★シャンソンの友 (coro=f) Les Compagnons de la Chanson
第二次世界大戦中の1941年リヨンで結成されたたフランスのボーカル・グループで1985年2月14 日最後のコンサートをして活動を終結。

メンバー(3声9人)
・ジャン・ルイ・ジョべール (Jean-Louis Jaubert)バス、リーダー
本名ルイ・ラザール・ヤコブ(Louis-Lazare Jacob)1920年8月29日フランス東部ドイツ国境に近いミュールズ生、2013年6月3日パリ没
・ジョー・フラション (Jo Frachon) バス
1919年8月14日フランス東南部山中の小さな町ダヴィジュー生、1992年2月10日パリ没
・ユベール・ランスロー (Hubert Lancelot) バリトン
1923年9月11日リヨン生、1995年3月7日リヨン没
・フレッド・メラ (Fred Mella) テノール
1924年3月10日リヨンの南にある小都市アノネー生、両親はイタリア人、ルネ・メラの兄
・ルネ・メラ (René Mella) テノール
1926年6月6日リヨンの南にある小都市アノネー生、両親はイタリア人、フレッド・メラの弟
・ジェラール・サバ (Gérard Sabbat) バリトン
1926年9月26日リヨン生、2013年2月2日パリ郊外トリエル・シュル・セーヌ没
・ギイ・ブルギニョン(Guy Bourguignon) バス
1920年7月26日フランス中部の小都市チュール生、1969年12月31日パリ没
・ジャン・ブルッソール (Jean Broussolle) バリトン
1920年12月15日リヨンの南にある町サン・ヴァリエ生、1984年3月22日コート・ダ・ジュールのアルル没
・ジャン=ピエール・カルヴェ (Jean-Pierre Calvet) テノール
1925年2月12日マルセイユの北にある小さな町プラン・ドルゴン生、1989年2月16日パリ没
1941年Louis Liébardがリヨンで8人の若者で作ったコーラスグループCompagnons de la Musiqueがシャンソンの友の始まりです。ドイツ占領下で古いフランスの民謡を歌う9人の合唱団として活動をしていました。
44年エディット・ピアフのオランピア公演に参加したのが彼らの成功の始まりでした。46年ピアフの“谷間に三つの鐘が鳴る(Les Trois Cloches)”が世界的大ヒットになり、彼らもバック・コーラスで参加しており、ピアフのアメリカ公演など行動を共にし、演奏活動をしていました。
彼らは戦後初期の頃・ピアフと行動を共にしていたのでレコード会社は仏コロムビア(EMI France)に所属し、60年代初めはポリドール、60年代後半はCBSに所属、その後70年代に入るとソノプレス、フィリップスと移籍していきます。
67年サンレモ音楽祭に出場した時は、CBSに移籍した頃で新しいレパートリーを開発しており、イタリアの音楽祭にも出たと思われます。元々歌の質は高く、美しいハーモニーと各メンバーの人柄が表れたコーラスで定評がありました。
69年ギイ・ブルギニョンが急死し、彼らの中の意思疎通に問題が起こり、72年ジャン・ブルッソールが脱退、メンバーが変わっていきました。83年5週間のオリンピア劇場コンサートを成功させ、1985 年2月14日のコンサートを最後に彼らの活動を終えました。
シャンソンの友のイタリア関係国内盤
LL- 1044・C (1967年5月 CBS COLUMBIA - 日本コロムビア) バラのほほえみ (IO, TU E LE ROSE)/囚人 (IL PRIGIONIE'RO)
LL- 1044・C

★ボビー・ゴールズボロ (vm=a)) Bobby Goldsboro
本名ロバート・ゴールズボロ(Robert Goldsborough,)1941年1月18日米国フロリダ州マリアンナ生。アメリカの60、70年代のカントリー、ポップス自作自演歌手。
GXC- 71

ゴールズボロの家族はマリアンナから35マイル北のドーサンに引越しました。彼は1959年にドーサンの高校を卒業し、オーバーンの大学に入学しますが、2年生の時に音楽の道に進みたくなり、大学を辞めます。そして62年から64年までの2年半、ロイ・オービソン(Roy Orbison)のギタリストとして働きました。
61年ウェブス(The Webs)のヴォーカル、ギタリストとして2枚4曲をマイナー・レーベルから出しているようです。
62年12月ルーリー(Laurie)から“Molly”/“Honey Baby”からを出したレシングルが幸運にもチャートの70位になるちょっとしたヒットになりました。 その後もルーリーから“” Lonely Traveler/“You Better Go Home”、“Light the Candles”/“That's what love will Go”、“The Letter”/“Runaround”を出しましたが最初のようにヒットすることはありませんでした。
63年の後半ユナイテッド・アーティスツに移籍しました。移籍第一弾が彼の歌手生活2番目の大ヒットになります。(“ハニー”が一番のヒットですから、それまでは彼の最高のヒット曲だったと言えます。) これが国内盤デビュー・シングルでもありました。
LL- 568・UA (1964年5月 UNITED ARTISTS - 日本コロムビア) ひとりぼっちのクラウン (SEE THE FUNNY LITTLE CLOWN)/恋のぬけがら (HELLOW LOSER)
LL- 568・UA

このヒット以降64年から66年までリリースした曲でホット100にランク・インできなかった曲は2曲で、この間、国内盤の契約のあった日本コロムビアは、ホット100に入った曲はすべてシングル盤を発売していました。しかし日本コロムビアはユナイテット・アーティスツの契約が68年初頭まであったにも関わらず、67年以降はゴールズボロのシングルを出していません。売れていなかったようです。
そして67年彼は唯一のサンレモ音楽祭に出場し、ドナテラ・モレッティ(Donatella Moretti)のパートナーとして“想いをこめて(Una ragazza)”を歌いましたが、この国内盤は発売されていません。残念なことです。日本の発売権はキングに移ります。皮肉なことに68年2月17日リリースされた“ハニー”は4月から5月にかけて大ヒットで、遂にホット100のナンバー・ワン・ヒットになりました。
HIT-1521 (1968年5月20日 UNITED ARTISTS – キング) ハニー (HONEY)/ダニー (DANNY)
HIT-1521

ボビー・ゴールズボロはイタリアで年間ランキング100位以内のヒット入りませんでしたが、週間ランキングでは4週ランクイン、最高29位に入りました。またボビー・ソロなどもこの曲をカヴァーしています。彼は76年までユナイテット・アーティスツに在籍し77年エピックに移籍、78年ヴィスタへ、、そして80、81年はCBSカーブと契約しますが、82年歌手を引退しました。作曲、著作活動や油絵の画家となり画廊を経営し絵画の販売をしています。
ボビー・ゴールズボロのイタリア関係国内盤はありません