Prayer小さな願い)/Fumo negli occhi (Smoke Gets In Your Eyes – 煙が目にしみる)
3枚目のシングルは作曲がバート・バカラックでディオンヌ・ワーウィックらがヒットさせた“小さな願い(I Say A Little Prayer)”と“煙が目にしみる (Smoke Gets In Your Eyes)”のイタリア語カヴァーでした。ジュシ―のレコードは注目を集めることなく忘れ去らました。またジュシー・ロメオ名のレコードもこれが最後となりました。
コロムビアとの契約終了後空白の7年が経過します。その間何が起こっていたかというと、彼女はナポリに本社が有るアルコバレーノというマイナー・レーベルに3枚分の録音をしますが、売れる見込みがなかったため発売されませんでした。レコード番号として確認されたのはARC-2073、ARC-2074を含む3枚で曲は“Eravamo bambini ”(Specchia-De Paola-Chiaravalle)、 “Estate mia” (Bornice-De Paola-Chiaravalle)と“ Passione” (Zanin-Chiaravalle).でした。
69年ミラノに移ります。そこで36年間人生の喜びや苦しみと芸術の幸せな共有する音楽家マリア・アントニエッタ・シシーニと出会うことになります。70年7月、ジュシーは「パレルモ70ポップ・ フェスティバル」で8万人の観客の前にして歌を披露しています。
72年ロザンナとフラビア・バルダッサリ(Rosanna e Flavia Baldassari)が作るドゥオ・ラ・メタモルフォシ(il duo La Metamorfosi)とイル・バレット・ディ・ブロンゾ(Il Balletto di Bronzo)のアルバム“YS(イプシロン・エッセ)”の製作に参加、同年アドリアーノ・チェレンターノのアルバム“I mali del secolo”のコーラスにも加わっています。。
23MM-0149 (1982年4月 POLYDOR – ポリドール) YS(イプシロン・エッセ)(YS/IL BALLETTO DI BRONZO)
23MM-0149 

74年ドイツのレコード会社バスフのイタリア部門と契約を結びます。新たなレコード会社の門出に、イタリア系アメリカ人歌手として国際市場に売込むため芸名もジュニー・ルッソ (Junie Russo)に変えました。彼女の初めてのアルバムは全曲英語で歌う“Love Is a Woman”の中から“Milk of Paradise”がシングル・カットで発売されました。
06-13325・Q (1975年 BASF – SASEA) Milk of Paradise/I've Drunk in My Dream
06-13325・Q
21-23326・Q


21-23326・Q (1975年 BASF – SASEA) 30cm LP “Love Is a Woman”
アルバムはクレジットされていませんがジャズ・トランペッターのエンリコ・ラバ(Enrico Rava)、ベースのマイケル・ローガン(Michael Logan,)が参加していました。P.P.アーノルドのカヴァ―曲“Everything Is Gonna Be Alright”このアルバムからもう1曲“Vodka”をシングルカットし、もう1枚シングル盤が発売されています。
06-13330・Q (1975年 BASF – SASEA) Everything Is Gonna Be Alright/Vodka
06-13330・Q
CD-4506


もう1枚はマイナー・レーベルのギブリ(Ghibli)からイタリア語のシングルをだしています。
CD-4506 (1975年 Ghibli – SE.DI) In trappola/Lui nell'anima
Ld・A-7950 (1976年 DURIUM – DURIUM) Mai/Che mi succede adesso
76年久々のメジャーからのリリースとなります。またジュニー・ルッソ(Junie Russo)名義での最後の盤となりました。“Mai”は再開した1977年カンタジーロの出場曲です。 同年彼女はマリー・アントニエッタ・シシーニとクリスティアーノ・マルジョリオと共作でリタ・パヴォーネに“Triangolo d'amore”、イヴァ・ザニッキに“Selvaggio”を提供しています。
Ld・A-7950
T-12290


約2年後、芸名をジュニ・ルッソ (Giuni Russo)と変えて78年WEAイタリアーナのエレクトラ・レーベルからシングル盤をリリースします。TVの歌番組などで歌いシングル盤の売上げに貢献します。
T-12290 (1978年 Elektra – WEA Italiana) Soli noi/La chiave
79年から80年にかけてはマリー・アントニエッタ・シシーニと一緒に歌手フィリッポニオ (Filipponio)とコラボレーションをして、彼女自身はヴォーカリストとして関わっていました。
81年歌手ジュニ・ルッソに大きなチャンスが巡って来ます。新たなアルバムの制作です。
CGD-20269 (1981年 CGD – CGD) 30cm LP “Energie”

1.Lettera al governatore della Libia - 3:12 (F. Battiato - G. Pio)
2.Il sole di Austerlitz - 3:59 (F. Battiato - A. Radius)
3.Crisi metropolitana - 3:28 (F. Battiato - G. Russo - M.A. Sisini)
4.Atmosfera (大気) - 3:54 (F. Battiato - G. Pio)
5.L'addio - 4:48 (F. Battiato - G. Di Martino - I. Avalli)
6.Una vipera sarò - 3:30 (F. Battiato - G. Russo - M.A. Sisini)
7.L'attesa - 2:49 (F. Battiato - G. Russo - M.A. Sisini)
8.Tappeto volante - 3:03 (F. Battiato - G. Russo - M.A. Sisini)
今まで彼女自身とマリー・アントニエッタ・シシーニ、クリスティアーノ・マルジョリオと共作の曲を歌っていました、フランコ・バッティアート (Franco Battiato)とジュスト・ピオ (Giusto Pio)を中心とした曲を彼らが編曲したアルバムでした。この二人は既にジュニと同じような経過をたどっていたカルラ・ビッシをアリーチェとして再生していました。
彼女は初めて年間ランキングに載る大ヒットを放ちます。アルバムと同じバッティアートとピオの作品“ひと夏の海”が82年の25位にランクされました。
CGD-10401 (1982年 CGD – CGD) Un'Estate Al Mare (ひと夏の海)/Bing Bang Being
CGD-10401 

この後、イタリアを代表する歌手となり、2003年サンレモ音楽祭で“Morirò d'amore (Le tue parole)”で7位入賞を果たします。最後のサンレモ音楽祭出場時には病状が進行していたようで、2004年9月14日夜ミラノの自宅で亡くなりました。享年53歳早すぎる死でした。
ジュシー・ロメオ(ジュニ・ルッソ)の国内盤はありません。